4.予兆
「ハウスのほうは一段落ついたし、コマツナの畑に行ってから休憩するか」
ビニールハウス内でのイチゴの株分けの準備をしながら熟してる実の収穫を行う。イチゴは最初こそ種から育てるが、一度株が成熟すればランナーと呼ばれる子株を伸ばして繁茂する。このランナーが翌年になって実をつけるが、かといって伸び放題にさせると実に送られるはずの養分を使われてしまうので元気のあるものだけを残して皆摘み取る。イチゴは数年で株の勢いが弱まって着果も減るので、こうやって株を更新させる必要がある。ついでに熟した実を収穫して、若い果実の成熟を促す。イチゴは寒さにも暑さにも弱いが、管理を怠らなければこうやって実をつけてくれる。
ビニールハウスを後にし、コマツナやキャベツの畑に向かう。といってもハウスの目と鼻の先で、歩いて数分程度。畑の脇に座りこむと、水筒の中の水を一口飲んでから煙草に火をつける。最近じゃ街中で自由に喫煙することも出来ないが、ここでは文句を言うような奴はいない。そもそも人間より野生動物のほうが多い場所だからな。
程よく疲労した身体を休めていると、畑の隅に動くものを見つけた。大きさは大型犬くらい、ずんぐりとした体形の四本足の動物がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。思わず体に緊張が走る。
「……あれは『次郎』か? しまった、茶々を置いてきちまった」
それは猪。立派な牙を持った雄の猪で、ここいらの里山一帯の猪のボスだ。昔は熊も出たらしいが、最近はそんな話も聞かないので実質的な大ボスと言ってもいい。次郎というあだ名は親父がつけたもので、ちぎれた右耳が特徴的だ。
どうして茶々に拘るか、それは茶々が次郎に勝っているからだ。畑仕事に連れて行ったときに次郎に遭遇し、茶々が撃退したんだが、その時に茶々が噛み千切ったのが次郎の右耳だ。その後は畑に近寄ることもなかったので油断していた。
次郎はゆっくりとこちらに向かって歩いているが、かといって畑を荒らす様子もない。そもそも器用に作物を避けて歩いているようにも見える。となると狙いは俺かと身構えるが、身構えた途端に次郎は歩みを止める。こちらに向かって突進してくる訳でもなく、ただずっとこちらを見ている。茶々を恐れて畑に近づかなかったのに、どうして今になって?
『……』
時間にして五分くらいだろうか、次郎はじっと俺を見続けると、踵を返して里山へと消えていった。畑を荒らされなかったことよりも、何事もなく帰っていったことに胸を撫でおろす。もし攻撃されていれば俺は間違いなく大怪我していたはずだ。
猪の恐ろしさはその突進力、そして雄の場合は大きく育った牙だ。まず突進力だが、走る速度は約70キログラムの成獣になると最高で時速約45キロメートル。短距離走の世界記録保持者ですら時速約36キロメートルしか出せないのだから、その速さは容易にわかるだろう。そして骨格と筋肉の構造上、鼻先がとても頑丈に出来ている。通常は芋などを掘り起こすために使っている鼻だが、高速の突進の勢いそのままに体当たりする場合は恐ろしい凶器へと変わる。
さらにその牙は鋭く、尚且つ猪の体高はおよそ百センチメートル前後。その位置は成人男性の太ももあたりであり、突進した勢いで太ももを抉られる恐ろしさは想像を絶するだろう。万が一にも太ももを走る動脈でも抉られれば失血死すらあり得る。
それにしても次郎は何の意味があってあんな行動を取ったのだろうか。ここに来れば茶々と鉢合わせする可能性は十分にあり、むしろ今日みたいな不在なことの方が珍しい。野生動物は強い者がいる場所に近づくことは滅多になく、あるとすれば何かしらの異常が起こっている場合だが……
「……何がどうなってんだよ」
まだここに帰ってきて数年の俺にはそこまで判別することはできない。だがこのまま畑仕事を続ける気にもならないので、コマツナとキャベツをいくつか収穫して家へと戻ることにした。しばらく腰が抜けて立てなかったのは内緒だ。だって丸腰だったんだから仕方ないじゃないか。
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「そう言えばシェリーちゃんって冒険者なんでしょ? それにしては荷物少なくない?」
巨大な鋏で布を切っていたハツミさんが突然聞いてきた。巨大といってもそれは私から見ればの話で、ハツミさんはそれを片手で軽々と扱ってるけど。荷物……荷物か……
「だってシェリーちゃん、最初帯剣してなかったっけ? 今はポーチだけしかつけてないし」
ああそうか、この国には魔法が存在しないんだった。ということはこのポーチのことも知らないはず。
「実はこのポーチ、マジックポーチなんですよ」
「え? それって沢山物が入るっていう……」
「ご存じなんですか? これは結構大きいほうですけど……今はこれだけ入ってますね」
ハツミさんがマジックポーチを知ってるのは意外だった。ポーチを外して逆さにすると、中身が全部出てきた。といっても探索終盤だったから食料もないし、最低限の着替えと武器、空の水筒くらいだけど。
「えっと……剣にナイフ? これは着替えかな? これは干し草?」
「それは薬草ですね。それは……はい、替えの下着です」
「剣を見てもいい?」
「はい、どうぞ」
ハツミさんは私の剣を手に取ると、抜いて刃先を眺めている。時折刃に指をあてて切れ味を確認してるみたい。そういえばあの剣も随分長いこと使ってて、そろそろ買い替えないといけない。いざという時に折れたら命にかかわるから。
「シェリーちゃん、この剣もうヤバいんじゃない?」
「やばい……ですか?」
「ヤバいっていうのは……もうそろそろ危ないんじゃないかって思うんだけど。刃毀れも酷いし、切れ味もほとんど無いよ」
「……やっぱり」
あのダンジョンでの戦いは苛烈だった。私一人では間違いなく探索を途中で断念していただろう。それは当然私の武器、防具に大きな負担を強いていたはずで、いつ壊れてもおかしくないのは私も薄々感づいていた。ただ……今となってはどうにもできないのが口惜しいけど。
「……ちょっと借りていいかな?」
「あ、はい。どうぞ」
ハツミさんが板のようなものを剣や防具に向けているけど、あれは何をしているんだろう。時折強い光を放っているのは魔法なのかな? 魔法にしては全く魔力の流れが感じられないけど、もしかすると巨人の国の魔道具なのかもしれない。どんな効果があるのか全くわからないけど。
でも……ハツミさんが言うように、ここではもう使う必要がないのかもしれない。それほどにここの暮らしは素晴らしい。綺麗な部屋、ふかふかのベッド、美味しい食事、優しい人たち、今までの冒険者暮しでは考えすら及ばなかったものがここにある。こんな楽園のような場所なら……もし戻れなくてもいいとさえ思えてしまう。この平和な国でいつまでも楽しく暮らせたら……仲間たちには申し訳ないけど……
そんな考えが頭に浮かぶほど、私は油断していた。危険なことなんて全く無い、そう考えていた。だから……私はここでは無力な存在だということを忘れていた……
読んでいただいてありがとうございます。




