9.仕置き
夜の帳が下りればいかがわしい店の煌びやかな電飾看板が花の如く街を彩り、欲望を吐き出そうと彷徨う者を誘うかのように華やかに着飾った者たちが花々の間を飛び回る。様々な思惑が飛び交う坩堝のような街も、太陽が空にある時間帯は閑散としており、まばらに行き交う人たちも理性ある昼の住人達だ。
そんな街の一角、古ぼけた雑居ビルの前に新村は立っていた。竹松からの呼びだしに応じたためだ。入り口の看板には何の仕事をしているのかわからない企業名が並び、そのうちの四階の部分にある『竹松産業』という手書きのプレートを凝視している姿は明らかに不審者ではあるが、場所が場所のために周囲の人たちも全く気に留めていない。
竹松からの呼びだし、それは今回の動画の件で竹松が動いたということに他ならない。普段は見た目に反して温厚な性格の竹松だが、古い付き合いの新村には彼が怒った時は見た目以上に危険であるということをよく知っていた。様々な格闘技を学び、今なお鍛錬を欠かさない彼の姿を見れば街のチンピラは無言で道を開けるほどだということを。
およそ小一時間ほどエントランスで立ち尽くし、ようやく決心して足を踏み入れる。築年数は古くエレベーターなどない雑居ビルの急な階段をゆっくりと上る。目的の四階まで上る新村の足は枷をつけられたかの如く重く、切れかけた蛍光灯のちらつく灯りが不気味さを醸し出す中、のろのろと上ってゆく。見上げればようやく見えてきた目的の部屋、安っぽい鉄扉にはめこまれた擦りガラスからは室内の灯りがうっすらと洩れ、三流ホラー映画の一場面のような印象を覚える。新村にとっては最後の上り階段が死刑執行の十三階段に見えているのかもしれない。
『入れ』
冷たい扉を小さくノックすると、予想に反して静かな竹松の声が聞こえる。開口一番に怒鳴りつけられるものと思っていた新村は若干肩透かしをくらいながらも、言葉に従い扉を開けて中に入る。あまり広くないその部屋には山のように機材や段ボール箱が山積みにされ、中央に作られたスペースに置かれた応接セットで竹松が大きな身体をソファに預けていた。
「まぁ座れ」
「あ、ああ」
言われるがままに竹松と向かい合うように座る新村。テーブルに視線を落とせば赤や緑、黄色のマカロンのような焼き菓子があり、竹松は横に置いてあったペットボトルから水をグラスに注いで新村の前に置く。しかし言葉少なな竹松の様子に彼の怒りを垣間見た新村は手をつけることもできない。お互いに視線を合わせないまま静かな時が流れる。
「初美ちゃんの弁護士から連絡がいっただろう? 今回お前がやったことは訴訟問題に発展する以前に、刑事事件だ。お前の今後の動き次第では刑事告訴も辞さないそうだ。まぁその弁護士はウチでも色々と頼んでる先生だけどな」
「……やっぱりお前だったのか」
沈黙を破ったのは竹松だった。平坦な口調で話す姿は冷静そのもののように見えているが、新村にはそれが怒りを孕んでいる状態なのがはっきりと感じ取れた。新村にも自分の行動を阻害されたという怒りの感情はあったが、竹松の不気味なほどに静かな怒りに表に出すことが出来なくなっていた。
「初美ちゃんの意向はお前が今後一切あの動画について関わり合いを持たないことと、初美ちゃんにも関わらない、それが保証できれば告訴はしない方向だそうだ」
「な、何を言ってるんだよ、あの動画は俺が……」
「これを見てもそう言えるか?」
竹松が取り出したのはノートパソコン。そのモニターにはあの動画の元らしき映像が流れていた。最後にフィギュアの画像が入り、テロップからそれがPR目的に作られたものだということがわかる。そこまで来れば新村にも竹松の言いたいことが理解できた。
「この動画は初美ちゃんが即売会用に作る予定だったフィギュアの宣伝動画だ。言わばお前は完全社外秘のデータを盗み出して勝手に投稿したんだよ。本来なら即座に刑事告訴するところを、お前との腐れ縁を断ち切ることを条件に不問にすると言ってるんだ。もちろん投稿サイトのほうは完全削除が大前提だけどな」
「……わかったよ」
「そうか、それならいい。まぁ菓子でも喰え、天然素材の焼き菓子だ」
竹松は意外なほどにあっさりと話を締めたが、それが新村の心に引っかかりを覚えさせた。確かに竹松は温和な人物ではあるが、かといって怒りをずっと溜めこむような性格ではない。となればいずれその怒りを晴らす場が訪れるということだろうか。と勧められた菓子に視線を落とせば、一番上に乗っている赤い菓子がある。赤いのはそれ一つのみ、他の黄色と緑はいくつもあるのに、何故か赤は一つしかない。しかもそれをしきりに勧めてくるのが違和感として残ったのだ。
「……何か企んでるのか?」
「ん? これのことか? そんな訳ないだろう」
