第1章: 「壊れた日常」
30歳を迎えた私は、自分を見失ったような気がしていた。日々の生活はまるで速い流れに乗り切れない川のようだった。周りの世界は、時間に追われるように駆け抜けているのに、私はその波に乗れず、ただ立ち尽くしている。周囲の人々は、みんな忙しそうに見えて、私はそれをただ眺めるだけ。自分の位置が、どこにあるのかさえ分からなくなっていた。
会社に行くことすらできなくなった。目が覚めると、まず重い胸の痛みが襲ってくる。まるで鉄の板が胸に乗っかっているような感覚。眠っているときは少しでも楽だったが、目を開けてしまうと、現実の重さに耐えきれなくなる。無理に起き上がろうとすると、全身が動かないような感じがして、そのたびに自分が不安定な存在であることを実感した。朝食を作るのも、シャワーを浴びるのも、すべてが億劫だった。そんな日々が続いていく中で、私は自分を責める気持ちが強くなっていった。「普通でいなければならない」と、どこかで思っていた。でも、毎日がその「普通」の基準から遠ざかっていくように感じていた。
私は、自分がどんどん社会から外れていっているような気がしていた。社会が求めるペースに追いつけない自分が、ただ歯がゆくて、息苦しく感じる。通勤する人々の中で、私はただの一人の「人間」ではなく、浮いているように感じた。みんなが同じように歩いている中で、私はその足並みに追いつけず、止まったままだった。周りの忙しさや活気が、私にとっては重圧にしか感じられなかった。こんなにも息苦しく感じるのは、私が何かを失ったからなのだろうか? それとも、最初から私はこの世界に合わない存在だったのか?
家に帰ると、妻が私を心配そうに見つめていた。その目に、私はいつも答えられなかった。私が「普通」でないことを、彼女は感じ取っているのだろうか?それとも、ただの疲れだと考えているのだろうか?私が言葉を発するとき、その中に潜む違和感が彼女に伝わっているのではないか、という恐れが私の心にあった。「また行けなかったんだね」という彼女の静かな言葉が、私の胸に刺さる。彼女の優しさが、かえって私を追い詰めているような気がした。
私が行けなかった理由を言葉にすることができなかった。理由はあまりにも曖昧で、漠然としていた。無理に言葉にしてしまうことで、私は自分自身が壊れてしまいそうな気がしたからだ。言い訳は嫌だった。でも、何も言わないと、彼女の目がさらに深く私を見つめてきそうで、それが怖かった。
彼女は、私が本当に苦しんでいることに気づいてくれていた。でも、その気づきは、私にとっては恥ずかしいものだった。私の弱さが見えるのが嫌で、彼女の目を避けていた。その視線を受け止めることができず、私は無意識に沈黙の中で過ごす時間が増えていった。
子供の頃から、私は「普通」でいることが難しかった。みんなが楽しんでいることが、私にはどうしても楽しめなかった。誰かと話すとき、どうしても空気を読めなかったり、相手の意図が分からなかったりする自分に、いつも違和感を感じていた。周りの人々が何気なく言っていることを、私はすぐに理解できない。みんなが当たり前に笑っていることに、私はその輪に入れないままでいた。友達が何気なく遊んでいるときに、私はその中に溶け込むことができなかった。それが小さな違和感として積み重なり、いつしか私は自分が「普通」ではないと感じるようになった。
大人になってからも、その感覚は消えなかった。むしろ、社会に出てからその「違和感」がより大きくなっていった。仕事をしているとき、同僚たちが軽やかに会話を交わし、互いに冗談を言って笑っている姿を見て、私はその一端に触れることができず、心の中で浮いているような気がしていた。「普通」って、こんなにも難しいことなのか。みんなが当たり前にできることが、私はできない。どうしても他の人たちと同じように行動できない自分が、あまりにも恐ろしいと感じていた。
それが、30歳になった今、ますます大きくなっていった。30歳になって、「普通」の意味が分からなくなったのだ。自分が「普通」でない自分を受け入れることが、こんなにも難しいとは思わなかった。毎日が辛く、心がざわつき、どこにも安らぎを見つけられない。その一方で、外の世界はどんどん進んでいく。私だけが、時間の流れに取り残されたように感じられた。
その焦燥感は、街を歩いているときに強く感じられた。街の音が耳に響き、ひとりで歩いていると、何もかもが自分から遠くなっていくような気がした。みんなが軽やかに歩く中で、私はその足取りに追いつけず、焦燥感だけが膨れ上がっていく。どこを見ても、周りの人々は忙しそうに見えて、私はその世界に溶け込むことができなかった。心の中で、「これが普通なのか?」と自問しながら、街を歩く。
時折、ふと気づく。自分の内側で何かが壊れていく音がする。けれど、それを言葉にすることができない。誰にもわかってもらえないような気がして、言葉にするのが怖かった。ただ深く息を吐いて、飲み込むしかなかった。言葉を出すことが、余計に自分を壊すような気がして、ただ耐えるしかなかった。
「普通でない自分」を受け入れることができなかった。そのことが、日々の生活をどんどん重くしていた。周りの期待に応えなければならないというプレッシャーが、私をさらに苦しめていった。無理にでも「普通」を演じようとする自分が、どこかで壊れていくのを感じながらも、どうしてもその役割を放棄できなかった。
振り返ると、これまでの人生の中で「普通」でいることが、こんなにも大変だったことに気づく。そしてそれを無理に演じ続けることで、どれほど苦しんでいたのか。気づくのが遅すぎたのかもしれないが、あの時、もっと早くに自分の「普通」を受け入れられていたら、少しは楽だったのだろうか。
それでも、私は歩き続けなければならない。壊れた日常を何とか取り戻したくて、まだ見ぬ明日へと踏み出さなければならない。どんなに苦しくても、どんなに辛くても。私はそれを選ぶしかない。どんな形でも、「普通でない自分」と向き合いながら、それでも歩みを止めるわけにはいかないのだ。