8.乱入者
私はその瞬間、死神に肩を触れられたような感覚に襲われました。ゆっくりとイタチの爪が私に迫り、避けなくてはならないのに私の体は全身に枷を嵌められたように重くて動きません。イタチは決して弱っていたのではありません、優位に立ったと私たちに誤認させて、油断したところを仕留めようとしていたのです。まんまと罠にはまってしまいました……
ああ、これで全てが終わってしまいます。フェンリルの暴威に晒される前に、イタチによる蹂躙でミルキアは、ミルーカは壊滅してしまいます。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか……私はこの怒りをどこにぶつければいいのでしょうか。その間にもイタチの爪は私に迫ります。こんな無様な最期を晒してしまうなんて、私はミルーカ家の恥さらしですわね……
覚悟を決めて目を閉じると、不思議なことにイタチの爪はいつまで経っても私に届きません。何やら大きな鈍い音がしましたが、一体何が起こったのでしょうか? ゆっくり目を開けると、そこには見慣れた背中がありました。鬼人族特有の大柄な体に発達した筋肉、私たちのパーティでとても頼りになる戦士がイタチの爪を手にした大剣で弾いていました。
「バド……」
「早く下がれ! 大将が出張ってくるんじゃねえよ、指揮官は指揮官らしく一番後ろでどっかり腰を据えてやがれ!」
「は、はい!」
バドが私には一瞥もくれずに言います。いえ、振り向いている余裕がないのでしょう、イタチは距離をとり、用心深くバドのことを見定めていますから。もし振り向いていたのなら、その瞬間にイタチの餌食です。背中を向けてはいますが、張り詰めた筋肉から緊張感がひしひしと伝わってきます。
バドの言葉に従い、兵士を再び纏め上げます。再び魔法を撃ちまくりたいところですが、今はバドがイタチと肉薄しているので使えません。巻き添えでバドが魔法の直撃を受けたら今度こそ壊滅してしまいます。ですが兵士たちにバドを避けて魔法を撃てるような実力のある者はおりません。先ほどのように的を絞らずに乱れうちするならともかく、バドの動きを先読みしてイタチに魔法を当てるなんて、バドの戦闘時の動きをよく知る者にしかできません。一体どうしたら……
「ウィンドスラッシュ!」
「キイィッ!」
「いい援護だシェリー! その調子で頼む!」
私のそばにいたシェリーがいつの間にかイタチに近づき、風の魔法を放ちました。魔力障壁を持っていないイタチの体を浅く切り裂き、鮮血が飛び散ります。そうですわ、ここには精霊の加護を持つエルフのシェリーがいます。シェリーならバドの動きは把握していますし、何より魔法の腕もあります。特に速度の速い風魔法を得意とするシェリーであれば、イタチの動きを牽制することは十分可能です。
「カルア! 援護は私に任せて! 早く増援を頼んで! ここにいる人数じゃ破壊力が足りないわ!」
「わ、わかりましたわ!」
私が連れてきた兵士たちは練度は決して低くないですが、それでも我がミルーカを護る精鋭部隊には届きません。彼らはお父様が指揮する直属部隊、ですがこの獣を撃退するためならば力を貸してくれるでしょう。イタチはフェンリルのような神獣ではないのですから。
「伝令! お父様に伝令を! 南門に巨大な獣が襲来! 増援乞う!」
「はっ!」
伝令が弾かれたように屋敷のほうへと走ってゆきます。精鋭部隊が集結すれば、イタチとて撃退できるはずです。しかしそれまでは私たちだけでこの場を維持しなければなりません。バドとシェリーが何とか持ちこたえていますが、いつまでもこのままというのは都合よく考えすぎでしょう。彼らの体力が尽きてしまえば、すべてが終わってしまうのですから。ですが彼らに休息の時間などありません、休息はそのままイタチの回復につながるのですから。
「カルア様! 御館様より伝令です! 増援部隊はすぐに向かわせるとのことです!」
「よかった……」
増援部隊がくれば形勢も逆転するでしょう。イタチとてその攻撃全てを躱しきることなどできるはずもなく、やがて力尽きて倒れることでしょう。明らかに害意を持って侵入してくる獣を退治することに躊躇う彼らではありませんから。
やがて複数の足音がこちらに近づいてくるのが聞こえました。街を護るための出動であれば彼らも私に協力を惜しまないはずですし、バドとシェリーに力を貸してもらえば勝負は決まったも同然ですわね。恐ろしいイタチがどうして現れたのか、後々面倒な説明が必要になってしまいましたが、街が無事であることに比べれば軽いものです。
その間にもシェリーの魔法がイタチに傷をつくり、バドの大剣が爪の攻撃を弾きます。二人とてここで勝負を決められるほど簡単にいかないことは理解しているでしょう。ですがこの戦いはいずれ終わるということだけは報せないといけません。
「バド! シェリー! お父様直属の精鋭がこちらに向かっています! もう少しだけ堪えてください!」
「おう! もうそろそろしんどくなってきたところだ!」
「私もそろそろ魔力がきれそう!」
二人の返事もどこか明るく感じます。獣人族の力を十全に発揮する精鋭部隊の強さはバドなら見たことありますし、何より増援が来るとわかっただけでも嬉しいのでしょう。本来ならこのような巨獣相手にはもっと多くの兵士が連携して戦うのですから、こんな少数でここまで渡り合ったことが出来すぎなのかもしれません。ようやく終わりが見えたことで、一瞬の気の緩みが生じてしまったのかもしれません。
『何やら面白そうなことをしているな』
イタチに気を取られて、その気配に全く気付きませんでした。はるか天空から月光に煌く白銀の獣が舞い降りました。どうしてここにいるんですの? まだ約定の日には早いはずです、なのにどうして?
その姿を見て警戒の色を浮かべるイタチ、そして愕然とした表情のバドとシェリー。果たして私はどのような表情をしているのでしょうか。ですが確実に言えることは、これが神の遣わした救世主ではないということです。救世主は私たちのことを食べようとはしないはずですから……
『何だ貴様は! ここで何をしている!』
そうです、これが本性だと十分理解していたはずです。白銀の巨躯を持った神獣の本性は血肉に飢えた獣でしかないとわかっていたはずです。ただの災厄でしかないと。そしてイタチという災厄とともに、白き災厄はミルキアの街に降り立ちました。
イタチとの闘いに割り込んできたのは精鋭部隊ではなく、神獣フェンリルでした。
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