ep.5
音楽祭当日。
開演前の会場前広場は、色とりどりの屋台と人波で賑わっていた。
葵は人混みに紛れながら、心臓の鼓動を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。
来ると決めたのは今朝。それでも、ここまで足が動いたことに自分でも驚いていた。
ステージの裏手に回ると、機材搬入口からスタッフの姿が見える。
その中に、黒縁眼鏡の男性――悠馬の姿があった。
手際よくケーブルをまとめ、周囲に指示を出す姿は、以前よりもずっと頼もしく見える。
気づかれないまま立ち去ろうかと一瞬迷ったが、その背中を目で追ううちに、
――もう逃げたくない。
そう思った。
リハーサルの合間、機材テーブルに手を置く悠馬がふと顔を上げ、こちらを見た。
一瞬、驚きが走り、次にゆっくりと微笑みが広がる。
互いに近づく足音が、人混みのざわめきの中でもはっきりと響いた。
「……久しぶり」
「本当に」
その短い挨拶の中に、別れの日から今日までの時間が全部詰まっている気がした。
あの日とは違う空気が、二人の間を静かに満たしていた。
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音楽祭のステージが一段落した頃、悠馬が葵をスタッフ用の控えテントに招いた。
温かい紙コップのコーヒーを手渡され、二人は隅のベンチに腰を下ろす。
「来てくれて…正直、驚いた」
「私も。来るかどうか、最後まで迷ってた」
少し笑い合った後、短い沈黙が訪れる。
葵は紙コップを見つめながら、やっと言葉を探した。
「…あのとき、もっと話せばよかった。忙しいってわかってたのに、気持ちをぶつけてしまった」
「俺も同じだよ。どう返せばいいかわからなくて、距離を置く方が正しいと思った。でも…それで余計に遠くなった」
互いの声は静かだが、その奥にはあの日言えなかった後悔が詰まっている。
「別れてからも、何度も思い出した。良いことも、そうじゃないことも」
「俺も。…だから、もう一度ちゃんと話せてよかった」
外から音楽の余韻が流れ込む。
葵は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
「もう、あの日の“サヨナラ”は置いていきたい」
悠馬が少し目を見開き、柔らかく笑った。
「じゃあ、これからのことを考えよう」
その言葉が、胸の奥の長い冬を溶かしていくのを感じた。
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音楽祭が終わった夜、悠馬が駅まで送ると言い、二人は並んで歩き出した。
秋の夜風が頬を撫で、街路樹の葉が小さく揺れている。
「今日はありがとう。来てくれて、話せて、本当にうれしかった」
「私も。…もう一度、こうして歩けるなんて思ってなかった」
駅前の明かりが近づくにつれ、この時間が終わってしまうのが惜しくなる。
葵は一歩立ち止まり、言葉を選んだ。
「もし、また離れることがあっても…今回は、ちゃんと話し続けたい」
「うん。俺も同じ。距離があっても、時間がなくても、気持ちは伝え続けよう」
短い約束だった。でも、それは前よりも強く、確かな響きを持っていた。
改札前で別れる前、悠馬が小さく笑った。
「今度は、こっちから会いに行くから」
「じゃあ、その時までに行きたいお店、いっぱい探しておきます」
互いに手を振り、歩き出す。
背中越しに、まだ温もりが残っているのを感じながら、葵は思った。
――もう一度、同じ道を歩き始めたんだ。
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再会から三か月。
季節は冬へと移り、吐く息が白くなる頃、葵は東京駅のホームに降り立った。
遠くの改札口に、手を振る悠馬の姿が見える。
その笑顔は、初めて会ったあの日と変わらない温かさを持っていた。
週末ごとに会うようになり、忙しさの合間を縫って互いの街を行き来する生活が続いている。
以前ならすれ違いの原因になっていた距離も、今は「会える日を楽しみにする時間」に変わった。
その日の午後、二人は小さな商店街を歩いた。
ふと立ち寄った古道具屋で、葵は古びた黒い折りたたみ傘を見つける。
「似てるな、あの時の」
悠馬の言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
夕暮れ、川沿いのベンチに並んで座る。
街の灯りが水面に映り、静かに揺れていた。
「この先も、いろんなことがあると思う。でも…」
悠馬が葵の手をそっと握る。
「一緒に乗り越えていこう」
「うん。これからも」
冬の冷たい空気の中で、その約束は温かく胸に染み込んでいった。
遠くに見える青い光のイルミネーションが、これからの二人の道をやさしく照らしていた。
( 完 )
この物語は、ひとつの出会いから始まり、別れと再会を経て再び歩み出す二人の姿を描きました。
人と人との関係は、距離や時間、環境の変化によって少しずつ形を変えていきます。
その中で大切なのは、相手を思う気持ちを途切れさせないこと、そして自分の想いを言葉にして伝えることだと、改めて感じています。
主人公たちは、一度は離れ、互いの存在の大きさを知ったことで、以前よりも強く結ばれました。
それは偶然ではなく、選び直した結果であり、お互いを信じるための決意でもあります。
日常の中には、すれ違いや沈黙が訪れることもあります。
それでも、心を通わせたいと願うなら、もう一度向き合う勇気が道をつくる――そんな想いをこの物語に込めました。
読んでくださった皆さまが、誰かとの大切な時間や約束を思い返すきっかけになれば幸いです。
碧衣