ep.3
秋が近づく頃、葵の仕事は年度末前の企画ラッシュで慌ただしさを増していた。
朝から夜まで外回りや打ち合わせが続き、帰宅する頃にはメッセージを打つ気力すら残らない日も多い。
そんなある夜、スマホの通知音が鳴った。
『元気ですか?』悠馬からの短い問いかけ。
すぐに返信しようとしたが、目の前の原稿締め切りが迫っていて、つい「あとで」にしてしまった。
翌日、ようやく落ち着いた頃には、悠馬から次のメッセージが届いていた。
『忙しいみたいですね。無理しないで』
優しい言葉のはずなのに、画面越しでは少し距離を感じてしまう。
週末、久しぶりに電話をかけてみると、悠馬は音響の仕事で現場にいた。
「ごめん、ちょっと今立て込んでて…また連絡するね」
短いやり取りの後、通話が切れる。
ほんの数週間前まで、何時間も一緒に過ごしたことが嘘みたいだった。
予定が合わないだけ。忙しいだけ。そう頭では分かっていても、胸の奥に小さな空洞ができていくのを感じていた。
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ここ数週間、悠馬からの連絡はぽつぽつと届くだけになった。
内容は変わらず穏やかだが、その間隔は以前より長く、返信も短い。
葵も仕事が詰まっており、深く考える余裕がなかった…はずだった。
昼休み、同僚たちが恋人との旅行計画で盛り上がる声が耳に入る。
楽しそうな会話を聞きながら、ふとスマホを手に取る。
未読の吹き出しはない。ただ、ホーム画面に並ぶ過去のメッセージ履歴だけが目に映った。
あの日の長いやり取り、写真付きの報告、他愛ない冗談――今では少し遠い記憶のようだ。
夜、思い切って「元気ですか?」と送ってみた。
返事が来たのは二時間後。
『元気ですよ。そっちは?』
続く言葉を期待していた自分に気づき、少し胸が沈む。
ベランダに出ると、秋の夜風が頬を撫でた。
――また会えるよね。
口に出さず心の中だけで呟くその願いが、なぜか以前より切実に感じられた。
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日曜の午後、葵は珍しく何の予定もなく、ゆっくりコーヒーを淹れていた。
窓の外は薄曇り。季節の変わり目のせいか、少し肌寒い。
思い立って悠馬に電話をかけると、すぐに着信音が切り替わった。
「ごめん、今リハ中なんだ。また後でかけるよ」
背後には機材の音や人の話し声が混じり、彼の声は少し遠く感じた。
通話はわずか数十秒で終わった。
テーブルに置いたスマホの画面は、静かに暗転している。
――後でって、いつ?
自分でも驚くほど、その一言が重く響いた。
夕方になっても連絡はなかった。
夜、我慢できずに「忙しいのはわかってるけど、少し寂しいです」と送った。
返事が届いたのは寝る直前。
『ごめん。明日話そう』
画面を見つめながら、葵は深く息を吐いた。
まだ終わったわけじゃない。きっとまた笑い合える日が来る。
そう信じたい気持ちと、胸の奥に広がる冷たい予感が、静かにせめぎ合っていた。
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月曜の夜、葵は仕事を早めに切り上げ、珍しく余裕を持って帰宅した。
今日は悠馬とゆっくり話せるかもしれない――そう思ってスマホを手に取る。
通話がつながったのは夜九時過ぎ。
「お疲れさま。やっと一息つけたよ」
「お疲れさまです。…あの、この前のことなんだけど」
葵は、週末に連絡が少なかったことを切り出した。
「忙しいのは分かってる。でも、少しだけでも時間を作ってほしいって…」
沈黙が数秒流れた。
「俺もできる限りやってるんだ。だけど現場にいると、どうしても連絡できない時がある」
「わかってる。…でも、寂しい気持ちはどうしようもなくて」
その言葉に、悠馬はため息をついた。
「じゃあ、どうすればいい?」
責めるつもりはなかったのに、声の温度がわずかに冷えているのを感じる。
「ごめん…ただ、少し話したかっただけ」
そう言うと、悠馬は「俺も」と短く返した。
通話が終わると、部屋の静けさが急に広がった。
ソファに座ったまま、葵は膝を抱える。
たとえ声を聞けても、この距離は埋まらない――そんな思いが、じわりと胸に広がっていった。