10.女王
何が起こっているのか、はっきり理解することができなかった。身体中に纏わりついていた蜂が吸引器に吸い込まれていくがごとく、身体から引き剥がされて飛ばされていく。ヘルメットの金網にしぶとくしがみついていた蜂は風の力に負けて、鉤爪のついた足先だけを残して吸い込まれていた。ようやく自由になった両腕で身体を払うと、払い除けられた蜂は反撃するまもなく風に流されていく。
枯葉や枯枝、砂埃とともに旋風に巻き上げられる蜂。そして俺はその中心部分で夜空を見上げていた。風の壁に遮られた閉鎖された空間、唯一の救いはとても綺麗な満月が見えていることくらいだ。おそらくこの風の壁を突っ切ろうとすれば、再び蜂にたかられることになるのでこうしてじっとしているしかない。
「ソウイチ! 伏せて!」
聞こえたのはまぎれもなくフラムの声。いつも物静かな彼女とは思えない、必死な声がこれから何かをするのだと教えてくれる。伏せろということは、この低い姿勢を保ったままでなくてはいけないということか。だがそれは逆に助かる。骨には影響なさそうだが、強かに背中を打ち付けたせいで起き上がるには少々苦しい。
やがて仰向けのまま見上げる俺の視界の真ん中に小さな炎が生まれる。それはあっという間に大きくなり、風に舞う落ち葉や枯枝、そして蜂を取り込みながら勢いを強めていく。まさに炎で出来た竜巻と表現できるような現象が視界を埋め尽くし、眩いばかりの明るさに目が眩む。
炎の竜巻は自身が生み出した上昇気流に乗るように天高く舞い上がり、取り込んだものを燃やし尽くして夜空へと溶けて行った。後に残るのは降り注ぐ灰と、かつて蜂だった残骸のみ。もう周囲には飛び回る蜂の気配も羽音もない。納屋の軒下には半分ほどに削り取られて無残な姿を晒している蜂の巣がある。
一瞬だが、何かが動いたような気がした。ゆっくりと体を起こして凝視すると、確かにそこには何かがいる。何か……それはわかりきったものだが。
「ソウイチさん!」
「ソウイチ!」
母屋のほうから茶々の背中に乗ったシェリーとフラムがやってくる。どうやらさっきのは二人が力を合わせてくれたおかげだろう。あの竜巻のような風は猪の時にシェリーが使ったものによく似ていたからな。
「シェリー、フラム、お前たちのおかげで助かった。今のは二人がやったんだろ?」
「はい、無我夢中で……」
「私の計算通りだった」
はにかむシェリーに自信に満ちた表情のフラム。俺の無事を確認したことで心に余裕が出来たんだろうが、まだ大事なことが残ってる。というか、これを確認しなければ終わらない。
「悪いがまだ終わりじゃない。肝心なことを残してる」
「一体何が……あ、そうか」
「フラム、何があるの?」
フラムは俺の言わんとしてることに気付いたようで、俺が凝視する先を同じように見ている。シェリーは……いまいちわかっていないようだな。
「シェリー、軍隊蜂を統率しているのは誰?」
「それはもちろん女王……そうか、女王蜂!」
「ソウイチはまだあの巣に女王が残ってると言いたいのか?」
「ああ、何かが動いたような気がした」
もしあの炎に巻かれて死んでいるならいいが、ここで女王を逃がせば再び勢力を取り戻す可能性がある。それどころか新たな女王候補が既に蛹になっていたらもっと危険だ。こんな凶暴なキイロの女王が複数野に放たれることになるのだから。
スズメバチは基本的に働きバチは一年で死滅する。女王蜂と新たに生まれた女王候補の雌蜂だけが単身で越冬し、春になると単独で営巣を始める。つまり女王を逃がせば来年もまたこの恐怖を味わうことになる。たった一匹逃しただけで、秋口には数万匹にまで増える可能性があるということだ。
「女王は絶対に仕留めるべき」
「ああ、最悪の状況になる可能性もあるからな」
時期的に言ってもなかなか際どいところで、まだ巣別れには早い気もするが、そこは虫の思考回路であって人間が理解できるものじゃない。楽観的な憶測で動くことは避けるべきだ。危険の芽は早いうちに摘んでおくに限る。
「あの巣を取り除かないとな」
「じゃあ落としましょうか『ウィンドスラッシュ』」
シェリーが魔法を使って巣と軒先の接合部分を切断する。ちょっとばかり大きく軒先が抉られたが、もう誰も使っていない廃墟のような納屋なので気にすることもない。落とされた巣からは蜂が出てくることもなく、土の上に転がっている。まさか近づくまで待つような知性は持ち合わせていないだろうから、働きバチは皆あの風に吸い出されたようだ。
「茶々、いつでも逃げ出せるようにしておけよ?」
「ワン!」
二人を背に乗せたまま、任せろと言わんばかりに一声吠える茶々。もし中に働きバチが残っていたら、俺が食い止めてる間に全力で逃げてもらえばいい。流石にこんなでかい標的があるのに小さな茶々を追いかけるようなことはするまい。
慎重に近づいて落ちていた棒の先でつつくと、僅かに中で動く感触がある。だがそれでも外に出てくる様子はないので、思い切って棒を突きさして巣を大きく割ってみる。
「マジかよ……あり得ないだろ、こいつは……」
キイロの巣を分解したことは何度もあるが、正直これは初めてだった。オオスズメバチの女王よりも巨大な女王蜂が蛹の上に陣取りながら、こちらに向かって牙を鳴らして威嚇している。その大きさはスズメバチどころかスズメよりも大きい。明らかに通常のキイロスズメバチの女王とは大きさが異なり、威嚇する姿には寒気すら感じる。女王の護る蛹も羽化直前で、あと数日対処が遅れれば巣別れしていたかもしれない。
「ソウイチ、ここは私に任せてほしい」
「フラム……わかった、任せる」
フラムが神妙な面持ちで対処を申し出てきたので、ここは彼女に任せることにした。本来ならばそんなことをさせるべきじゃないのだろうが、彼女の振り撒く気配のようなものがそうさせてしまった。むしろそうさせなければいけないようにすら思えたから、ということもあるが。
「お前は明らかに異質だ。私たちも異質な存在だけど、お前は私たちとは違う異質さがある。そしてそれは……絶対に存在を許してはいけない。だからここで終わらせる」
フラムが杖を構えると、埋め込まれた宝玉が赤く輝く。と同時に、複数の火の玉がフラムの周囲に現れ、フラムの指示を待つかのようにゆらゆらと揺蕩っている。
「どうしてお前のような存在が生まれたのかはわからない。確かにお前たちに罪はない、けどこの世界にお前たちの居場所はない。だから……ここで終われ『ファイヤーアロー』」
フラムの言葉により枷を解かれた火の玉は真っすぐに蜂の巣へと向かい、着弾する。炎は瞬時に巣を包み込み、女王もろとも大きな炎の塊へと変える。しかし女王は蛹から離れることはせず、羽化を待つ子供たちとともに炎の中で灰になっていった。
何故フラムがとどめを刺すことに拘ったのかはわからない。だが彼女の心の中に何か確信めいたものがあったようにも感じた。果たしてそれが何なのか、魔法を放った後に無言を貫くフラムから聞き出すことは難しいかもしれない。だがいずれ話してくれるだろうと考えている。何故なら俺たちは家族なんだから。
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