第一章3
第一章 開かれた異世界への扉3
次の日、俺は朝の六時半という時刻に部室棟の廊下を歩いていた。
なぜ、こんな朝早くにミス研の部室に行こうとしているのかというと部長に呼び出されたからだ。
まあ、あのことを聞かれるのは間違いないだろう。だが、今の俺はとても本当のことを言う気にはなれない。
それだけ俺は大きなことに巻き込まれつつあるからだ。
もっとも、だからこそ部長の力を借りたいところなんだけど今はその時期ではない気がするんだよな。
この辺の感覚は言葉では表現しづらい。
俺は震える手で部室の扉を開ける。するとそこには一番、奥にある机に座って、いつになく厳めしい顔をしている部長がいた。
「待ち兼ねたぞ、テッド。相変わらずマヌケそうな顔をしているが、何で呼ばれたのかは分かっているんだろうな?」
部長の声には刃のごとき鋭さがあった。
「はい。でも、その生活指導の先生みたいな言い方は止めてください。まるで万引きが学校にバレた生徒みたいじゃないですか」
ちなみに俺は万引きなんてしたことはない。ま、当たり前か。
「言って置きますけど、俺は責められるようなことは何もしていませんからね」
今回の一件で、俺の行動に非がないのは確かだ。
「万引きとは、お前にしてはいつになく面白い表現を使うな。それだけ焦っていると言うことかもしれないが、そのような言葉でこの俺を煙に巻こうとは笑止千万!」
部長はそう猛るように叫ぶと、言葉を続ける。
「とにかく、俺とてお前を責めるつもりは毛頭ないし、単刀直入に聞くが昨日、何があった?」
部長の視線が俺の顔面を射貫いた。これには俺も動揺を隠せなくなる。
「何があったと言われましても、正直、説明のしようがないんですけどね」
俺はそう困ったように零した。
「念を押しておくが、この期に及んで隠し事はためにならんぞ。もし、本当のことを言わなかったら、お前が部室のパソコンでエロ画像を集めていたことをみんなに教えてやる」
普通にネットができて、年頃の男子だったらそういう画像を集めてしまうのも無理ないはずだ。
「そしたらお前の人間としての株は大暴落だ」
そう言って、部長は禍々しく口の端を吊り上げた。
「止めてください。もし、そんなことをされたら恥ずかしくて学校に行けなくなりますし、部長はそういう人の名誉を傷つけかねないことはやらないと思っていましたけど」
部長は変わってはいるが、誠実な一面も持っている。だから、本気でそういうことをやるとは思えない。
「その通りだし、今、言ったことは単なる冗談だ。とにかく、昨日、俺は気が付いたら夜の部室で寝ていた。しかも、夜中の二時まで寝ていたんだぞ」
そんな時間まで目を覚まさないとは俺も予想していなかった。
「こんなことってあり得るのか?」
部長は首を捻る。
「そんなに寝ていたんですか。警備員さんとかに見つからなくて良かったですね。電気とか点けっ放しだったらヤバかったんじゃないんですか」
部長が気絶した時は昼間だったし、俺も電気は点けなかった。そうなると部長は真っ暗闇の中で目を覚ましたってことか。
ちょっとしたホラーだな。
「まったくだ。俺もお前が魔方陣の前で呪文を唱えたところまでは覚えているんだが、その後の記憶が全くない。それにこの魔方陣を見てみろ」
部長は魔方陣の上に立つと上履きの踵で線を擦った。
「床に焼き付いたかのように、線が消えやしないんだ。しかも、形が機械で描かれたかのように綺麗になっている。これが何かとんでもないことが起きたことを証明しているんだが、何も覚えていないのは一生の不覚だとしか言いようがないな」
そう言うと、部長は腕組みをしながら、魔方陣の中央に立った。
「確かに不思議なことは起きたかもしれませんね。俺も誓って魔方陣に手を加えたりはしていないですし。もっとも、俺から情報を引き出そうとするのは無意味ってもんですよ」
俺は嘘を吐くのが苦手だが、ここは白を切り通すしかない。
「ほう、なぜだ?」
部長はいつものような楽しげな顔をする。その全てを見透かすような目は俺の心をそわつかせた。
「俺も気が付いたら部長と同じように部室で倒れていたんです。だから、何が起こったのかは全く分かりません。まるで記憶が欠落しているみたいに」
俺は臆面もなく言うと苦しい嘘を続ける。
「むしろ、俺の方こそ、何が起こったのか部長に聞きたいくらいですよ」
俺は目力を最大にして言った。これで駄目なら、洗い浚い白状するしかないだろう。すると部長もふっと表情を緩める。
「そうか・・・。そいつは残念だな。だが、奇跡は確かに起こったわけだし、ミステリー研究会の部長としての血が騒ぐぞ」
部長は挑むような笑みを浮かべると拳を突き上げて宣言する。
「いずれにせよ、何が起こったのかはこの俺のプライドにかけて突き止めてやる。誰にも世界の真実に迫ろうとするこの俺を止めることはできないのだ」
果たしてイビルナートの登場は、この世界の真実へと迫る鍵になり得るだろうか。一方、部長は熱血したように言うと、改めて足下の魔方陣へと視線を向ける。
「とはいえ、この消えない魔方陣の線は一体どうしたものか」
この魔方陣が消えないのはかなりまずいと思う。生徒会に見つかったら大事だ。
「とりあえず、当面の間は部外者を部室に入れないように注意するしかないですね。あと、部室の戸締まりも徹底しないと」
部室に来るのは俺たちを除いては、レスティーくらいなものだからな。なら、簡単には見つかるまい。
「そうだな。こんな不気味な魔方陣を見られたら、ただではすまんからな。それに消さなければ、この魔方陣は再び何か起こしてくれるかもしれん」
おそらく、イビルナートは再び俺と接触してくる。その時は部長も自分の目で奇跡を拝めるかもしれない。
「ですよね。このまま何も起こらずじまいじゃ、俺も胸に支えている物は取れませんし。それに、この魔方陣が消せなくなったことには必ず意味があると思いますよ」
確か魔方陣の前で呪文を唱えれば異世界の扉が開くんだよな。
「お前もそう思うか。フー、何だか無性にワクワクするぜ。これは現代に生きる人間の常識を覆すような経験ができるかもしれないし、お前も何か思い出すことがあったら、どんな些細なことでも良いから俺に教えてくれよ」
部長はそう言って引き下がってくれたが、こっちは何だか悪いことをしたような気分だ。
「分かりましたよ。その代わり部長も何か突き止められたら俺に教えてくださいよ。そうじゃなきゃフェアじゃないし」
そこまで言っておきながら、アグナスのことを隠している俺はかなりの卑怯者かもしれないな。
「ああ。ま、そういうことなら、俺はとりあえずコンビニで朝飯を買ってくる。色々と考え過ぎたせいで腹が減ってしょうがないんだ。幸いにも今日はコンビニでパンのセールがやっているはずだし、たらふく食わせて貰うぞ」
今の時間帯じゃ、まだ食堂も購買もやってないからな。それにコンビニなら学校のすぐ向かい側にある。
「なら、俺にもサンドウィッチとオレンジジュースを買ってきてください。腹が減っているのは朝食を食べていない俺も同じですし、ちゃんとお金も払いますから」
「おう」
そう威勢よく言って、部長は部室から出て行ってしまった。残された俺はとりあえずアグナスに話を振る。
(昨日、イビルナートはウォルコット教授に用があるって言ってたよな。一体、どんな用があったって言うんだ?)
