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第6章: 「前に進む力」

うつ病の症状が完全に消えたわけではなかった。朝、布団から起き上がれない日も、外の世界が妙に怖く感じる日も、まだある。でも、少しずつ、その波の揺れに慣れてきた。大波が来たときには無理に逆らわず、ただやり過ごす。少し穏やかになったら、できる範囲で動き出す。そんなふうに、自分なりのペースが見えてきた。

「いつになったら治るのか?」という問いには、もうあまり執着していない。それよりも、「今の自分に何ができるか」を考えるようになった。焦らなくてもいい。立ち止まってもいい。だけど、どんなにゆっくりでも、一歩前に進むことを選びたい――今はそんな気持ちでいる。

ASDの診断を受けてから、自分という存在をようやく言語化できた気がする。ずっと感じていた「生きづらさ」や「違和感」は、自分の性格のせいでも、努力不足のせいでもなかった。脳の特性。考え方の傾向。人との距離感や感覚の違い。それらを理解したことで、自分を責めることが減った。少しずつ、自分と和解できてきた。


「普通にならなきゃ」という呪いのような思い込みを、今は手放そうとしている。


“普通”ってなんだろう。多くの人ができていることができない自分に、ずっと劣等感を抱えていた。でも、人にはそれぞれの「得意」と「苦手」がある。それが当たり前だと、頭ではなく心で理解できたとき、「自分のままでいい」と思える瞬間が生まれた。


外に出ることも、以前より少しだけ増えた。最初は近所のスーパーへ行くだけでも、ずいぶん勇気が要った。でも、慣れてくると、人とすれ違うだけで過剰に緊張していたあの感覚も、少しずつ薄れていった。

歩いているとき、ふと気づく。以前は、通りすがる人の目線や表情にばかり意識がいっていた。でも今は、足元の花や、空の色、風の匂いに目がいくようになっていた。それがうれしかった。自分の感覚が、やっと少しだけ「今ここ」に戻ってきたような気がした。


「今日、調子どう?」

妻がそう尋ねてくれるとき、私はもう、無理に笑わなくてもいい。「うん、まあまあ」と素直に返せる。それが、こんなにも心を軽くするとは、昔の自分には想像できなかった。

自分の「違い」を知り、それを少しずつ受け入れながら、生きるペースを探す――それは、まるで新しい言語を覚えるような感覚だった。最初はぎこちなく、戸惑いも多かったけれど、少しずつ、その言葉が自分のものになっていく。

「普通」でなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。人と同じでなくてもいい。

そう思えるようになってから、私はようやく「息ができる」ようになった気がする。深く、長く、静かに、今の自分にふさわしいリズムで。


それでも、現実は簡単ではない。

家庭があり、生活がある。病気や特性を理由に、すべてから逃げ出すことはできない。むしろ、それらを抱えたまま、どうやって生活を立て直すかが課題だった。

以前の職場には戻れなかった。気力も体力も限界で、何より、あの場所で感じた息苦しさを思い出すと、どうしても足がすくんでしまった。でも、働かなくてはならない現実は変わらない。自分にできること、無理のない形で社会と関われる方法を模索しはじめた。


転職活動を始めたのは、ある意味、私なりの「再出発」だった。

転職サイトに登録し、求人情報を見始めた。前職と同じ業種を中心に見ていたけれど、「この職場に自分が入って働いている姿」がまったく想像できなかった。きっと、まだ心のどこかで、自分のことを信じ切れていなかったのだと思う。

書類を送っては落ち、面接を受けては不採用。そんな日々が続いた。

でも、ここで以前との違いが一つだけあった。

落ち込んでしまったとき、「またか」と思いながらも、自分の気持ちをちゃんと見つめるようになった。「今は辛いだけで、すべてが終わったわけじゃない」と、ほんの少しだけ思えるようになっていた。これは私にとって、大きな変化だった。

うつ病もASDの特性も、完全に“消える”ことはない。だけど、それらを「受け入れる」ことはできるようになってきた。以前の私は、自分の感じ方や反応を責めてばかりだった。人と違うことを「悪いこと」として捉えていた。でも今は、違っていてもいいと思えるようになった。

転職活動は相変わらず難航している。たまに面接まで進んでも、うまく自分を表現できない。何を言えば「普通」に見えるのか、そればかりを考えてしまって、自分の言葉が出てこない。

だけど、最近気づいたことがある。

私は「普通」になろうとしすぎていたのかもしれない。

ASDの診断を受けてから、自分の特性について学ぶようになった。自分にとって何が負荷になるのか、どんな場面で緊張しすぎてしまうのか、それを言葉にできるようになってきた。「無理して適応する」のではなく、「どうすれば無理なく過ごせるか」を考える視点が、ようやく持てるようになってきたのだ。

今は、自分にとって働きやすい環境とは何かを考えるようにしている。

静かな空間で、自分のペースで作業できること。過度なマルチタスクが求められず、明確な指示や見通しがあること。そういう条件を元に、求人情報を見るようにしている。数は減るかもしれない。でも、量より「質」だ。続けられる仕事、そして自分の心を守れる場所を探していきたい。


私にとって「前に進む」というのは、すぐに結果を出すことでも、人より早く動くことでもない。


「治す」のではなく、「付き合っていく」。


「普通」になるのではなく、「自分らしく生きる」。


「誰かの期待に応える」のではなく、「自分の幸せに正直になる」。


そう決めてから、世界の見え方がほんの少しだけ優しくなった。

私は、私のやり方で、少しずつ歩いていく。それが今の私にできる、最大の努力であり、希望なのだ。

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