第6章 彼が守る理由、私が支えたい想い
朝の光が差し込む宿の窓辺を見つめながら、わたしはひどく落ち着かない気持ちを抱えている。
ユリウスと共に過ごす時間が増えて心が少しずつ通い合っているのを感じる一方で、町の空気がざわついているのだ。
王都から誰かが来たとか、妙な噂がまた再燃しているとか、騒がしい話ばかり耳に入ってくる。
そんな予感が的中したのは、その日の昼過ぎ。わたしがユリウスと書簡の整理をしていると、ドアをノックする音が響いた。出てきたのは初めて見る顔の男だ。濃紺の外套に王宮の紋章をつけている。整った姿勢で深々と頭を下げると、平坦な声で要件を切り出す。
「ユリウス=ヴェルナー殿。王都より命を受けて参上いたしました。至急、王宮へお戻りいただきたい。――これは正式な帰任命令です」
その言葉に、ユリウスの表情がさっと変わる。冷ややかというより、張り詰めた糸が震えるような微妙な緊張感を纏いはじめる。わたしは隣で書類を抱えたまま思わず息を呑む。
こんなタイミングで“帰任命令”なんて、どう考えても穏やかじゃない。いったい、王太子派がどんな企みを用意しているのだろう。
「帰任……ですか」
「はい。しかも速やかに。殿の立場を再検討し、王都で改めて面談を行うとのこと。詳しい書簡はこれに」
使者は無表情なまま封を渡し、敬礼して足早に出て行く。わたしは思わず彼の背中を目で追いかけつつ、ユリウスの横顔を伺う。
「まさか、あなたを失脚させようとしてるわけでは……?」
わたしが恐る恐る尋ねると、ユリウスは唇をきゅっと引き結んだまま、書簡を開く。ちらりと中身に目を通したその瞳は、見る間に険しさを増す。わたしは胸が痛くなる。きっと裏で王太子派閥が糸を引いているに違いない。さらに嫌な予感を抱えたまま、わたしは彼に詰め寄るように言う。
「これ、どうするんです? あなたがここを離れたら、外交の仕事はどうなるの? わたしは……」
「……行きません」
彼の声音は低く、しかしはっきりと決意を帯びている。わたしが驚いて言葉をのみ込むと、ユリウスは視線を伏せ、苦渋の色を浮かべながら続ける。
「今、王都に戻ったら、そのまま辞任を迫られる可能性が高いです。……それに、ここでやるべき任務がまだ残っていますから」
「でも、命令を無視したらあなたの立場が……」
「構いません。もしそれで責任を問われるなら、すべて一人で背負います」
断固とした響きに、わたしは一瞬胸が熱くなる。普段は頼りなげに見える彼が、こうして自分の意思を曲げずに踏みとどまろうとしている。
それはこの町での外交任務だけじゃなく、きっとわたしを守る気持ちも含まれているのだと思うと、どうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
けれど不安は消えない。こんなにもあからさまに彼を陥れようとしている勢力があるなら、何を仕掛けてくるか分からない。
わたしはセシリアに目配せをして、「あの連中の動きを探って」と頼む。彼女はすぐに頷き、薄い笑みを浮かべる。
「わたしも、できる限り動いてみます。王都での裏の会議や貴族たちの動向を調べますね」
「頼んだわ、セシリア」
セシリアが調査に出かけて数日後。ようやく情報が集まり始める。
どうやら王太子派の貴族たちが「ユリウスとわたしの関係」を騒ぎ立て、噂を煽っているらしい。極端な言い方をすれば、「王太子の元婚約者を誘惑し、公の外交を私物化している不埒な男」という筋書きだ。このままではユリウスの職責だけでなく、わたし自身が“国を惑わす悪女”扱いを受ける可能性がある。
「ふざけてる。どうしてこんな無茶苦茶な言いがかりで彼を追い詰めるわけ?」
宿の小部屋で、わたしは怒りを露わにしてテーブルを叩く。セシリアが冷静に肩をすくめる。
「連中にとっては、ユリウスさんの有能さや平民出身の経歴が面白くないんでしょうね。お嬢様の婚約破棄のことも利用して、彼をスキャンダルの渦中に引きずり出すつもりでしょう」
わたしは唇を噛んで息を詰める。エリザベートという公爵令嬢が王太子との政略婚を解消し、そのうえ平民上がりの外交官と“親密”になっている――そんな構図は、古い体制の貴族たちにとって目障りな存在なのかもしれない。