俺は心の中でアグナスに話しかけた。
(ウォルコット教授は異世界研究の第一人者だ。彼なら私の事情を知った上で、私を受け入れてくれると判断したのだ)
だから、白羽の矢が立ったというのか。
(まあ、結果的にはその息子の方が、イビルナートのメールに興味を持ってしまったようだが)
アグナスから渡された明確な回答に俺も納得する。
(なるほど。でも、魂の引受人はアグナスの世界の人間じゃ駄目だったのか?いくら邪神の脅威が迫っていたとは言え、この世界まで来る必要はないと思うけど)
聞くところによるとアグナスは随分と前から、この世界にイビルナートと一緒にいたらしい。
そこで、この世界のことも色々と学んだという。
(どうもイビルナートは自分の世界の人間から選びたかったようだな。その方がファンタジー小説のようで面白いと言っていたし、あの道楽好きな邪神は一体、何を考えているのやら)
アグナスは含むような口調で言うと言葉を続ける。
(まあ、私としては心が邪悪な者でなければ誰でも良かった。そういう意味ではイビルナートはお前を適任だと思ったのだろう)
(どうして?)
俺のような凡庸な少年が、適任だったとはとても思えないが。
(確かなことは言えないが、たぶんお前の純粋な心を見たからだろうな。それにお前の心には人知を越えた現象を追い求める強い願望がある)
一応、俺もミス研の部員だからな。そういう心は否定しない。
(だからこそ、あの恐ろしい姿をしたイビルナートを前にしても無闇矢鱈に怖がることはなかったのだ)
アグナスは強い口調で言い切った。いや、そうは言っても、俺だってあのイビルナートには本気でビビらされたぞ。
(そうかな?この俺に褒められるほど純粋な心があるとは思えないんだけど。ま、心なんて目には見えない不確かなものだし、お前がそう言うんなら、間違いはないんだろうが)
俺も含めて自分の心を分かっていない人間など掃いて捨てるほどいるだろうし、ここはアグナスの言葉を信じるしかあるまい。
(ああ。お前の心の中にいる私だからこそ、それが分かる。故に、お前を魂の器として選んだイビルナートの目にも狂いはなかったということだ)
邪神に心の純粋さを見込まれてもね。
(そう言う私自身もお前のような人間に取り憑けて、運が良かったと思っているよ)
そう口にしたアグナスは俺の心を隅々まで知っているようだし、だとしたら、俺の心のプライバシーが脅かされている。
まあ、見られて困るようなやましい心は持ってないから良いけど。
(なら、あの場にいた部長にだってその資格はあったと思うけど?部長は決して悪い奴じゃないし、部長ほど、人知を越えた現象を追い求めている人間はいない)
それははっきりと断言できる。
(だとすれば、あの者は単純に運が悪かったと言うことだ。イビルナートと接触できるのは魔方陣の前で呪文を最後まで唱えた者だけだからな。それ以外の者はイビルナートの姿を見ることすら適わない)
だから、部長は気絶していたのか。
(そういえばアグナスは異世界へのゲートを開くための呪文を知ってるんだよな?ひょっとして、今すぐにでも異世界に行けるのか?)
俺は思い出したように言った。
(むろんだ。お前も私のいた世界に行く気になったか?もし、そうなら私としても嬉しいところだが)
アグナス軽快な声を発する。
(そんなところだ。やっぱり言葉だけじゃピンと来ないし、一度は異世界に行ってみないことには始まらないと思う。それに百聞は一件しかずって言うし)
俺はその好奇心は猫をも殺す思いながらも言葉を続ける。
(ま、俺もアグナスティア王国をこの目で見れば、アグナスの力になろうって言う気も起きるかもしれないからな)
俺は何となく虫の良いことを言っていた。
(そうか。ならば呪文を教えてやる。確かに自分の目で見なければ受け入れられないことも多いだろうからな。現にお前は私の話した事実とまだ真剣に向き合えてないようだし)
そう言うと、アグナスはドキドキしている俺に呪文を教える。
イビルナートの言葉を信じれば、この呪文を魔方陣の前で唱えるだけで剣と魔法の世界に行けるらしいが、果たしてどうなるか。
「じゃあ、唱えるぞ」
俺は誰に向かって言うわけでもなく、そう口にすると呪文を唱えた。すると魔方陣が光り始めて、魔方陣の中にある文字や図形が目まぐるしく変化する。
でも、今回は三十秒も経たない内にその変化は終わった。ただ、魔方陣は眩しくない程度に光っている。
(ゲートは開いた状態を五分しか維持できない。それと一度、開いたゲートは誰でも通れるようになることを覚えておいてくれ)
アグナスの指摘を受け、俺は厄介だなと思う。部長が来たら、今度こそ何が起こったのか言い逃れはできなくなるな。
(分かった)
俺は怖じ気づきそうになりながらも魔方陣に足を踏み入れた。すると視界が一瞬にして塗り変わる。
(ここは?)
