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母を殺せなかった夜

作者: 宵やよい
掲載日:2026/09/29

「お母さんのこと、嫌い?」




昔、一度だけそう聞かれたことがある。





私は少し考えて、



「嫌いじゃないよ」



と答えた。



嘘ではなかった。



たぶん。



でも、本当でもなかった。




綺麗な薔薇には棘があるという。




子どもの頃は、


綺麗なものには少しくらい痛みが伴うものなのだと思っていた。






だから母に傷つけられても、


それにはきっと理由があるのだと思った。







「私、何かした?」



そう聞くと、



「何もしてないよ」



母はそう言った。






何もしていないのに傷つけられることの方が、

私には怖かった。





母は綺麗な人だった。



笑っている日は優しかった。



だから私は、



その日の母がどちらの母なのかを、



声の高さや、



ドアを閉める音や、



歩き方で判断するようになった。






今日は大丈夫。


今日は少し危ない。


今日は何も言わない方がいい。







子どもというのは、


教えられてもいないことばかり上手になる。







それでも私は、



母を守りたかった。




「大丈夫?」


「大丈夫だよ」


母はいつもそう言った。









大丈夫ではない人ほど、


大丈夫という言葉を上手に使う。





私はそれを、


母から覚えた。







母が泣けば、



私まで悲しくなった。










母が苦しそうなら、


どうにかしてあげたかった。






母が壊れそうなら、



私が支えればいいと思っていた。








まだ自分の人生すら持っていなかったくせに、




母の人生まで


背負えるつもりでいた。










でも、



守りたいと思っていた気持ちは、


ある日突然なくなったわけではない。









少しずつ濁った。



透明だった水に、


一滴ずつ黒いものを落とすみたいに。







愛していた。




傷つけられた。




それでも愛していた。




また傷つけられた。




それを何度も繰り返して、




いつからか私は思うようになった。




同じだけ、




傷つけばいいのに。



「お母さんも、私と同じくらい苦しめばいい」


口に出したことはない。




でも何度も思った。





私が眠れなかった夜の数だけ、

眠れなくなればいい。




私が自分の価値を疑った時間と同じだけ、

自分を疑えばいい。





私が一人で泣いた夜と同じだけ、




誰にも見つけてもらえないところで

泣けばいい。




傷つける方法なら知っていた。




母が何を怖がっているのか。



何を後悔しているのか。



どの記憶だけは触れてはいけないのか。



全部知っていた。



だって私は昔、



そこを守ろうとしていたから。







人を守るために覚えたことは、



そのまま人を壊すためにも使える。




それに気づいたとき、



愛と憎しみは

反対側にあるものではないのかもしれないと思った。




どちらも、




相手の柔らかい場所を

知りすぎている。




だから私は、

母を傷つけることができた。




たぶん、



誰より上手に。





「ねえ、お母さん」




ある日、

喉まで言葉が出かかった。





母が振り返る。



「なに?」



私は母の顔を見た。



言えばいい。



たった一言でいい。





私がずっと痛かった場所を、

今度はこの人に教えてやればいい。







母の一番柔らかい場所へ、




昔もらった棘を

そのまま返せばいい。



「……なんでもない」




結局、

それしか言えなかった。






優しかったからだろうか。



違う気がする。



まだ愛していたからだろうか。





それも、

少し違う気がする。




母だから?



それならきっと、

もっと簡単だった。






もしかすると私は、




母を傷つけた瞬間、




母に似てしまうことが

怖かっただけなのかもしれない。






それとも。






もっと醜い理由だったのかもしれない。




傷つけてしまったら、




いつか母が私を愛してくれるかもしれないという、




ずっと捨てられなかった期待まで

壊れてしまう気がした。




それだけは、


どうしてもできなかった。





母に刺された傷を隠すために、






私はずいぶん

綺麗な人間になろうとした。



泣かない。



期待しない。



簡単に信じない。





誰かがいなくなっても困らないくらい、

自分で立っている。






そして何より、



柔らかいところを

簡単には見せない。




そんな私を見て、



人は言う。



「強いね」



私は笑う。



「そうかな」



そう答えるのも、

いつの間にか上手になった。






でも時々、



綺麗な薔薇には棘がある、



という言葉を思い出す。




母にも棘があった。




私にも今、

棘がある。




だとしたら、





この棘は母から受け継いだものなのだろうか。






それとも、







母から自分を守るために

私が生やしたものなのだろうか。







分からない。






もしかしたら母の棘だって、



ずっと昔、


誰かに摘まれないために

生えたものだったのかもしれない。




そう考えると、



ほんの少しだけ母が可哀想になる。




そして、




そんなふうに思えてしまう自分が、


一番嫌いになる。




「お母さん」







もう一度だけ、

心の中で呼んでみる。




返事はない。




私は今でも、




あなたを許したわけではない。





きっと、

完全に憎むことにも失敗した。




だからこれは、



愛だったのかもしれないし、




ただの傷だったのかもしれない。




綺麗な薔薇には棘があるという。




けれど私は思う。




棘があるから

薔薇は綺麗なのではなくて、




何度も誰かに摘まれそうになったから、



綺麗なままでいるために

棘を生やしたのではないか、と。




それなら私は、




いつから薔薇だったのだろう。




それとも私はまだ、




母の庭に咲いているのだろうか。

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