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ep.1

 土曜の午前、取材のために立ち寄った駅前の小さなカフェは、雨上がりのせいか、少し湿った香りが漂っていた。

 白石葵は店内の奥の席に案内され、ノートとカメラをテーブルに置く。まだ始まってもいない取材の前に、温かいコーヒーで心を落ち着けたかった。


 そのとき、入口近くで傘を畳む音がして、視線がそちらに向いた。

 濡れたジャケットを軽く払いながら入ってきた男性が、店員に促されて葵の向かいに座る。相席を頼まれたのだろう、軽く会釈をしてから席に着いた。


「ごめんなさい、混んでるみたいで」

「いえ、気にしないでください」


 近くで見ると、二十代後半くらいだろうか。黒縁の眼鏡越しに柔らかな笑みを浮かべ、少し低めの声が耳に心地よい。

 彼はカフェラテを注文し、鞄からノートパソコンを取り出した。作業を始めるつもりらしい。


「お仕事ですか?」葵がなんとなく声をかけると、彼は顔を上げた。

「はい、東京で音楽関係の仕事をしてます。今日は地元の友人に会いに来て、そのついでに少し作業を」

「音楽…なんだか素敵ですね」

「いえ、裏方ですから。あなたは?」

「出版社で編集をしています。今日は取材で」


 たわいない会話が、意外とすんなり続いた。知らない人とこうして自然に話せるのは久しぶりだった。

 気づけば取材の時間が近づき、葵は慌てて荷物をまとめる。外に出ると、また小雨が降り出していた。


「傘、持ってます?」

「今日は折りたたみを忘れてしまって…」

 そう答えると、彼はためらいなく自分の傘を差し出した。

「これ、使ってください。僕はもう少しここで作業するので」

「でも…」

「大丈夫。いつか返してくれたら」


 手渡された傘は、ほんのりとコーヒーの香りがした。

 名前も連絡先も聞かないまま別れたのに、不思議と胸の奥が温かくなる。

 ――この感覚、なんだろう。

 雨上がりの街を歩きながら、葵はふと、もう一度あの人に会いたいと思っていた。

 

 ---


  翌日、仕事の合間にふとカバンを覗くと、昨日受け取った傘が視界に入った。

 持ち主は名前も知らない男性。たった一度会っただけなのに、不思議とその笑顔や声が鮮明に蘇る。


 昼休み、傘を返そうとカフェへ足を運んだ。昨日と同じ雨上がりの匂いが街に漂っている。

 しかし、店員に尋ねると「もう東京に戻られたみたいですよ」と申し訳なさそうに首を振られた。


 帰り道、両手で握った傘から、かすかにコーヒーの香りが漂う。

 その香りに混じって、昨日の会話や、目が合ったときの温かさが胸を締めつける。


「たった一度会っただけなのに、なんでこんなに気になるんだろう…」


 自分でも理由がわからないまま、傘を大事に持ち帰った。

 その夜、編集部の同僚に傘の話をしたら、すぐにからかわれた。

「それ、運命の人なんじゃない?」

「まさか。名前も知らないんだよ?」

 笑って否定しながらも、心のどこかでその言葉を否定しきれなかった。


 寝る前、部屋の片隅に立てかけた傘を見つめる。

 昨日の雨音、柔らかな声、差し出された傘――。

 その全部が、どうしようもなく心に残っていた。

 

---

 

 一週間後、編集部の会議室。

 葵は新しく任された企画の資料を抱え、上司の指示に耳を傾けていた。

「来週の東京イベント、うちで特集することになった。葵さん、現地取材お願いできる?」

「はい、承知しました」


 大きな音楽フェスと文化イベントを掛け合わせた新企画らしく、会場は都内の大型ホール。

 ――東京か。

 傘をくれた彼のことが、一瞬頭をよぎった。けれど、広い東京で偶然会えるはずもない。そう思っていた。


 取材当日、会場は色とりどりのポスターと人波で賑わっていた。

 カメラを構えながらステージ裏に回ると、スタッフ用の通路ですれ違った人物に足が止まる。


「……あれ?」


 黒縁眼鏡の奥から、見覚えのある笑顔がこちらを見た。

「この前の…!」

「やっぱり、あのときの編集さんですね」


 互いに驚きながらも笑みがこぼれる。

 彼――橘悠馬は、音楽ステージの音響スタッフとして今回のイベントに参加していた。

「まさか、また会えるとは思わなかったです」

「私もです。傘のお礼、言えてなかったので…ありがとう」


 短い会話だったが、別れ際、悠馬が言った言葉が耳に残った。

「またどこかで会えるといいですね」


 その“どこか”が、ただの社交辞令でないことを、葵はなぜか確信していた。

 取材のために歩き出しながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 ――やっぱり、もう一度会いたい。

 

---

 

 イベント取材を終えて数日後、編集部で資料整理をしていると、スマホに一通のメールが届いた。

 差出人は――橘悠馬。

 件名は「この前はありがとうございました」、本文には取材時のお礼と、あの日撮った写真が添付されていた。


 添付ファイルを開くと、ステージ裏で笑顔を見せる悠馬が写っていた。

 その表情は、仕事中にもかかわらずどこか柔らかく、見ているだけでこちらまで頬が緩む。


 その夜、葵は短い返信を送った。

「こちらこそ、傘も写真もありがとうございました」


 それをきっかけに、少しずつやり取りが続いた。

 仕事の話、休日の過ごし方、好きな食べ物や映画。

 他愛もない内容ばかりなのに、メッセージを開くたびに胸の奥がふわりと温かくなる。


『今度、東京に来ることがあったら案内しますよ』

 そんなメッセージが届いたとき、心臓が少しだけ跳ねた。

『じゃあ、もしそっちに来ることがあったら、地元の美味しいお店を案内しますね』

 自分でも驚くくらい自然に、そんな言葉を返していた。


 会った回数は二度きり。それでも、画面越しの言葉が心を近づけていく。

 眠る前、ふとスマホを見つめると、今日も未読の吹き出しがひとつ。

 タップする前から、もう口元が緩んでいた。


---


残業を終えた夜、葵は家に着くとソファに沈み込んだ。

 机の上にスマホを置くと、すぐに画面が光る。

『今日もお疲れさまです。無理してないですか?』

 差出人はもちろん悠馬。


 指が自然に動き、短く返信を打つ。

『ちょっと疲れたけど、大丈夫です』


 送信して間もなく、またメッセージが届いた。

『葵さんって、頑張ってるのに飾らないところがいいですよね』

『そのままの君でいてほしいなって思います』


 その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が温かくもくすぐったい感覚に包まれた。

 仕事柄、人前ではきちんと見せようとすることが多い。

 でも、悠馬と話していると、なぜか無理に背伸びをしなくていい気がする。


 しばらくスマホを握ったまま考え込む。

 ――そのままの君でいて。

 それは社交辞令でも、軽い褒め言葉でもなく、彼なりの優しさが滲んだ本音のように感じられた。


 ふと、あの日の雨上がりのカフェが思い出される。

 傘を差し出してくれた彼の横顔。

 変わらない柔らかい笑顔。


 スマホの画面に「既読」がつく。

『ありがとうございます』とだけ返し、葵は深呼吸をした。

 そのままの自分を好きだと言ってくれる人が、遠くにいる。

 その事実が、今日一日の疲れを静かに溶かしていった。



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