俺は目を瞬かせて周囲を見回す。
そこにはずらりと一列に並んだ柱があり、壁には芸術的なレリーフも刻まれていた。奥には神秘的な空気を発する祭壇のようなものもある。
その上、天井には光を放つ不思議な石も埋め込まれているので、太陽の光が届かないようなこの場所でも視界は確保できた。
(ここはとある神を奉った神殿の中だ。今は寂れていて人は寄りつかないが、その気になれば誰もが足を踏み入れられる場所ではある)
アグナスの言葉に俺は自分が本当に異世界に来てしまったことを悟った。
それから、いつまでもボーッと突っ立っているわけにはいかないと思い、出口のある方に行こうとする。
すると出口まで伸びていると思しき通路の向こう側から、一人の少女が姿を現した。
少女は腰まで伸ばした長いブロンドの髪が印象的で、まるで魔法使いのようなローブを着ている。
その上、ローブは肌が露出している部分があり、何とも扇情的なデザインだった。
あと、少女は先端に水晶が括り付けられている杖も握っているし、その出で立ちはまさしく本物の魔法使いと言って良いだろう。
俺は得体の知れない少女を見て足が床に縫い付けられてしまう。ざっと見た感じでは年齢は俺と同じくらいだが。
あと、俺の目が確かなら、少女の肩には小さな手乗りサイズのドラゴンがいる。ドラゴンは宝玉のような瞳で俺の顔を見詰めていた。
そして、少女は厳しい表情でカツカツと足音を立てながら俺の方に近寄って来る。俺もただならぬものを感じて、緊張感を漲らせた。
「あんたがあのイビルナートが言っていた王の魂を受け入れた奴なの?まだ年端もいかない子供じゃない」
少女は舐めて掛かるように言うと、言葉を続ける。
「イビルナートの奴、期待を持たせるようなことを言ってたのに。これだから、あの蛇は信用ならないのよ」
俺の前までやって来た少女の声は何ともギスギスしていた。
そして、少女の発した言葉は英語ではないのにどういうわけか俺には理解することができた。
それを受け、アグナスは魔方陣には翻訳の魔法がかけられているのだと、すかさず俺に説明する。
その証拠に俺が次に発した言葉も英語ではなかった。
「そんなことを言われても困るけど君は?」
俺は気圧されながら尋ねる。今の段階では目の前の人物は敵か味方かは分からない。
「イビルナートからは何も聞いてないってこと?まったく、面倒くさいわね。でも、何はともあれ無事に王の魂の器は見つかったんだし、良いことにしておいてあげるわ」
少女は白い項を露わにしてサラサラとしたブロンドの髪を掻き上げた。
「一応、自己紹介をしておくけど、私の名前は《レファナート》。こう見えても、王の魂の守り手よ」
レファナートは凛とした声で言った。
「俺様は《魔竜ガステューク》。こんな小さいナリをしているが、生粋のドラゴンだしこいつの相棒だ。ま、よろしく頼むぜ」
そう言って、ドラゴンのガステュークは得意げな顔をする。俺も今更、喋るドラゴンが現れた程度では驚きはしないが。
ただ、ドラゴンが喋るというのはシュールではある。
「王の魂の守り手というと、君はアグナスと何か関係あるのか?」
俺はレファナートをじろじろ見ながら言った。
「あるに決まってるでしょ。私は王の魂を守護する役目を負っているんだから。ハア、そんなことすら知らなかったってわけね」
悪かったな。
「これだとこの先が思いやられるわ」
そう言うと、レファナートは呆れ果てたような目で俺の顔を見る。これには俺も、もっと口にする言葉を選べば良かったと思った。
「それにしてもこんなガキを王の魂の担い手に選ぶとはアグナスの奴も焼きが回ったんじゃないのか?まあ、それだけ追い詰められていたのかもしれないが」
ガステュークは嘲笑うように言った。
ガキ呼ばわりされたことには俺も腹が立つ。このちんちくりんなドラゴンの頭を指で小突いてやりたくなった。
「そうね。でも、人の本質は見かけだけじゃ計れない。それにこいつの澄んだ瞳は昔のあいつにどこか似ているし、悪い人間じゃないってことくらいは私にも分かるわ。とりあえず、あんたの名前を聞かせて貰えるかしら?」
そう言うと、レファナートは宝石のような青色の目で、俺の顔を見据えた。
「テッド・ラングフォードだよ」
俺はレファナートの態度に勃然としながら答えた。
「ふーん。聞いたことのない名前ね。だけど、異世界から来たんじゃそれもしょうがないし、王の魂を受け入れるに相応しい器であれば名前なんてどうでも良いわ」
この物言いには俺もムカッとした。
「名前を聞いてきたのはそっちなのにどうでも良いとか言うのかよ。随分と勝手なことばかり言う奴なんだな」
俺は怒気を孕んだ声で言った。
「君って、周りの人間からかなり嫌われているだろ?」
俺の発した言葉を聞いた、レファナートは意表を突かれたような顔をする。その反応を見て、俺も嫌なことを口にしてしまったなと軽く自己嫌悪に陥る。
まあ、何にせよレファナートは好きになれるような女の子ではない。
でも、彼女も俺という人間の器を何とかして推し量ろうとしているのかもしれないし、それに応えられないようじゃ男じゃないよな。
「そんなことないわよ。もっとも、私は嫌われることなんて怖くないし、ましてや、あんたのような人間に好かれたいとも思ってないわ。とにかく、私の物言いが気に触ったのなら、謝ってあげても良いけど」
レファナートは調子づくように言った。
「別に謝らなくたって良い」
俺はぶっきらぼうに言った。
「そう。でも、場合によっては、あんたと私は長く付き合っていかなきゃならなくなるし、そんなことで腹を立てていたらキリがないわよ。ま、男だったら、グチグチと小さいことは言わないことね」
レファナートは俺の怒りようを楽しむように笑った。
「そうかよ。まあ、それは良いとしても、君は何でこんな所にいたんだ?」
俺は当然のごとき質問をする。待ち伏せされていたと考えるのが自然だが、よく自分がここに現れる時間が分かったものだ。
現れたタイミングが良すぎる。
「分かりきった質問をするのね。私はここで待っていたのよ。アグナス王の魂が異世界から帰還するのを」
レファナートの声には芯が通っていた。
「ここで?」
「そうよ。イビルナートが二、三日の内に必ず現れるって言うから、私も神殿に誰も入れないように結界を張って待っていたんだし、あんたが早い内にこの世界に来てくれたことには感謝しているわ」
いずれにせよ、数日は待つつもりだったのだろう。ご苦労なことだな。
しかし、イビルナートの思惑、通りに動かされていることには俺も気に食わないものを感じだ。
「それは大変だったな。ひょっとして、もし、俺が二、三日の間に来なくてもここで待っていたのか?」