でも、それで人の人生を踏みにじるなんて許せない。
わたしが黙り込むと、セシリアは声を落として言う。
「お嬢様、さらに嫌な話が。最近、妙な人物が城下近くをうろついてるみたいです。王都から来たらしい貴族の私兵とか、黒幕っぽい手合いが複数。あまり穏やかな状況じゃないですね」
その言葉に、背筋がぞわりと寒くなる。彼らが何か直接的な行動を起こす可能性は高い。わたしはいても立ってもいられず、その日のうちにユリウスに警戒を促そうとする。ところが、彼は落ち着いた様子で言った。
「もしわたしが狙われるなら、それは想定内です。大丈夫。あなたが巻き込まれないように気をつけてください」
「わたしのことなら心配いりません。あなたこそ、自分を大事にして」
「……ありがとう。でも、わたしは大丈夫です」
彼の瞳は揺れていない。むしろ冷静に物事を見据えているように見える。わたしは少しだけほっとしながらもうなずく。
――そのときは、まだ甘く考えていたのだ。まさか、自分が標的にされるなんて思っていなかったから。
次の朝、わたしは市場の外れの裏路地で、手早く現地住民の声を拾っていた。ユリウスの誤解を解くためにも「彼は決して悪い人間じゃない」と説得する形で、できるだけ協力者を増やしたい。そんな意気込みで動いていたら、いつの間にかセシリアとはぐれてしまい、人気のない道に迷い込んでいた。
「いけない、引き返さないと……」
そう思って足を止めた瞬間、乱暴な手がわたしの口を塞ぐ。後ろから腕を掴まれ、無理やり袋を被せられそうになる。どこかからわたしを罵るような低い声が聞こえた。
「王家を裏切った女に用はねえ。……けどまあ、利用価値はあるな」
息苦しさと恐怖が一気に襲ってくる。暴れるものの、相手は複数人いるらしく身動きが取れない。やめて、と声を出そうとしても布で口を塞がれ、声にならない。
頭の中が真っ白になる。「助けて」その言葉が胸を渦巻くが、声にできない。
どうにか手を振り解こうとするが、腕を捻じ伏せられ、ぐいと引きずられるように闇の奥へ連れ込まれる。怖い、怖い。――ユリウス、セシリア、誰でもいいから助けて。
必死に抵抗しようとするが、男たちはまるで悪意のかたまりみたいにがっちり押さえつけてくる。
そこでふっと、頭にかかった袋が乱れて視界が少しだけ開ける。
わたしを引っ張る男たちの衣服に見覚えはないが、貴族の紋章らしきものが付いているのがわかる。王太子派の私兵だろうか。彼らはわたしをどこかの馬車に押し込もうとしている。たまらなく嫌な予感に、思考が一瞬停止しそうになる。
――そのとき、かすかな金属音が響き、次の瞬間、男の体がぐらりと揺れた。
目の前で何かが閃いたと思ったら、どさっと音がして男が地面に倒れ込む。
混乱するわたしの視界に入るのは、黒髪が翻る姿。まるで夜を切り裂くように振るわれた剣が、一人、また一人と私兵を圧倒している。
「……離れろ」
低く鋭い声。ユリウスだ。
こんなに剣を振るう彼の姿を、わたしは初めて見る。彼がどんな経緯で刀を習得したのか、以前チラリと聞いたけれど、想像以上の切れ味と速さだ。男たちは明らかに武装しているのに、ユリウスの前では成す術もない。
「あ……あぁ……!」
男の一人が悲鳴をあげて退散しようとするが、ユリウスは追わない。代わりに、わたしを拘束していた腕を素早く引き剥がしてくれる。わたしは解放された途端、地面に膝をつきかけるが、ユリウスがすぐ支えてくれた。その腕の中で、わたしは必死に呼吸を整える。
「……大丈夫ですか」
「ごめんなさい、わたし、油断してて……」
声が震えてうまく出ない。彼の顔が近い。ユリウスは息を切らしながらも周囲を警戒し、倒れた私兵たちを睨み据えている。どうやら彼らは散り散りに逃げ出したようだ。
「あなたは……狙われる立場なんですよ。もっと注意を」
彼が少しきつめに言う。でもその目には焦燥と安堵が入り混じった色が見えて、わたしは目頭が熱くなる。わたしを助けようとしてくれたんだ。こんなにも必死に。
倒れ込んだわたしの腕を、彼がやさしく支えてくれる感触が、震える心をじんわりと溶かしていく。
