暗い穴の奥へ
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閑話です
ダンジョンの最下層、カルアはただ一人膝を抱えて座り込んでいた。冒険者時代に使っていた鎧と剣は身に着けていたものの、それらが使われた様子は全く見られない。うっすらと埃のかぶったダンジョン内部は生きるものの存在を忘れてしまったかのような有様だった。
だが魔物の気配が全くないのはカルアにとって都合が良かった。少なくともこの場において彼女の思考を邪魔するものはいないのだから。
飛び出しざまに持ってきた食糧を細々と食いつなぎ、岩壁の隙間から染み出る水で喉を潤しながら、自分の気持ちを整理しようとしていた。突如降って湧いた神獣による理不尽な脅威、獣国の民としては神獣の意に従うことが誉れなのかもしれないが、果たしてそれで彼女の家が発展するかどうかは怪しいものだ。神獣とは自らの意のままに振る舞うことを許された存在であり、その増長しきった精神が力の弱い自分たちのことを顧みるとは到底思えない。きっと約束は反故にされる、カルアはそう読んでいた。だからこそ自分の命が無駄になってしまうであろうこの状況を受け入れることができなかったのだ。
彼女の目の前には相変わらず不気味な暗い穴が大きく口を開けている。外からでは光の届かない奥まで見通すことはできないが、それはかなり奥深く続いているであろうことは冒険者としての経験から察していた。
かつての仲間はこのダンジョンで行方不明になった。魔物に襲われたのか、それとも逃げ延びたのか、彼女たちの行く末をカルアに知る術はない。だがそのうちの一人はどこの国も喉から手が出るほど欲しがる特級冒険者だ、魔物ごときに遅れをとることなど考えられず、かといって他の国に行けばその噂くらいは流れてこようものだが、それすらない。まさに完全に消えてしまったかのようだった。
もし彼女たちがいてくれれば、神獣とて撃退できたかもしれない。こんなに自分が苦しむことは無かったのかもしれない。たられば、の話をしたところで何が変わるということはないのだが、それでもカルアは考えてしまう。決して現実になることのない、別の結末を。仲間たちと一緒に未だ冒険者として活動を続けている夢物語を。
一体どれほどの間閉じこもっていただろうか。見上げればはるか高くに空があり、何度昼と夜が繰り返されたのかすら覚えていない。だがそろそろ戻らなければ神獣の指定した期限が来てしまう。
カルアとて自分の領民が蹂躙されることなど望んでいないのだ。家のため、領民のために自分の幸せすら捨てる覚悟はできていたが、神獣のエサになるなど誰が思いつきようか。あり得ない現実を目の当たりにして、彼女も自分の心を落ち着かせる時間がほしかっただけなのだ。
「もう……戻りましょう」
食糧も底をつき、ここに留まり続ける理由はない。逃げることは彼女の立場から見ても許されることではないのだ。彼女が逃げれば領民すべてが神獣の暴威にさらされ、彼女は永遠に帰る場所を失うのだから。ミルーカ家のことを最優先に考えている彼女にとって、既に選ぶべき道は決まっていた。
その場を後にしようと立ち上がり、ふと大きく口を開いている穴へと目をやる。相変わらずその奥に潜むものが何なのか全くわからない。しかし獣人特有の鋭敏な嗅覚は、確かにその奥から流れてきた微かな匂いを捉えていた。
「え? フラムとシェリーの匂い? どうしてこんなところから二人の匂いが……」
間違うことなどあるはずがない。幾度となく共に危機を潜り抜けた大事な仲間の匂いだ。彼女たちの匂いがどうしてこの穴の奥からあ流れてくるのか。
まさか別の世界に繋がっているなどと思っていないカルアにとって、行きついた思考の先は彼女にとってとても辛いものになった。いや、真相を知る由のないカルアがそこに行きついてしまうのは当然といえば当然だが。もしこの穴の奥で二人が遭難していたのなら、既に数月経過しており、まともな食糧のないこの場所で生きていることは絶望的なのだから。
「……せめて亡骸の一部でも……連れて帰らないといけませんわね」
廃墟のようなダンジョンの奥で誰の目に触れることなく朽ちてゆくのは運の悪い冒険者の末路としてはありふれたものではあるが、かといってかつての仲間がそうなりつつあるのを放っておけるほどカルアは人でなしではない。女手一つで二人の遺体を持ち帰ることは至難の業だが、遺髪くらいなら持ち帰ることはできる。そう考えてカルアは闇が支配する穴へと足を向ける。
得体の知れない場所へと足を踏み入れることへの恐怖は確かにある。しかし大事な仲間を放っておくことはかつてパーティリーダーだった彼女の矜持に反することだった。
「……何なんですの……ここは……」
足を踏み入れると、ほんの数歩入っただけなのに周囲が闇に包まれる。見回してもどこも闇ばかりで、自分の手すらまともに見ることができない。かろうじてカルアの嗅覚は懐かしい仲間の匂いを捉えてはいるが、もしそれすらもなくこんな闇に入り込んでしまったとしたら、果たしてまともな精神状態でいられるかどうかすら怪しい。こんな中に大切な仲間たちがずっと取り残されていたかと思うとカルアの胸は強く締め付けられる。
正気を保つことすら難しい暗闇の中、カルアは手探りで歩き続ける。匂いは微かにだが、確実に続いているのでこの先にシェリーとフラムがいることは間違いない。その生死はわからないが、水も食糧もなくこんな闇の中に取り残された者が生きていると考えるのは余程の世間知らずか度を越した楽観的な思考の持ち主しかいないだろう。
「……あれは……灯り?」
そろそろ引き返さなければ自分も遭難しかねない、そう考えたカルアが進むべきかどうかを迷っていると、はるか前方にうっすらと光るものが見えた。決して眩いものではないが、かといって消え入りそうな朧げなものでもない。小さいが、それでいてはっきりとした強さを感じさせる灯りだった。
もしかするとこの先に生存者がいるかもしれない。シェリーとフラムはそこで保護されているのかもしれない。未だ消える気配のない灯りに希望的憶測が強くなる。もし彼女たちが生きていてくれたのなら、どれほど心強いだろうか。もしかすると神獣フェンリルすら退けることも可能かもしれない。自分の未来を取り戻すことができるかもしれない。そんな期待が疲労で重くなったカルアの身体を、足を前へと進ませる。
一体どれほど歩いただろうか、光は次第にその領域を拡げていき、やがて周囲の様子がはっきりと見て取れるようになった。そこは信じられないほどに巨大な屋敷のようだった。しかしその建築様式はカルアの知識にないもので、何より天空には魔力を全く感じない灯りが浮いていた。そしてシェリーとフラムの匂いがより一層強くなったその時……
「ひっ……」
突如現れた巨大な何かの双眸に見据えられ、カルアは自分の意識を容易に手放していた。
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