「その通りよ。こっちは王の魂の担い手が現れるのを散々、待たされたのよ」
レファナートは胸の前で握り拳を作ると、一拍おいてから口を開く。
「だから、嫌でもあんたには協力して貰うし、もう少し来るのが遅かったら、私もあんたの頬を引っぱたいていたかもしれないわ」
さらりと怖いことを口にすると、レファナートは爬虫類のように目を細めた。俺は可愛い顔をしているのにこんな目をするなんて勿体ないなと思った。
「そいつは怖いな。でも、協力って言っても俺には何の力もないぞ。それでも構わないって言うなら手を貸すのもやぶさかではないが、具体的には何をすれば良いんだ?」
「それは追々、教えるわ。まっ、今のあんたを取って食うつもりはないから、神殿の外に出てアグナスティア王国の王都まで行くわよ。私も早くこの神殿に張った結界を解いて、楽になりたいし」
レファナートは息を巻くように言った。それから、身を翻すと神殿の出口に向かって歩き始める。
俺も黙ってその後に続いた。
(なあ、アグナス。彼女はどういった人間なんだ?何というか、かなり刺々しいオーラが漂ってくるんだが)
俺は好奇心を抑えきれずに尋ねる。
(彼女は宮廷魔法使いの頂点に君臨していた魔法使いだ。その力は折り紙つきだし、見ての通り気性も荒いから、あまり怒らせない方が良い)
アグナスは平坦な声で言った。
(宮廷魔法使いなんて、ファンタジーのゲームの中でしか聞いたことがない言葉だけど、もしかして凄いのか?)
(もちろんだ。それに彼女はかつてザナルカダスに仕えていた《神獣ゲリュディオン》を倒した立役者だからな。彼女の力がなければアグナスティア王国の王都はゲリュディオンによって徹底的に破壊し尽くされていただろう)
アグナスの声は心なしか震えているようにも感じられた。どうやら、神獣ゲリュディオンというのは余程、恐ろしい怪物みたいだな。
(だけど、それは相当、昔の話だろ。今も生きているなんて、どう考えてもおかしいんじゃないのか?)
(ああ。実のところ彼女は普通の人間ではない。このアグナスティア王国の守り神だった《善神レヴァナート》によって生み出された人間なのだ)
レヴァナートという名前をアグナスは畏怖の念を感じているように口にした。
(つまり普通の人間じゃないってことか?まあ、普通でないのは発している雰囲気を見れば一目瞭然だが)
(お前の言う通り、あらゆる意味で彼女が普通でないのは確かだ)
そう言うと、アグナスは昔話を聞かせるような口調で語り始めた。
(遙か昔、レヴァナートはある一人の処女の胎内に命を宿らせた。その結果、産まれてきたのが彼女なのだ。故に何百年も生きられるような並外れた生命力を持っている。もちろん、その力も強大、極まりない)
何かキリストみたいな話だな。まあ、どこにでも似たような話はあるものだ。
(へー。俺にはとても何百年も生きているような人間には見えないけど。なんて言うか精神年齢も普通の女の子とそう変わらないように思えるし、あの性格じゃ、とても大人とは呼べないだろう)
俺の見た限りではレファナートは紛れもなく十四、五歳くらいの少女だ。あどけなさだって感じさせるし、そんな悠久とも言える歳月を生きてきたようには思えない。
(そうだな。いずれにせよ、性格には色々と問題はあるが信頼できる人間に違いないことはこの私が保証しよう。故にお前も安心するが良い)
(なら、その言葉を信じさせて貰うよ)
俺とアグナスがそんな話をしていると、太陽の光が差し込んでいる出口が見えてくる。その光に誘われるように歩いて行くと、俺は目の前に広がる景色に圧倒された。
神殿の出口からは遙か遠くの景色まで見渡すことができたのだ。
どうも神殿は小高い丘に立てられていたようで、眼下には防壁に囲まれた大きな都市が見える。
あれがアグナスティア王国の王都なのか。何だか凄いな。
「さてと、王都に戻ったら、たっぷりと旨い飯を食わせて貰うぜ。いつ来るかも分からない王の魂を待っていたせいで無性に腹が減ってるからな」
ガステュークは舌なめずりをしながら言った。
その後、俺たちはなだらかな丘を下り十分ほど歩いて、王都を囲む防壁の前まで来た。聳え立つ防壁は強固な守りを感じさせる。
そして、そこには列を成している人や馬車があり、防壁の門の傍では検問をしている兵士たちがいた。
彼らはみんな時代錯誤な感じの服を着ているし、王都に入るにはまず検問をくぐり抜けなければならないようだ。
だが、レファナートの顔を見た兵士たちは、一も二もなく俺たちを通してくれた。どうやらレファナートの顔は知られているらしく、兵士たちは彼女に敬意すら払っていた。
とはいえ、兵士たちも学校の制服姿の俺にはことさら怪しげな目を向けていたが。それから、難なく防壁の門を通過した俺は思わず目を見開く。
そこには古代のヨーロッパを彷彿させるような光景があったからだ。所謂、典型的な剣と魔法の世界と言える。
俺の目の前にある大通りにはまるで大都市の駅前のように人がたくさん歩いていて、その横手にはずらりと石造りの店が建ち並んでいる。
道端には屋台や露天商などもいるので、お祭りのような賑やかさが、そこにはあった。
こんな光景は映画やオンラインゲームの中でも見ることはできないだろうと思い、俺は舌を巻く。
本物にしかないリアルさがそこにはあったし、ここまで心が躍るような気持ちになったのは俺にとっても本当に久しぶりのことだ。
カメラがあったらこの光景を写真に収めたいとさえ思える。
とにかく、今、俺がいるところはまさしく本物の異世界と言っても良いし、この場に部長がいたら泣いて喜んだだろう。
もし、呪文を唱えたのが部長だったら、彼はこの場に立つことができていたかもしれない。
それを考えると俺は周囲を見回しながら感動すらした。
「話には聞いてたけど、アグナスティア王国って言うのは凄いもんだな。この賑やかさは俺の住んでいる町とは大違いだよ。でも、これからどこに行くつもりなんだ?」
俺は無表情で隣を歩くレファナートに尋ねた。
「とりあえずは食堂にでも行くわよ。そこでなら、ゆっくりと話もできると思うし、私もガステュークと同じようにお腹が減ってるから。それにあんたのその姿は人目を引くし、立ち話はしたくないわね」
制服姿の俺はとにかく目立つし、レファナートもそこら辺は気にしているようだ。
「けど、俺は学校の授業もあるから、あんまりこの世界には長居はしたくない。授業をサボるのはまずいし」
時計を見ると時刻は七時を回っていた。あまりの急なできごとに翻弄されて俺も危うく学校のことを忘れるところだった。
「それは元の世界に戻る必要があるってこと?」
レファナートのジロッとした視線が俺の顔に向けられる。そんなに悪感情を持たれるようなこと言ってしまったのか?
