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巨人の館へようこそ 小さな小さな来訪者  作者: 黒六
狡猾な襲撃者
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5.不安

 ソレは憤っていた。


 憤るという感情が正しいのかどうかは分からないが、おそらくその表現が最も当てはまるものだろう。それは苛立ちが無数に凝り固まって出来上がった、あたかも清らかな清流を穢す汚濁水のように、ソレの心を侵蝕してゆく。


 始まりは奴が現れてからだった。奴は突然現れ、ソレの領域を奪っていった。これまで悠々と過ごしていたソレは、今まで以上に動かなくてはならなくなった。奴が現れるまでは腹いっぱい食うことができたのに、今は空腹に身悶えしながら徘徊する日々。元々大した感情など持ち合わせていなかったソレではあるが、積み重なったものが次第にソレの中で形を作り上げてゆく。


 食いたい。腹いっぱい食いたい。これまでと同様に、腹いっぱい食いたい。歪み、強調された本能は他の本能を捻じ曲げ、頭の片隅へと押しやってゆく。


 食いたい。食いたい。ただその渇望のみがソレを動かす。通常ならばあり得ない行動へと突き動かす。



 やがてソレは見つける。見つけてしまう。極上の匂いを放つ、手に入れられそうな恰好の獲物を……




**********



「初美、次郎が出たぞ。念のために戸締りしておけよ」

「次郎って……わかった、雨戸も閉めといたほうがいいよね」

「ああ」


 家に戻るなり初美にさっきのことを告げれば、そこは都会に出たとはいえ里山で幼少期を過ごした初美のこと、すぐさまその重要性を察して真剣な表情で頷く。次郎のことは初美も知っていて、尚且つ猪の怖さも十分理解している。ガラス窓などあいつらにとっては大した障害にもならず、実際に掃き出し口の窓を割られて室内を荒らされた例も多い。


 うちに限っては茶々がいるので大丈夫だとは思うが、茶々が見回りに出ている間に侵入されないという保証はない。初美とシェリーだけでは次郎が入り込んだら対処するのは不可能だろう。特にうちは縁側があるから母屋への侵入はそう難しくないが、雨戸を閉めているだけでも十分阻止できるはずだ。


「お兄ちゃんはどうするの?」

「これから渡邊さんとこ行ってくる。万が一を想定して山には誰も入れないでくれってな」

「……わかった、気を付けてね」


 そう言うと初美は即座に縁側の雨戸を閉め始めた。俺は寝室に向かうと箪笥の一番下の引き出しを開けて、オレンジ色のベストとキャップを取り出して広げる。


「ま、一応念のためにな」


 それを金庫の前に置くと、すぐに出かけようとして居間のシェリーと目が合う。いきなり様子の変わった初美に少々戸惑っているようにも見える。


「あ、あの……何かあったんですか?」

「ちょっとばかり厄介な獣が出たんでな。たぶん茶々といれば大丈夫だから離れるなよ?」

「ソウイチさんは?」

「このことを近所に知らせてくる。すぐ戻るから心配するな」


 それだけ言ってすぐに玄関を出る。鶏小屋に寄って木戸をはめて補強すると、車に乗り込んで約二キロ離れた渡邊さんの家へと向かった。渡邊さんはここいらの集落のまとめ役で、農業はもちろん、様々な方面で世話を焼いてくれている。渡邊さんに話しておけば周知してくれるだろうし、彼が話せば村民も無碍にはしないはずだ。


 ただ猪が現れただけ、そう思う人もいるだろうが、この集落は年配者が多い。うっかり畑で猪に遭遇したり、山菜採りに山に入って鉢合わせしたら大変なことになる。猪イコール野生の豚じゃない。猪は野生の獣だ。そしてこの近辺には決して少なくない数の猪が棲息しているのも事実。


 しかしこの近辺では猪が出没すること自体は珍しくない。問題はボスである次郎が、それも昼間に堂々と畑に現れたことだ。茶々に敗れて以来、俺の畑は茶々の縄張りとして認識されているにも関わらず、その縄張りを侵すとも受け取れる行動を取ることが問題なのだ。


 何かいつもとは違うものを感じながらも、その違和感が何なのか全くわからないもどかしさを抱えたまま、アクセルを踏み込む足に力を込めると程無くして見えてくるのは渡邊さんの母屋の屋根。仕事用のトラックが置いてあるから、たぶん昼食のために戻ってきてるんだろう。敷地内に駐車すると、慌てて玄関に駆け込んだ。





「何だって? 次郎が?」

「ああ、さっき畑に来た。何もしないで戻ってったけど、何か嫌な感じがした」

「こっちには目立った被害はねえぞ。ああ、鶏が一羽イタチにやられたけど、猪は無えな」

「とりあえず山には入んないように言ってくれよ、場合によっちゃ仕留めなきゃいかんから」

「……そうだな、ここらじゃ資格持ってんの宗ちゃんだけだもんな。わかったよ、そのかわり銃使う時は連絡くれ」

「ああ」


 この近辺で狩猟の許可証を持ってるのは俺だけだ。地元の猟友会に登録してあるし、猟友会経由で保険にも入ってる。もし次郎が人里に向かうようであれば仕留めることも考慮しなきゃならない。そんな時にもし誰かが入山していたら、誤射なんて事故もあるからな。


「……ちょっと待った、渡邊さん、イタチが出たのっていつ?」

「ん? 確か一昨日の昼だったかな? カミさんが鳴き声聞いたから間違い無えと思うが」

「昼……か」


 渡邊さんの家にも犬がいる。それもシェパード、それが庭で飼われてる。ちなみに犬小屋は鶏小屋のすぐそば、つまり護衛がつきっきりの場所で狙われたということになる。果たして夜行性の傾向が強いイタチがそんな行動を取るか?


「ジョンを散歩に連れて行こうとして庭から出た途端に狙われたんだよ」

「……わかった、ありがと」


 渡邊さんに礼を言って車に乗り込む。イタチが鶏を襲うこと自体は珍しいことじゃない。簡素な小屋であれば穴を掘って地中から侵入されてしまうし、ネズミが通れるくらいの隙間があれば平気で侵入してくる。でもそれは夜間に行われることがほとんどだ。イタチの天敵は鷲や梟などの猛禽、そして狐や狼などの中大型のイヌ科の動物、つまり犬は天敵であるはずなのに、ほんのわずかな隙をついて襲うということをやってのけた。天敵のそばで息を潜めて気配を殺し、そのタイミングを待った。果たしてそんな危険をはらんだ方法を取るだろうか。


 今の時期なら里山はイタチの餌となる小動物も多く見られる。そこで獲物を狩ったほうが安全であるにも関わらず、人家までやってくる意味は何なのだろうか。心の奥底にわだかまる不安を払拭するように考えを巡らせるが、決定的な答えが出てこない。そんなもどかしさを抱えたまま、自宅に戻るべくアクセルを踏み込んだ。


 

読んでいただいてありがとうございます。

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