6.異形襲来
イタチはミルキアの街の周囲を探っていた。確かに腹は減っているが、今はまだ明るく本来の活動時間ではない。周囲の森で見つけた小さな獣を何匹か食べてみたものの、腹が満たされるには程遠い。しかしイタチは焦らない。ゆっくりと小さな獲物を置いておいた場所へと戻る。
何といってもあの小さな生き物が逃げていった先にはたくさんの獲物がいる。それは匂いでも明らかで、今ここで焦って逃げられでもしたら台無しだ。周囲に天敵の匂いは感じないが、わざわざ昼間に動いて余計な危険を呼び込む必要もない。もっと暗くなってから入り込めばあとは思う存分喰らうだけだ。
先ほどの場所に戻ると、置いておいた獲物の姿がない。どうやらあの獲物はまだ動けたらしく、逃げ出したようだった。だがそれでもイタチは怒らない、草むらに丸くなると、そのままゆっくりと眠りに入る。あの獲物の匂いは先ほど小さな動物が逃げ込んだ場所に向かっていた、となればもう少し待てばいずれ自分のものになる。まるで楽しみは後にとっておくものだと言わんばかりに、イタチは夜を待つべく目を閉じた。
陽が落ちて夜の虫たちが大合唱を始める頃、イタチは目を覚ました。ようやく自分の本来の活動時間である、身体の感覚も昼間とは比べ物にならないくらいに鋭敏になっている。そして鋭敏な嗅覚は風に乗って漂う匂いをはっきりと捉えた。その匂いはイタチの野生の本能をこれでもかと刺激した。今まで自分が幾度となく嗅いだ匂いにイタチは全身の血が沸き立つのをはっきりと感じていた。
生臭い鮮血の匂いはイタチにとって極上の獲物が風上にいる証拠である。抑えきれない捕食の衝動がイタチの脳を瞬時に支配し、より敏感になった五感で天敵の類の気配がないことを確認すると、その長いしなやかな身体を起こして駆け出した。行き先は小さな動物がたくさんいるであろう場所、血の匂いはそこから流れてきている。天空にある月が優しく周囲を照らす中、この世界では異形と称されるに相応しい凶獣がミルキアに向かって疾駆する……
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「準備はいいですわね」
街角に設置された街灯に魔法の灯りがぼんやりと光り、周囲をうっすらと照らしています。場所は南門付近の広場、シェリーの逃げてきた林がイタチという獣の住処だとすると、そこから一番近いのはこの南門です。きっとイタチはここから侵入してくるでしょうから、それを確定させるためにここで羊を一頭潰して血を流させました。獣ならばこの匂いに反応しないはずがありません。
「カルア、気を付けて。あいつは気配を殺すのがとても巧いわ」
「だが本当に来るのか? そんなにいきなり来るとは思えんが……」
「きっと来るわ、だってここにはあいつの怖がるものがないんだから」
質素な兵士服の上から支給品の革鎧を身に着けたシェリーが注意を促してきます。流石に丸腰でいさせることはできませんから、詰め所にあった兵士用の服と鎧を身に着けてもらいました。剣はシェリーの使う細剣を持つ者が兵士にいませんでしたので、大振り
のナイフを持たせています。バドは若干疑っているようですが、私はシェリーの言葉を信じます。彼女は一度イタチと相対したことがあるそうですから、彼女の予感は高い確率で当たると思います。
「羊を食べているところを狙いますわ、皆建物の陰に隠れましょう」
シェリーとバドを促して建物の陰に身を潜めます。この辺りの住人には兵士の訓練という口実を作って別の場所に移ってもらっており、私たちのさらに後方には十人ほどの兵士が身を潜めています。もし一撃で絶命させられなかった場合、一斉にかかって力押しで止めをさすことになるでしょう。
生ぬるい風が頬を撫で、いつになく嫌な気分にさせてくれます。それは羊の血の匂いが混ざった風だからかもしれません、本来ならこんなことでおびき出すようなことはしませんから。ですがこうして誘き出さなければ、いつどこで住人が被害に遭うかわかりませんので我慢しましょう。
「……何ですの、この匂いは」
不意に漂ってきた匂いに無意識のうちに全身が総毛だちます。その原因が何なのか、自分でもよく理解していますが、それを受け入れるのに少々時間がかかりました。というのも、あの戦場でフェンリルの匂いを嗅いだ時のような感覚が襲ってきていたのですから。フェンリルに匹敵するであろう何かが近づきつつある、そう理解した私は建物の影から顔を出して……そして見つけました。
街の防壁をいとも容易く乗り越えようとしている巨大な異形、長く伸びた胴体に短めの四肢、しかしその体はしなやかに動き、まるで滑るように入り込んできます。小さな黒曜石のような瞳が月の光に輝き、鋭い牙が口元から覗くその異形は私が見た如何なる魔獣とも異なる姿でした。しかし纏う空気は明らかに強者のそれであり、私は入り込まれるのをただただ無言で見ていることしかできませんでした。そう、あれがシェリーの恐れていたイタチなのでしょう。
イタチは若干の警戒をしていたようですが、周囲に人影がないと見るや、予想だにしない俊敏さで羊のもとへとやってきました。喉を裂かれて失血死した羊の体をその両手で掴むと、待ちきれないとばかりに頭から齧り付きます。ぶちぶちと羊の体が引きちぎられる音、ごりごりと骨を噛み砕く音、そしてくちゃくちゃと咀嚼する音が周囲に響き、吐き気を催すような音の責め苦に耳を塞いで逃げ出したい思いに駆られます。
イタチはそんな私を気に留めることなく食べ続けています。いえ、もしかするともう私の存在に気付いているのかもしれません。気付いていながら、圧倒的な力量差を理解しているのかもしれません。私たちに見つかったところで何が変わる訳でもなく、イタチにとっては獲物が増えた程度にしか見えていないのでしょう。そして私たち獲物などいつでも捕まえることができると思っているのかもしれません。
「……」
「ひっ!」
羊を食べ終えたイタチが私のことを見ました。小さな瞳の奥に獰猛な獣の本性を垣間見て、私の体が硬直します。あれは私たちを尊厳あるものとして見ている目ではありません、単なる食べ物として、虫けらと同等かそれ以下としてしか見ていない目です。フェンリルのような知性ある目ではなく、ただただ己の腹を満たすことを最優先で考える獣の目です。
ですが、ここでたじろいでいては街の住人に被害が及びます。食べられた羊に住人たちの姿が重なり、心の奥底から怒りが沸き上がってきます。そうです、このような相手に戦えないようでは、フェンリルを相手取ることすら敵いません。沸き上がる怒りを気力に変えて体の隅々までいきわたらせると、腹に力を込めて叫びます。
「全員! 抜剣!」
「「「 おおっ!」」」
もはや敵にこちらの存在がばれている以上、隠れていても意味がありません。私の号令とともに待機していた兵たちが勇ましい声を上げます。そう、これは私たちの街を護るための戦いです、相手は神獣ではなく異形の巨獣、勇猛さで知られるフロックスの兵士たちが立ち上がらないはずがありません。
「攻撃開始!」
私の号令を皮切りに魔法に長けた兵士の攻撃魔法が飛び、巨人の世界からやってきた異形との闘いが始まりました。
読んでいただいてありがとうございます。