「そういうことだよ。もしかして、もう元の世界には戻っちゃいけないとか言うわけじゃないよな?だとしたら、今すぐにでも神殿まで引き帰させてもらうが」
そして、二度とこの世界には来ないようにする。
「この私の目の黒い内はそんなことはさせないわよ。はっきりと言っておくけど、あんたには元の世界に戻って欲しくない」
レファナートは渋面でそう言い放った。
「そんな無茶を言うなよ。俺には俺の生活があるんだから。それに俺は何となくこの世界に来ちゃったから、まだ君やアグナスの力になる覚悟だってできてないし」
ここは素晴らしい世界かもしれないが、元いた自分の世界での生活を投げ出すわけにはいかない。
「そういうことね。でも、覚悟なら私がこれから嫌でも持てるようにしてあげるわ。それと、あんたの生活とやらはこの国を救うことよりも大事なことなの?」
たった今、訪れたばかりの国の平和と自分の人生を天秤にかけることは俺には難しい。
「俺にとってはね。そういうお前だって、国を救いたいとか立派なことを言ってるけど、どこか余所の国で餓えている子供がいても助けたりはしないだろ」
レファナートの言っていることは押しつけがましい命令だ。偽善ですらない。
「それと同じだよ」
俺はレファナートから目を逸らしながら言った。それに対し、レファナートは薄く笑いながら口を開く。
「ふーん、随分と嫌な例えを持ち出してくれるわね。まあ、敢えて否定はしないけど、私の話は無理やりにでも聞いて貰うわよ。もっとも、それを聞いたからって、あんたに選択権が生まれるわけじゃないけどね」
レファナートは癪に障るような仕草で肩を竦めた。
「君、いや、お前も強引な奴だな」
俺がレファナートの居丈高な物言いに立腹していると、彼女はいきなり近くの店に入ろうとする。
そこは見窄らしい感じの店構えだった。でも、その店からは何かが焼けるような良い匂いが漂ってくる。
そして、いざ、入ると中はいかにも大衆食堂といった感じの店だった。客もそれなりに多いのでガヤガヤしている。
それを見て、ガステュークは目を爛々と輝かせた。
「クッー、これでやっと飯が食える。おい、姉ちゃん。牛肉のステーキを三皿持ってきてくれ。ついでに泡たっぷりの生ビールも」
四人用の丸いテーブルの席に着くとガステュークがウェイトレスを呼びつける。一際、大きな声で。
ウェイトレスの方もガステュークに驚く風でもなく、かしこまりましたと元気の良い声を上げた。
さすが剣と魔法の世界だけあって、喋るドラゴンも物珍しいものではないようだ。
「あんまりはしゃぐんじゃないわよ、ガステューク。それでなくても今の私たちはこの王都の人間からは白い目で見られてるんだから」
レファナートはギロリとガステュークを横目にする。だが、ガステュークはどこ吹く風といった顔をしていた。
「固いこと言うなよ。こっちは昨日から神殿にいて夕食も食ってないんだぜ。これ以上、腹が減ったらお前の白くて旨そうな肌に齧り付いちまうぞ」
ガステュークはレファナートの首に自分の頭をすり寄せながら言った。
「だからって、そんなにドカ食いすると胃が痛くなるわよ。まったく、私なんて三ヶ月は何も食べなくても生きていけるって言うのに情けないわね」
レファナートはふっと息を吐いた。
「お前のような規格外の人間と一緒にするな。それに俺は鉄の胃袋を持ってるから、幾ら食っても大丈夫なんだよ。こと食うことに関してはドラゴンの体を甘く見たら駄目ってもんだぜ」
ガステュークは自信を漲らせながら笑った。
「じゃあ、俺も何か頼んで良いかな。正直、さっきからお腹が鳴りっぱなしなんだ。今日は部長のせいで朝食もろくに食えなかったし」
俺はどうしても食欲が抑えきれなくなる。それだけ美味しそうな料理を食べている人間が店内には多かったのだ。
「好きにすれば」
そう冷めたような口調で言ったレファナートも食事代くらいは出してくれるようだ。それを受け、俺もメニューをしげしげと眺める。
「なら、当たり外れのなさそうな鶏の唐揚げにしようかな。あとリンゴジュースなんかも飲みたいんだけど」
その言葉を聞きレファナートが頷いたのを見ると、俺はウェイトレスを呼びつけて料理を注文する。
ついでにレファナートも俺と同じ物を注文した。
それから、俺はすぐに運ばれてきたリンゴジュースを渇いた喉に流し込む。生き返ったような心地とはこのことだった。
こんな状況でなければこの世界をもっと余裕を持って楽しむことができただろうに、と俺も残念に思う。
「そろそろ話を始めて良いかしら。私もあんたと親睦を深めるためにこうして食事の席に着いているわけじゃないし、これ以上、時間を無駄にするのは耐えられないわ」
俺がリンゴジュースを飲み干すとレファナートが話を切り出してくる。その瞳は吸い込まれそうなほど青かった。
「分かったよ。こっちだって聞きたいことだらけだし、どうせ話すのなら、とことん話してくれて構わない。一時間目の授業は欠席することにするから」
俺は真面目な顔で頷く。もし、授業を欠席しても、ノートはレスティーに貸して貰えるから大丈夫だ。
「なら、そうさせて貰うわよ。今、この国は《邪神ザナルカダス》によって支配されようとしているわ。でも、ザナルカダスはその力が強すぎるせいで、ゲートを通れないの」
「それなら知ってるよ」
その話ならアグナスから聞いている。でも、レファナートは傲然と口を開いた。
「良いから聞きなさいよ。アグナスはザナルカダスからこの国を救ったけど、肝心のザナルカダスは異界に追い返されただけ。しかも、今のザナルカダスは以前よりも遥に強大な力を持っているし」
