1.解き放たれた獣
新章です。12月24日に前章の最終話と閑話2話を差し替えていますのでご注意ください。
一体何が起こったのか、私にもわからなかった。突然体がふわりと浮いたと思ったら、突如強引に引っ張られて、その衝撃で失神してしまったから。でもようやくだけど状況が掴めてきた。この独特の獣臭、忘れたくても忘れられない。ソウイチさんの館に来て初めて遭遇した敵対生物、敏捷かつ柔軟な身のこなしで私の攻撃を躱してみせた獣。私のことを単なる食べ物としか見ていない異形の獣。そうイタチだ。あの時に味わった恐怖はしばらくの間夢でうなされたくらい私の心と体に衝撃を残した。
そのイタチが私のことを咥えてどこかへ連れ去ろうとしてるのはわかる。でも一体どこへ? 館の中にはこれだけイタチが走れるような場所は無かったはずなのに。
そして周囲に目をやれば、辺りは漆黒の闇の中。イタチは速度を緩めて確かめるようにしながら走ってるけど……これは間違いない、あのゲートの中だ。イタチは私を咥えてゲートに向かって逃げ込んだんだ。チャチャさんやソウイチさんから逃げるために。
でもちょっと待って、そうするとこの先にはカルアがいるはず。もしカルアにイタチが追いつくようなことがあれば、カルアの身にも危険が及んじゃう。カルアがどのくらいの速さで進んでるのかがわからないけど、フェンリルと戦う前にイタチと遭遇してしまったら大変なことになる。
そんな私の心配を他所に、イタチはどんどん進んでいく。カルアの姿は全く見えないけど、もしかして追い越してしまったのかな? そもそもこのイタチはどこまで歩いていくつもりなんだろう。私たちの世界にはイタチのような獣はいないので、仲間のところに行くという可能性はないと思う。
「あ……光……」
以前にも見た、ゲートを抜けるときに見える光。でも懐かしさなんて全く感じない、だってこんな風に無理矢理連れてこられて、嬉しいなんて思うはずがないもの。
イタチも出口が近いことを察したのか、歩く速度が上がる。と同時に闇が薄まり、次第に見覚えのある岩肌が目に付くようになってきた。間違いない、あのダンジョンの最下層の壁だ。私がドラゴンと遭遇したあの部屋だ。切り立った岩壁を見てイタチが引き返してくれることを願ったけど、それは叶わなかった。イタチはごつごつとした岩壁の凹凸に器用に爪をかけ、全く苦も無く登ってゆく。天空から降り注ぐ光が次第に強くなる。
「外……よね?」
ついにイタチがダンジョンの外に出た。そして私を無造作に口から離すと、涎に濡れて凶悪な輝きを見せる牙を見せつけるように大きく口を開く。もうお前に逃げ場はない、そう言われているような気がして体が強ばる。だって今の私は武装なんてしていない丸腰状態で、いつもの部屋着しか身に着けてないんだから。せめて剣だけでもあれば逃げるチャンスくらい作れるはずだけど、今はそれすら出来ない。じゃあ魔法で……ううん、イタチの身体能力は私も経験してるからわかる。きっと魔法を放っても当てることすら至難の業だ。
不意にイタチが私から顔を遠ざけて、何かをじっと見つめる。その視線の先にいたのは白馬に跨った女騎士の姿がある。特徴的な赤い髪もそうだけど、あの白馬も何度か見たことがある。カルアが仔馬の頃から世話をしてたっていう馬だ。きっとカルアがダンジョンに逃げ込んだ時、周囲で魔物をやり過ごしながらずっとカルアが帰ってくるのを待っていたのかもしれない。
一瞬、イタチが笑ったように見えた。そして動けないでいる私を再び咥えると、カルアが走り去る方向へとゆっくり歩き始めた。こんな巨体にもかかわらず全く足音を立てず、気配を殺してカルアの後を追う。もしかして……このイタチの狙いはミルキアの街?
ダメ。絶対にダメ。ミルーカは獣人の国、身体能力の高い住人が多いけど、老人や子供、身重の女性は動きも遅い。そんなところにこのイタチが乱入したら……ミルキアの街はどうなってしまうんだろう。果たして魔法も躱すような獣相手に、カルアやその私兵たちで太刀打ちできるのかな。
「カルア! ミルキアに戻っちゃダメ!」
声を振り絞るけど、私の声はカルアには届かない。その間にもイタチはカルアの後ろ姿を追う。カルアが焦っているせいなのか、それともイタチが狡猾なのか、はたまた運命の悪戯か、風はカルアを風上にして吹いている。もしこれが逆だったのなら、獣人の優れた嗅覚を持つカルアならイタチの存在に気付くはずなのに……
きっとカルアの頭の中はミルキアに戻ることでいっぱいなのかもしれない。フェンリルという強大すぎる相手との決死の戦いを控えて、どうすれば一矢報いることが出来るかをずっと考えているのかもしれない。カルアを乗せた白馬はさらに速度を上げて街へと走り続ける。さすがにイタチも同じ速さで走ることが出来なくなったらしく、しばらくして足を止めた。もしかして諦めてくれたの?
そんなことを考えた私が馬鹿だった。小さな林に身を潜めたイタチがじっと見据える先にはミルキアの街の防壁があり、その上ではカルアが戻ってきたことで慌ただしく動き回る兵士たちの姿が小さく見えた。そう、もうミルキアに着いていたんだ。イタチは遠目からはっきりと獲物の姿を認めて、もう急ぐ必要なんて無いって思ったからここで止まっただけだった。
イタチは林の中の少し開けた場所に私を置くと、ゆっくりと、でもしっかりとした足取りでミルキアの街へと向かった。以前ソウイチさんが言っていたことを思い出す、イタチはその場で獲物にかぶりつくようなことはしないって。おなか一杯になるだけの獲物を集めて巣に持ち帰り、そこで食べるって。たぶん私一人を食べただけじゃ満足しないって思ってるから、新しい獲物を狩りにいくつもりなんだ。
イタチがゆっくりとミルキアに向かう姿を見送っていた私はそこで我に返った。私がここでぼーっとしてちゃダメ、私もミルキアに行かなくちゃ。私がイタチよりも先にミルキアに着けば、そこでイタチの襲来を知らせれば被害を少なくできるかもしれない。
イタチの姿が小さくなっていくのを見ながら、私もミルキアに向かって走り出した。イタチはお腹がすいていると見えて、ゆっくりと歩いていく。頑張って走ればミルキアの別の入口から入れるはず、武器も何もないけど、それでも行かなくちゃ。そしてカルアに知らせなくちゃ。今の私にはそれくらいしかできないから。
部屋着のままだったので靴なんてはいてないけど、スカートの裾を破って足に巻き付けた。ハツミさんに怒られちゃうかもしれないけど、今はそんなこと言ってられない。私はイタチの動きに気を配りながら、ミルキアに向かって走り出した。
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