7.夜戦
時刻は二十時を回ったころ、納屋の周りは灯りもないので真っ暗だ。そんな中、防護服に身を包んで噴霧器と煙幕を持ち、ゆっくりとキイロの巣への距離を詰める。基本的に夜になれば若干動きが鈍くなる傾向があり、それを期待してのこの時間だが、巣に近づくにつれて羽音とともにカチカチという牙を鳴らす威嚇音が聞こえ始める。
連中の威嚇が聞こえたのか、いつもなら五月蠅いくらいに鳴く虫たちが静まり返っている。迂闊に鳴き声を出して襲われてしまうことを警戒しているんだろう。雲間から顔をのぞかせた、クレーターまで視認できそうなくらいにはっきりと見える満月の月明りに照らされて、巨大なキイロの巣が暗闇に浮かび上がる。
「納屋の中には入り込んでいないのが幸いだな」
納屋の中や軒の中まで入り込んでいたら大掛かりなことになりそうだが、近くで見ればその傾向は無さそうだ。だがこの大きさだけでかなり難易度の高い駆除であるのは確かだが。
「まだ全然活発じゃねぇか」
威嚇音を無視して進めば、巣の周りを飛び回る兵隊たちの羽音がより明確に聞こえてくる。やはりその数は今までに対処してきたスズメバチの巣とは比べ物にならない多さだ。懐中電灯で照らせば、あっという間に体に群がる兵隊たち。
動きを制限されながらも脚立を使い、煙幕に火をつけて巣の入り口へとねじ込む。とにかく女王蜂さえ仕留めて、次代の女王となる幼虫と蛹を駆除しなければいけない。煙幕を吸って大人しくなったところで殺虫剤を噴霧すれば終わりだ。
そう思っていた。いや、スズメバチを駆除した経験のある者であれば、それが常套手段であると皆思うだろう。だが目の前の巣の反応は全く違うものだった。
巣が割れるんじゃないかと思えるほど内部で蜂が暴れている。そして信じられないことに、押し込んだ煙幕が押し戻されている。煙幕は先端が燻っていて、近寄れば煙で麻痺したり、熱に焼かれて死んでしまうのだが、蜂たちが徐々に煙幕を押し戻している。
押し出された煙幕棒はついに巣から押し出された。と同時に巣の入り口からは多数の死んだ、もしくは麻痺して戦闘不能に陥った兵隊が押し出されて落ちる。こいつらは間違いなく仲間を犠牲にしてこの状況を打開しようとしている。
咄嗟に噴霧器で殺虫剤を撒くが、全く動きの鈍っていないキイロの軍勢には大した効果を与えていない。そもそもが動きが鈍ったところを薬まみれにするのがいつものやり方なので、自由に動き回られては意味がない。
「これはまずいな……一時引くか……」
殺虫剤の効果が薄いとなれば噴霧器はただのお荷物でしかない。まさか煙幕を押し出されるなんて考えてもいなかったので、ここは態勢を立て直すべく、一時撤退しよう。そう考えて脚立を降り始めると、キイロの軍勢は行動を変化させた。
しきりに俺の体にアタックしていたのが、それが効果が薄いとみると今度は狙いをヘルメットに変えた。厳密にいえばヘルメットの金網部分だ。無数の蜂が金網部分に密集し、瞬く間に隙間なく集まっていく。
突然視界を遮られ、まともに動くことができなくなる。さらに密集した蜂は空気の通り道をふさぎ、次第に息苦しくなってくる。防護服の小さな綻びをテープで塞いだせいで、通気口はヘルメットの前面のみ、そこを抑えられたら危険だ。それに空気の通りが悪いせいで物凄く暑い。
「あ……」
意識が朦朧としかけて、思わず脚立のステップを踏み外してしまった。背中を強かに打ち付けて一瞬呼吸が止まるが、幸いにも下草が多かったので軽い打撲で済んだようだ。だが状況は決して良いものじゃない。未だまともに動くことができない俺のヘルメットめがけて無数の蜂が集まってくる。このままだと窒息死まではいかないだろうが、失神の可能性が高い。何とか移動しようともがくがかろうじて両腕が空を切るくらいで、その動きが余計に蜂を刺激してしまう。