レファナートの視線は俺の中にいるアグナスに向けられているようだった。
「要するに、そのザナルカダスとやらが再びアグナスティア王国を支配するために何とかしてこの世界に入り込もうとしているから、お前やアグナスはそれを防ぎたいんだろ」
俺の反抗的とも言える言葉にレファナートも一瞬、鼻白む。なので、俺はヒヤリとした心で言葉を続ける。
「でも、異界って俺たちのいるような世界のことか?邪神が住んでいるような世界なら、ちょっと興味があるんだが」
「あいにくと異界のことは私にも分からないけど、異界へと通じるゲートは王宮の地下にあるし、それはこの国の人間なら誰もが知っていることなのよ」
なら、ゲートの封印を解こうとする人間が幾らいてもおかしくはないな。
「だから、余計に厄介なんだけど」
そう言って、レファナートは自分のリンゴジュースを酒でも呷るように飲むと食堂にいる客を見回す。
みんな和気藹々と食事していて、平和そのものだ。
それを見ると、深刻ぶって話をしている俺たちが滑稽に思えてくる。
「へー」
何にせよ、そんなところにゲートがあるなんて危険だなと俺は思った。
「それで、数年前、一人の宮廷魔法使いが、そのゲートの封印を解いたのよ。愚かにもザナルカダスの力を利用しようとしてね。もちろん、あの権力欲に取り憑かれた、ルシアス王の命令もあったんだろうけど」
レファナートは凍てつくような目で言った。
「そいつは誰なんだ?お前も宮廷魔法使いの一人だとは聞いているし、昔の仲間だったりするわけか?」
俺は自然な形でレファナートをお前呼ばわりしていた。
「そうよ。けど、あんな奴の仲間だったなんて、今、考えても怖気が走るわね。とにかく、封印を解いたのはジュダ・ゲオルーグっていう嫌な男よ」
レファナートは犬歯を剥き出しにしながら言った。こいつに嫌な男とか言われるなんて、一体、どんな奴なんだろうな。
「同じ宮廷魔法使いとして、そんな奴の行動を止められなかったことに対しては私にも責任があるけど」
そう言って、レファナートは自責の念を感じさせる顔をする。
「そうか」
その辺の背景は俺にも想像ができないが、色々と確執のような物があったのだろう。
「とにかく、そいつのせいで、ザナルカダス自身は無理だったけど、復活した《魔王ヴォラクロス》やその仲間たちがゲートを通って王宮に入り込んだの」
焦慮を感じさせる声で、レファナートは言葉を続ける。
「その上、実際に私と戦ったヴォラクロスは前よりも手強い相手になっていたし」
そう言って、レファナートは憎々しそうな顔をした。
「それは大変なことになったな」
そう言いつつも、まるで大変さを実感できない俺だった。
「ええ。現在、国王の座にいるのは全てを指示したルシアス・ドゥ・オルゼアーノだけど、その背後には《魔王ヴォラクロス》がいる。今じゃ、ルシアス王は操り人形のようなものよ」
「だとすると、この国そのものがお前やアグナスの敵になっていると言うことか。それで、俺に何をしろと?さっきも言ったけど俺には何の力もないし、危険を冒してまで戦いたくなんかないぞ」
俺は回りくどい言い方はせず、率直に言った。
「それについては大丈夫。王宮の中には《善神レヴァナート》の力を宿した《レヴァナーグの剣》がある。あんたにはまず、それを手に入れて貰いたいのよ」
「どうして?」
俺は話の筋が見えた気がして、あからさまに嫌そうな顔をした。
「レヴァナーグの剣は途轍もない力が秘められているけど、王の魂に選ばれた者しか触ることができない。だから、王宮を支配することに成功したジュダもヴォラクロスも未だに手が出せずにいる」
レファナートはニヤッと笑うと言葉を続ける。
「もし、レヴァナーグの剣を手に入れられればジュダやヴォラクロスも倒せるし、ゲートの封印だってきっとできるわ」
そんなに簡単に上手くいくのか。
「でも、そうなるとその剣を扱うのは俺になるんだよな」
俺は恐れを抱きながら尋ねる。話の流れからするに、そう考えるのが自然だろう。
だが、邪神や魔王と戦うなんて、あまりにも荷が勝ちすぎている。自分は一介の高校生に過ぎないというのに。
「そうよ。当たり前じゃないの。もし、私にも扱えるなら、あんたのような人間にわざわざ頼んだりはしないわ。何のためにあんたが来るまで、私が手をこまねいていたと思ってるのよ」
レファナートは軽く鼻を鳴らした。それに対し、俺は冗談じゃないと叫びたくなった。
「そうは言っても、俺に剣を使った戦いなんて無理だぞ。お前が言ったのが、どんなに凄い剣かは知らないが、俺は竹刀ですら握ったことはないんだし」
俺も運動は得意だ。でも、武術の類いは全く嗜んでいないので、例え相手がただの不良でも勝てる気はしない。
ましてや剣を扱う技量など皆無に等しいのだから、戦える道理がない。
「だから大丈夫って言ってるでしょ。王の魂があんたにはついている。その気になれば剣だって達人のように自由自在に振るうことができるわ」
「本当かなー」
レファナートに上手く言いくるめられていることは俺も分かっていた。が、どうしても強気の反論ができない。
なぜなら、俺自身もつまらない日常が壊れてくれるのをどこかで願っていたからだ。それに異世界を救う勇者に憧れない少年などいまい。
だが、今にして思えば、それはあまりにも安易な心の持ち方だった。