けれど、まだ恐怖が後を引く。わたしは彼の胸に縋るようにしがみつき、声を振り絞る。
「ごめんなさい、本当に……わたし、あなたにまで迷惑を……」
「違う。迷惑じゃない。……あなたを守るのが、わたしの意志です」
彼の言葉が耳に染み込み、涙があふれそうになる。
わたしは首を振りながら、ようやく顔を上げる。彼はまだ剣を握ったまま、鋭い目つきで辺りを見回している。その横顔には苦しさの影が宿っているように見えて、胸がうずく。
「どうして……」
わたしの問いに、彼はふいに視線をそらし、奥歯を噛みしめたように小さく息を吐く。
「……前に、守れなかった人がいるんです。自分の剣で助けたはずが、結果的にその人を深く傷つけてしまった。――あのとき以来、わたしは誰かを守ることに怯えてきた」
初めて聞く、ユリウスの“過去の事件”の真実の一端。そこには彼自身の強い罪悪感があったのだ。
わたしは息をのむ。心の奥底に隠していた傷が、今まさに露わになっていくのを感じる。彼が声を震わせるなんて想像もしていなかった。
「騎士団にいたころ、ある外交の場で揉め事が起きて……とっさに剣を抜いてしまい、相手を重傷に追い込んだ。そのせいで交渉は失敗、同行していた女性が巻き添えを食らって……結果的にわたしへの不信が募り、あらぬ噂に利用されて。……それがすべての始まりです」
彼の瞳には深い苦悩が滲み出ている。守りたかったのに、守れなかった。むしろその行動が誰かを不幸にした。――それがユリウスをずっと縛り付けていた“過去のトラウマ”だったのだ。
わたしは唇を震わせながら、そっと彼の腕を握る。
「あなたは、悪くない。少なくともわたしはそう思います。人を守ろうとする気持ちは間違いじゃない」
「でも、結果として傷を増やすなら……わたしの剣なんて要らない」
「わたしには要ります。あなたの剣も、あなたの存在も。いまこうして、わたしはあなたに救われた」
わたしは真剣にそう告げる。彼はまだ迷いを抱えたように、目を伏せたまま何も言わない。しかし、その手の力はわたしを拒んでいない。過去に囚われ続けているとしても、この瞬間はわたしを守るために剣を握った。それが彼にとって、一つの大きな“転”になるような気がする。
わたしは深呼吸して、自分の気持ちをはっきり言葉にする。
「あなたが傷つくのを見たくない。だからわたしが支えます。……わたしを助けてくれたように、今度はわたしも、あなたを救いたい」
その宣言に、彼は驚いた顔でこちらを見つめる。わたしはしっかりと視線を返す。彼の瞳には揺れが残っているが、確かに何かがほどけはじめているのが見える。
「……あなたは、やっぱり不思議だ」
「わたしは本気ですよ。何があっても、あなたと並んで立ちたい」
そう言うと、彼は切なげな表情のまま、しかしわずかに笑みを浮かべてくれる。
わたしはその笑顔を見逃さず、そっと手を伸ばして、彼の指に触れる。いまはほんのかすかな触れ合いだけど、それが何よりも大切に思える。
――王太子派が動いているのは明らかだし、わたしを誘拐しようとした連中はまだ尻尾を巻いて潜んでいるかもしれない。だけど、彼が“誰かを守る自分”に戻ることを恐れないように、わたしが彼を支える。そう決めた。
息を合わせるように立ち上がったわたしとユリウスは、やがて後から駆けつけたセシリアや町の人たちに守られるように、少しずつその場を離れる。
身体はへとへとだけれど、胸には熱い想いが燃えあがっている。これまで“恋”だと思っていた気持ちが、もっと大きな“絆”へ変わった瞬間を、わたしは確かに感じる。
こんな状況でも、隣には彼がいる。わたしを守るために剣を抜き、今度はわたしも彼を支えたいと願っている。お互いが間違いを抱えていても、引き裂かれそうになっても、きっと並んで歩いていけるはずだ。
わたしは胸の奥に決意を宿し、そっと彼を見上げる。彼もまた、わたしを見つめ返してくれる。その瞳に浮かぶのは、強い意志と、微かな救いを求める光。
――この人を支えたい。
かすかな血の匂いと埃の名残を背に、わたしたちの新たな“絆”が、確かに生まれていた。
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