ep.4
あの夜の通話から、数日が過ぎた。
悠馬からの連絡は短いメッセージが一日に一度あるかないか。
「お疲れさま」や「今日は忙しかった」など、事務的にも見える短文ばかりだった。
葵も、どう返せばいいのかわからなかった。
長文を送っても負担になる気がして、同じように短く返す。
結果、会話は数往復で途切れる日が続いた。
帰宅後、ソファに座りながらスマホを見つめる時間が増えた。
待っている間に通知音が鳴ることは少なく、画面は暗いままだ。
――この沈黙は、どこまで続くんだろう。
週末、ふと駅前を歩いていると、前に悠馬と一緒に入ったカフェが目に入った。
窓際の席に差し込む夕陽の光や、コーヒーの香りまでもが鮮明によみがえる。
その温かい記憶と、今の冷たい静けさの落差に、思わず胸が締め付けられた。
帰り道、ポケットの中でスマホが震えた。
『元気?』
たった三文字。
それでも、手が震えるほど心が揺れた。
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日曜の夕方、葵はリビングのテーブルにスマホを置き、深く息を吸った。
このままでは、何も変わらない。
そう思って、自分から悠馬に電話をかけた。
「もしもし…」
少し疲れた声。背景には相変わらず機材の音や人のざわめきが混じっている。
「今、大丈夫ですか?」
「あと少しなら」
本題に入るまで、二人の間に短い沈黙が挟まった。
「…最近、あまり話せなくなりましたね」
「そうだね。仕事も詰まってて、正直余裕がない」
「私も。でも…このままじゃ、もっと遠くなっちゃう気がして」
悠馬はため息をつき、静かに言った。
「無理に続けて、どっちかが苦しくなるのは違うと思う」
その言葉が、胸に鈍く落ちた。
「…そうですね」
最後まで責める言葉は出なかった。
電話を切った後、部屋の静けさが一層深まる。
机の端には、あの日借りたままの黒い折りたたみ傘が置かれていた。
指先で触れると、もう香りは消えていた。
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別れから一週間。
生活は変わらないはずなのに、街の景色は少しだけ色を失ったように見えた。
通勤電車の窓に映る自分の顔は、以前よりも硬い。
昼休み、同僚と入ったカフェで、ふとあの日と同じメニューを見つけた。
それだけで、初めて悠馬と会った雨上がりの午後がよみがえる。
相席で交わした何気ない会話、差し出された傘の重み――。
胸の奥に、じわりと熱いものが広がった。
夜、部屋の片隅に置いたままの黒い傘を見つける。
もう香りは消えているのに、手に取ると当時の温もりまで蘇る気がした。
――どうして、こんなに簡単に忘れられないんだろう。
スマホを開くと、最後のやり取りがまだ残っている。
消そうと思えばすぐに消せるのに、指は動かない。
画面を閉じると、外から秋の夜風が吹き込んできた。
冷たい風に包まれながら、葵はそっと目を閉じた。
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週半ばの午後、取材で訪れた市民ホールのロビーは、次のイベント準備で慌ただしかった。
スタッフの一人がパンフレットを手渡しながら言う。
「来月の音楽祭、橘さんも参加されるんですよ」
耳に届いた名前に、思わず足が止まる。
――橘。悠馬。
表情に出さないよう努めたが、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
仕事を続けながら、ふとステージ設営の音が響く方向を見てしまう。
もちろん、そこに彼はいない。それでも、あの低い声や笑ったときの目元が鮮やかに浮かんだ。
帰り道、ポケットの中のスマホがやけに重く感じた。
連絡先はまだ消していない。
――もし、このままメッセージを送ったら。
考えるだけで心臓が速くなる。けれど、結局画面は開かずに家へ向かった。
夜、机の上に広げたパンフレットの片隅に、小さく印刷された名前を見つける。
その文字は、時間が経っても色あせることなく、葵の心を静かに揺らし続けていた。
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週末の午後、葵は図書館の帰りにふらりと駅前を歩いていた。
ふと視界に入ったポスターには、来週開催される音楽祭の案内が大きく貼られている。
その出演・スタッフ欄の中に、またあの名前を見つけた。
――橘悠馬。
立ち止まったまま数秒、ポスターを見つめる。
会場は電車で三駅。行こうと思えば簡単に行ける距離だ。
けれど、行って何を話せばいい?
別れた理由も、あのときの距離感も、まだ鮮明に覚えている。
スマホを取り出し、連絡先を開く。
名前の横には、最後の通話日が小さく表示されていた。
指先が送信ボタンに触れそうになるたび、心臓が強く脈打つ。
――やめよう。
そう思って画面を閉じかけたとき、不意に秋の風が吹き抜けた。
冷たさの中に、あの日と同じ雨上がりの匂いが混じっている。
その瞬間、葵はポスターの開催日と時間をスマホにメモしていた。
まだ決めたわけじゃない。
でも、ためらいの先に、何かが待っている気がしてならなかった。