新たな名
恒例となった男の訪問。だが、いつもの皮肉気な笑みを浮かべることなく、硬直して絶句していたので、瑠奈も不思議そうに見返す。
「ごきげんよう?」
「…てめえはなんでそんな格好なんだ」
そんな格好?と瑠奈は自分を見返す。
旅装が汚れたので洗ったのだ。宿で部屋着にしていた服を着て、珍しく小さな池を見つけたから足を浸してご満悦な気分の夜だったのだが。
「何がいけませんでしたか?」
歩きなれぬ足は熱を帯びていたので、浸すととても気持ちがいい。どうもそれがいけないようなのだが。
「ばあちゃんが書いた本に書いてなかったか」
こてん、と小首をかしげる様子に、ファイはため息をつく。
「素足は夫にしか見せねえもんなんだよ馬鹿」
あらかじめ瑠奈が集めておいた木切れに炎の魔法で火を点しながら、ファイは疲れたように言う。
どうしてこいつはこう読めねえ行動をするんだ?
「へー」
そうなんだ。と、のんびりと応える瑠奈は相変わらずぷらぷらと足を池に浸す。
「だから…お前…仕舞っとけ」
「ええー別にファイさんならいいじゃないですか」
「はあ?」
いやまてまて、とファイは頭を振る。
「それはオレならどうでもいいって意味だな?」
「それ以外になにかございますの?」
最近のファイは事あるごとに、瑠奈の言葉遣いを正してくる。意外と真面目なのだ。
「怒ればいいのか喜べばいいのかわからん…」
再び息をつくファイは、本を寄越した。
「ありがとうございます。星の本ですね」
「読めるか」
ファイの問いに、わずかに唇を尖らせ、瑠奈は本をめくる。
「読めます…が、時々わからない単語があります。んー」
「書け」
瑠奈は顔を上げて笑った。
教えてくれるのか。
「はい。ちょっと着替えますからあっち向いててください」
勉強をするなら、足を水に浸しながらというのは失礼だろう。瑠奈は洗いたての旅装に着替える。
木切れで地面に読めない単語を書いていく。ぽつりぽつり、とファイが教えてくれるので、横に日本語で訳を書いていく。
「…それがあちらの言葉か」
「ええ」
「祖母の本は置いてきたのか」
「はい。両親と弟がいます。いつかまた魔力を持つ子が生まれるかもしれませんから、すべて祖母の本はそのまま置いてきました」
ファイはそうか、と応えて、口をつぐむ。
訳を教えることなく、瑠奈を静かに見つめた。
なにか考えているらしい、と瑠奈は小首を傾げて見返す。
ファイは舌打ちしたそうな顔をして、ため息をついた。
「…お前には二つの道がある。オレには他の道は思いつかない」
いいか、としっかり聞くように確認すると、瑠奈の頷きを見て頷き返す。
「ひとつは、水の神殿に仕える道だ。良い点は、生活の保障と、教育を受けられることだ。悪い点は、自由に行動できないこと。神殿の一員として、仕える神殿から出ることはほとんどできない」
そう言うと言葉を切り、瑠奈が理解するまで待ち、表情から理解できていない部分を繰り返して言ってくれる。
頷いて、理解したことを伝えると、ファイも頷いた。
「二つ目は、オレの弟子になることだ。良い点は生活の保障と、知識を得ることができること。悪い点は、バーレル国に仕えることで、行動に制限があることだ。危険な目に合うこともある。嫌がらせを受けることもある。…わかるか?」
ファイは何度か繰り返し、瑠奈が考えるのを見つめる。その表情の動きから、理解しているかどうか図っているのだ。
「…神殿は、自由がない。ファイさんの弟子だと、制限がある?時々他の国に行くことはできますか?」
「オレの弟子ならできる。神殿も、偉くなれば、5年に一度の巡礼に出ることはできる」
「神殿で偉くなるのは、力?年齢?身分?」
「どれも必要だな」
「なら私は偉くなれないね」
「力だけなら、問題ないがな」
んー、と瑠奈は考え、上目にファイを見た。
「私を弟子にして、ファイさんには良いところ、悪いところ、なにがありますか」
「良い点は…弟子をとれとうるさく言われなくなる。手伝いが増える。城を守るための力が増える。悪い点は、責任が増える。面倒が増える。…あとは思いつかない」
急いでこたえを出す必要はない、とファイは続けて言うが、瑠奈の笑いに遮られた。
「ファイさんは正直で真面目ですね。私は貴方を信じます」
よろしくお願いします、と淑女の礼をした瑠奈を、複雑な面持ちでファイは見下ろした。
「お前は神殿もまともに見てないし、他の魔法使いと逢ってもいない。それなのに決めていいのか」
瑠奈はにこにこと笑って頷く。
「弟子の宣誓をしたら、逃れることはできないぞ?歴史に刻まれてしまうのだから。オレが悪い事をしたら、お前も悪人だと思われるんだぞ?」
余計なことは言わず、瑠奈は頷く。
責任が増えるのが、嫌なのだと先ほど言っていたのは本当らしい。あれこれと理由をつけて断る道を示してくれる。本当にひねくれた性格だ。
「―――クソ…『栄えある魔道の礎に、この者を連れゆかん。ルナ=ヨークを、我が弟子とする』」
そう呟くと、ファイは瑠奈へと手を伸ばし、その後頭部を軽く抱え寄せた。
額に口付けられ、そこが熱を帯びる。なにかの印が刻まれたようだ。
「これで炎と光と風の魔法が、少しだけ使えるようになっただろう。お前は水の魔力がありすぎるから、大したことはできないだろうがな」
こてん、と瑠奈は首を傾げてファイを見る。
「さっき、良い点に言ってなかったですわよね?」
「良くも悪くもないだろうが。そんなもんあっても、面倒が増えるだけだ」
「では悪いほうが多い?」
「そうかもな。危険な目や嫌がらせを受けるだろう」
「…仕方ないですね」
肩をすくめて、師匠を真似てため息をついた。
少しは照れてくれよ、瑠奈…