「そんなことで嘘を吐いてどうするのよ。私だって、王の魂の力を信頼しているからこそ、あんたにこの話を打ち明けたのよ。伊達や酔狂で、言ってるわけじゃないわ」
レファナートがジト目で俺を見たその瞬間だった。いきなり店の外から甲高い叫び声が聞こえて来る。
同時に女性の悲鳴も。
俺は何が起こったのかと目を白黒させる。
「ぐ、グリフォンが出たぞー」
グリフォンという言葉に食堂にいた者たちは全員、血の気が引いたような顔をした。
唯一の例外であるレファナートはすぐに席を立って、食堂の外に飛び出す。俺も慌ててその後に続いた。
すると大通りを大勢の人たちが逃げ惑っている光景が俺の目に飛び込んでくる。俺が反射的に上を見ると、体長が五メートルはありそうな巨大な怪物がいた。
怪物は鷲の顔にライオンに似た体を持ち、背中からは翼が生えている。それは俺の世界では絶対にお目にかかれない獣、グリフォンだった。
それを受け、俺の体も粟立つ。
人間が想像するものは例え世界は違っても必ず存在するって言っていた学者がいたけど、あの言葉は本当だったか。
仰天している俺の視線の先ではグリフォンが空から人を襲っていて、狙われた一人の女性の上半身が大きなクチバシで食い千切られる。
これには俺も目を背けたくなった。
だが、グリフォンはそんな俺を余所に続けざまに小太りの男の背中もナイフのような爪で切り裂き、その体をバラバラにした。
それはまさに凄惨としか言いようがないシーンだった。
「あ、あんな化け物がこの世界にはいるのか?」
俺はイビルナートの時とは違った恐怖を感じていた。
何せ、人が直に殺されるところなど初めて見たのだから、それも仕方がない。俺にはショックが強すぎだ。
そうこうしている内にグリフォンは逃げ遅れた五歳くらいの少女に狙いを定める。
だが、少女を守るように剣を抜いた騎士のような青年がグリフォンの前に立ちはだかる。勇敢には違いないが、その足は震えていた。
グリフォンは太陽を背にして騎士へと迫る。そして、鋭い爪が騎士の剣を大きく弾き飛ばした。
これには騎士も顔を青くする。
一方、俺はすぐ近くにまで飛んできた騎士の剣を見る。
グリフォンは今にも騎士と少女に襲い掛かろうとしているし、このまま何もしなければ二人は確実に死ぬだろう。
(剣を取れ、テッド!)
アグナスの鮮烈な声が俺の頭に響いた。
その瞬間、俺は見えない力に突き動かされるように剣を手に取ると、グリフォンの方に向かって疾走する。
グリフォンも騎士の顔面を切り裂こうと爪を振り翳す。が、その爪が振り下ろされることはなかった。
なぜなら、俺の手にした剣がグリフォンの腕を背後から切り落としていたからだ。
「ギャー」
グリフォンは耳を劈くような悲鳴を上げて空高く舞い上がった。
それから、すぐに体を旋回させると、今度は猛然と俺に襲いかかろうと急降下する。グリフォンは完全に頭に血が上っているようだった。
俺は思わず逃げ出したくなったが、アグナスはそれを制止する。
(私の力を信じろ、テッド。逃げずに勇気を持ってグリフォンを打ち倒すのだ。今のお前ならばそれができる)
アグナスの言葉は逃げ腰だった俺の心を鼓舞する。こうなったら破れかぶれだと思い俺も無心で剣を構え、グリフォンの攻撃を待ち構える。
そして、グリフォンと俺の体が際どいタイミングで交錯した。
その瞬間、俺は刹那の差でクチバシをかわすと、すかさずグリフォンの頭を切り飛ばす。血飛沫をまき散らせながら、グリフォンの頭は鮮やかに宙を舞った。
これには周囲にいた人々も「おおー」感嘆の声を上げる。レファナートもニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
(見事だ、テッド)
グリフォンの体がドサッと地面に崩れ落ちると、アグナスの称賛するような声が聞こえてくる。
それを聞き、俺は一気に体の力が抜けるのを感じた。
もし、ほんの少しでもタイミングが合わなかったら殺されていたのは自分の方だったはずだ。
その事実が、今頃になって強い恐怖として蘇ってくる。
(いや、これは俺の力じゃないよ。こんなにも見事な太刀筋でグリフォンの頭を切り飛ばせたのが、自分の力などと思えるほど馬鹿じゃないし、全てはアグナスの力さ)
当然、自惚れもない。ただ、目に見えない力が全くの自然な形で自分の体を動かしたことは分かっていた。
(そう思うのなら、早く私の力を使いこなせるようになるのだな。そして、いつかは私の力を自分の物にして見せろ。その時こそ、私もお前を真の王の魂の担い手として認めよう)
アグナスの言葉には盤石の重みがあった。そんなアグナスには顔こそなかったが、俺には彼が不敵に笑っているように思えた。
(うん)
俺も助かった少女の笑顔を見ながら頷く。やっぱり逃げなくて良かった。その横に素直に可愛らしいと思える顔をしたレファナートが立っていた。
「あんた、やるじゃないの。あのグリフォンをこうも簡単に仕留めてしまうなんて、私にだってできることじゃないわ。ちょっとだけ、格好良かった・・・」
レファナートの声は弾んでいたが、最後の格好良かったという部分だけは消え入りそうだった。
「運が良かっただけさ」
俺はおどけたように肩を竦める。気を抜くと膝が笑い出しそうだ。
「そうでもないわよ。さすが王の魂を受け入れた人間ね。正直、侮ってたし、あんたの力を疑って馬鹿にしたような態度を取っていたのは悪かったわ」
レファナートは俺と視線を合わせないように目を泳がせながら言った。
「別に良いよ。でも、何でお前はグリフォンを倒してくれなかったんだよ。アグナスからは凄い力を持ってるって聞いているけど?」