何かしらの嫌がらせのようなことくらいはしてくるだろうと思った新村が赤い菓子を見つめながら言うと、竹松は無造作にその赤い菓子を摘まむと口の中へと放り込んだ。美味そうに咀嚼する竹松の姿に自分の予想が外れた新村は唖然とした表情を浮かべ、それを見た竹松が小さく笑みを浮かべながら言う。
「これはトマトを練り込んだ焼き菓子らしいが、うまく赤い色が出せなくて食紅を使ったらしい。ただいくぶん量が多すぎてこんなきつい赤になったらしいがな」
「毒じゃないのか?」
「毒なんぞ盛ったら俺が警察沙汰になるだろう」
「……そうだな、それじゃ遠慮なく……」
いくら竹松が旧知の仲だと言っても、だからと言って毒を盛っていいという道理はない。それにも増して普段の竹松は理知的な常識人である。一服盛るなんて自分の考えすぎだろうと思いなおした新村は鮮やかな緑色の焼き菓子を手に取った。匂いを嗅いでみれば、ホウレンソウのような清々しい緑の香りが鼻腔に抜ける。市販の菓子にはない濃密な自然の香りはこの焼き菓子が丁寧に手作りされたものだということをうかがわせる。
いかつい見た目の独身男がこんな菓子を買う姿を想像すると僅かに頬が緩む。そのせいで気が緩んだのか、竹松の口元に僅かに笑みが浮かんだことに気が付かなかった。そして口に放り込むと一口咀嚼して……動きを止めた。
ほんのりと自然な甘さのクッキー生地のサクサクとした食感を楽しんだのも束の間、美味なる生地に包まれた内容物が新村の無防備な口腔内を蹂躙したのだ。例えようの無いその味はまず最初に強烈な痛みを感じるという不思議なものだった。鋭敏な粘膜を焼き焦がすような痛みを与える内容物はさらなる苦痛を彼に与える。最も顕著だったのは、新村が放置していた虫歯だった。
強烈な刺激が侵食の進んだ歯髄にまで到達し、まさに拷問のような激痛が走る。新村の脳裏にはかつて味わった地獄の苦しみが鮮明に再現されていた。かつて初美と恋人関係にあった頃、一度だけ味わった灼熱、いや焦熱地獄。
「ひはひ! ひはい!(痛い! 痛い!)」
「懐かしいだろ、初美ちゃんの超激辛料理入りのクッキーだ。初美ちゃんのお兄さんの特製だ。お前が警戒した赤いのだけが安全で、それ以外は全部当たりだよ」
「みじゅ……みじゅ……」
竹松が嗜虐的な笑みを浮かべて語るが、新村はそれどころではなかった。即座に吐き出したが、それでも付着したものによる強烈な刺激は収まらない。一刻も早く洗浄したい新村はグラスに入った水を一気に含み、そして噴き出した。
「ぶふうっ!?」
「そっちの水は大量のクエン酸が入ってる。どうだ? 強烈だろう?」
「はひ……はひ……」
「前に言ったよな、初美ちゃんを泣かせるような真似は許さないってな。お前のことだ、ここで丸く収めてもほとぼりが冷めればまた同じようなことをしでかす。だからこれは俺からの警告だ、今後俺や初美ちゃんに関わることがあれば容赦なく対処させてもらう。それから……お前の実家にもこのことは伝えてある。お前の姉さんたちが激怒してたから、しばらくは実家から離れなくなるだろう」
「……うひぃぃぃ……ふひぃぃぃ」
涙と鼻水と涎に塗れた新村に向かって冷たく言い放つ竹松。それを聞いた新村は全てを観念したかのように無様な鳴き声をあげて泣き続けるのだった。
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「ねーねー、お兄ちゃんタケちゃんに何を渡したの?」
「ん? ちょっとクッキーを焼いて渡したんだよ」
「ああ、タケちゃんってああ見えて甘党だから」
バイクで走り去る竹松君の後ろ姿を見送りながら、初美が訊いてきた。まさか処分困っていた初美の『激辛中華あん』を使うことになるとは思わなかった。何か仕返ししてやりたいという竹松君の提案に乗ったのは俺だが、初美と親交のある彼はその恐ろしさも理解していた。実物を目の当たりにしたときは顔を青くしていたが。
「危険な真似はしないでくれよ?」
「一応は食品ですから死ぬようなことはないでしょう。あいつも経験者のはずですから」
そんなやりとりをしたが、正直アレを食べさせるということに若干引け目を感じる。竹松君は今回相当怒っているようで、アレを食べさせるくらいは問題ないと考えているようだ。彼は今回の件では初美に辛い思いを味あわせたアイツに相当な怒りを抱いているらしく、俺だって兄として怒りを覚えている。そしてシェリーたちの平穏な暮らしに危険が及ぶ可能性を作り出したことに対してもだ。
とりあえず竹松君、君に渡した菓子に初美の料理を混ぜたことは俺の胸の内にしまっておく。知られたら絶対に初美に嫌われるだろうからな。だがもし浮気でもしようものなら遠慮なく教えるので覚悟しておいてほしい。
読んでいただいてありがとうございます。