群がり続ける蜂は防護服に齧りつきはじめる。すぐに穴が開くようなことはないと思うが、決して楽観視できるものでもない。最新の防護服ならともかく、使い古してよれよれの生地がどこまで耐えてくれるだろうか。
ヘルメットの金網越しにスズメバチの大群を見るなんて生きた心地がしない。だがここで助けを呼ぶことはできない。初美はこういうことに対処したことはないし、茶々では刺されに来るようなものだ。シェリーとフラムに至っては言わずもがなだ。つまりこの状況を俺自身の手で切り抜けなければならないということだ。
「考えろ……考えろ……」
今俺の手元に残されている手段は何だ? 脚立から足を踏み外して落ちただけだから、さっきまで俺が持っていたものはそんなに遠くない場所にあるはず。煙幕はもう使い物にならないだろうし、とすれば頼みの綱は殺虫剤の入った噴霧器だ。あれを自分の体に向かってかければ、身体に群がる蜂は対処できる。巣に関しては何か別な方法を考えるとして、取り急ぎこの場を離れなくちゃいけない。
ゆっくりと両腕を動かして周囲を探ると、右手の指先に硬いものが当たる感触がある。蜂を刺激しないようにさらに右手で確かめると、噴霧器のタンクの部分のようだ。さてここからどうするか。
タンクの部分ということは、噴射ノズルは離れた場所にあるはずで、使うためには一度起き上がらなければならない。この状態でそこまで出来るかは怪しい。起き上がって動き回れば、蜂は俺の身体から一時的に離れるだろうが、飛び回る蜂に殺虫剤の効果がうすいのはわかってる。タンクの中身を使い切れば、また群がってくるだろう。
「この方法だけはとりたくなかったんだけどな……」
残された方法、さらに確実な方法となればこれしかない。タンクの蓋を外し、頭から殺虫剤を被る。かなりの量を俺自身が浴びることになり、目や鼻から体内に入るのは確実だろう。一体どのような結果になるのかわからないが、ここでこれだけの蜂に刺されることを考えればまだマシだろう。
数回刺された程度ならば何とかなるが、もしこの大群に動けない状態で刺されれば、数百回、いや、数千回にもなるはず。無事でいられるなんてのは甘い考えだ。そうなる前に……この状況を打開してやる。
右手でタンクの縁を掴み、ゆっくりと傍に引き寄せる。手探りでタンクの蓋の場所を確認し、静かに蓋を開ける。自分で決めたこととはいえ、殺虫剤を頭から被るなんて馬鹿げたことをした経験はない。果たしてこんなことをして無事でいられるはずもなく、出来ることならば被害が最小限で収まることを祈るのみ。
心を落ち着けるようにゆっくりと深呼吸すると、蜂の隙間から綺麗な満月が目に入る。まさかこんな状況で月を綺麗に感じるなんて思ってもいなかったが……ちょっと待て、あれほどいた蜂はどこにいった? ゆっくりと体を起こせば、少なくなった蜂の隙間から風を感じる。生ぬるい風ではなく、爽やかな森の風。
そして改めて状況の変化に気付いた。猛烈な旋風が蜂たちを吸い込み続け、満月の月明りを遮る黒い旋風と化していた。俺の顔に当たっていたのはその余波とも言える風だ。まるで生き物のように蜂を吸い込み続ける旋風を茫然と眺めていた俺の耳に、この場にいてはいけない存在の声が聞こえた。
「ソウイチ! 伏せて!」
聞こえた声の通りにその場に伏せると次の瞬間、黒い旋風が眩い閃光に包まれた。
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