戦えるだけの力はあるように思える。とはいえ、レファナートが進んで人助けをするような親切な人間にはとても見えなかったが。
「そのアグナスなら、何とかしてくれるって信じてたのよ。あの状況で何もしないようなら王の魂の担い手としては失格だし、ま、お手並み拝見ってやつね」
「まったく、お前も人が悪いな。下手したら、あの女の子は死んでいたかもしれないんだぞ。それで、良くこの国を救ってくれなんて言えるよ」
これには俺も口を尖らせながら言った。
一方、レファナートはニコニコしている少女の顔を見て、心に痛みが走っているような声を発する。
「確かにその通りだわ。私ったら、どうかしてた・・・。もしかして、私って嫌な女に見えたりする?」
レファナートは萎れた花のような顔で言った。
彼女がこんな弱さを見せるなんて意外だったし、これには俺の方が悪者になってしまったような気分になる。
「いや、お前は嫌な女なんかじゃないよ。ちょっとばかり高圧的なところもあるけど、普通の女の子さ」
その言葉にはそうあってほしいという願いが込められていた。
「女の子、か。そんな風に言われたのは本当に久しぶりかな。どうやら、長く生きてる間に私は人としての心まで失いかけていたみたいね」
レファナートは口元を柔らかくする。
それを見て、俺も今の彼女なら少しは可愛いかなと思ったが、すぐにレファナートは鋭利な感じで目を吊り上げる。
「それと、お・ま・え・じゃない。私の名前はレファナートよ。ちゃんと名前で呼んでよね」
そう声高に言った彼女の顔は心なしか恥ずかしそうだった。
とにかく、グリフォンを倒したことで、レファナートもようやく俺のことを心から認める気になったらしい。
「なら俺のこともあんたじゃなくて、テッドって呼んでくれよ。お前の発するあんたって言葉は心にグサッと来るんだ」
「ふーん、そんな風に聞こえるんだ。なら、今回のあんたの活躍に免じて考えといてあげても良いわ」
レファナートは照れ臭そうにそっぽを向く。これがツンデレって奴かな。
「なら俺も考えておく。じゃなきゃフェアじゃないだろ」
俺はからかうように言った。
「もうっ、せっかく対等な立場で接して上げようとしたのに。あんた子供のくせに可愛くないわね!」
レファナートは膨れっ面をした。
その後、俺たちは町の人から賛嘆の声を浴びせられながら、メイン通りを後にする。調子の良い連中だとレファナートは毒づいていたが。
それから、そろそろ学校に戻らなければならないことを俺はレファナートに告げる。
するとレファナートは意外にもあっさり了承してくれて、俺はレファナートと一緒に始めてこの世界に訪れた場所である神殿へと戻ってきた。
「じゃあ、俺は帰るからな。お前から聞かされた話はもう少し頭の中で整理したいし」
神殿の中央の床には部室にあるものと全く同じ魔方陣が描かれているが、今は光を放っていない。
でも、俺はこの魔方陣のゲートを通ってきたんだし、呪文を唱えれば反応はあるはずだ。
「それが良いわね。でも、言っておくけど、あんたにはまたこの世界に来て貰うからね。全てはこれから始まるんだから、ちゃんと気を引き締めておきなさいよ」
レファナートは刺し貫くような声で言い放った。
「分かってる。だけど、俺はあくまで自分の生活の方を優先させて貰うからそのつもりで」
俺も真剣な目で頷いた。
「次に来た時は俺様が贔屓にしている屋台を教えてやるぜ。あそこの串焼きは最高に旨いし、お前がもう少し大人だったら、酒を酌み交わしながら話もできたんだが」
ガステュークは最後まで陽気だった。
「あんたは食べ物のことばっかりね、ガステューク。言っておくけど、ステーキを三枚も食べられるような贅沢は今日だけよ」
レファナートがすかさず突っ込みを入れる。その顔は微笑ましそうだ。
「分かってるよ。お前を怒らせると、反対にこの俺がステーキになっちまうからな。我が主のレファナート様はコワイ、コワイ」
ガステュークはおちゃらかすように笑った。それを受けレファナートも「ガステュークったら」と言って額を手で押さえる。
「とにかく、さようなら、テッド。次に会う時にはもう少し男らしい顔つきができるようになってると良いわね」
そう言うと、レファナートはあくまで外見の上でだが年相応の女の子らしく笑う。俺もこんな顔もできるんだなと意外に思う。
でも、悪くない。
「努力してみるよ。じゃあな、レファナートにガステューク」
俺はそう言うと来た時と同じように呪文を唱えて目の前の魔方陣に光りを灯す。そして、魔方陣に足を踏み入れるとレファナート姿は瞬時に掻き消えた。
魔方陣の上に立っていた俺はいつもの見慣れたミス研の部室が視界に映ったのを受けて、心の底から安堵していた。
どうやら、無事に元の世界に戻ってくることができたらしい。長机の上には、部長が買ってきてくれたであろうサンドウィッチと紙パックのオレンジジュースもある。
これこそ日常の光景と言ったところだ。
だが、この魔方陣がある限り、自分が体験したことが記憶の片隅に追いやられることはないだろう。
話しかければアグナスも答えてくれるし。
さてと、もうすぐホームルームも始まるし、俺も急いで教室に戻らないと。
あと、アグナスが言うには変化した魔方陣の文字や記号はゲートが閉じればちゃんと元に戻るらしい。
それなら、部長に異世界に行っていたことを勘づかれずに済む。
俺は部室を出ると軽い足取りで、教室へと戻った。
第二章に続く。