第5章 嫉妬と混乱、心が揺れる夜
わたしは今、広々とした館の応接間の真ん中で、目の前の男性から爽やかな笑顔を向けられている。金色がかった茶髪をさらりと下ろし、誰に対しても一瞬で心を開かせるような柔和な雰囲気――そんな好青年風の彼が、きらきらした瞳でわたしをまっすぐ見つめてくる。
「いやあ、お噂はかねがね聞いてましたが、まさかこんな美しい方が補佐役についているなんて! 初めまして、ルカ・フィニスといいます。外交官見習いです」
彼は人懐っこい笑みを崩さずに、わたしの手を取ろうとする。その瞬間、わたしは軽く驚きながらも、ひとまず慌てて引きつらないよう気をつけつつ微笑んでみせる。
「は、初めまして。エリザベートと申します。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
相手はわたしの手を軽く握り、「おお、やわらかい…!」と感嘆まで漏らしている。ここまで率直に距離を詰めてくる人は久しぶりだ。周囲にいる貴族の人々が、ぱっと目を見開いているのがわかる。
どうやらこのルカという青年は、外交官見習いとはいえ社交性に相当な自信があるらしい。
「何やってるんですか」
遠くから冷え冷えとした声が聞こえて、わたしははっと息を呑む。言わずもがな、ユリウスの声だ。
振り返れば、少し離れた場所で視線をそらしつつも、こちらをじっと見ている。彼の黒髪が差し込む陽光を受けて、さっと揺れたのがわかる。その瞳がどこか険しい。
ああ、また固い表情に戻ってしまったな――そう思うと胸がきゅっとする。
「おお、あなたが噂のユリウス=ヴェルナー先輩! はじめまして、ルカと申します。王都のほうから新たに加わりました。外交官としてはまだまだ新米ですが、よろしくお願いします!」
ルカはひたすら屈託ない調子で声を弾ませ、ユリウスに向かって頭を下げる。だけど、肝心のユリウスは「ええ」と短く答えただけで、視線を逸らす。いつものことながら、対人コミュニケーションが苦手そうだ。
でも、わたしはなんだかもやもやする。それが何故なのか、言葉にしづらいけれど。
「それにしても、エリザベートさんは素晴らしいですね! いやあ、噂どおり美しいし、話しやすいし…同じチームでお仕事できるなんて幸運です!」
ルカがわたしに向ける視線は褒め言葉ばかり。歯の浮くようなセリフを連発するから恥ずかしいけれど、相手はまったく気にしていない様子だ。こういうタイプは珍しい。
でもわたしも慣れていないわけじゃない。一応、公爵令嬢として礼儀作法を叩き込まれてきたから、これくらいの社交辞令には対応できる。そうしてにこやかに会話を交わしていると、ふとユリウスが横切る気配を感じる。
「……仕事、行きますよ」
彼はぶっきらぼうにそう告げると、足早に廊下へ出ていこうとする。追いかけようとしたわたしは、脇からルカに声をかけられ足を止める。
「エリザベートさん、もしよかったら後でお食事でもご一緒しませんか? これからの外交業務について、いろいろお話ししたいですし」
「え、あ、そうですね……」
戸惑っているわたしを見て、ルカはさらに満面の笑みを浮かべる。よく言えば太陽のような、悪く言えばちょっと暑苦しいくらいのアプローチ。
しかも完全に“軽い口調”というわけじゃない。礼儀は心得ているのに、距離感は近いという独特のバランスで。わたしは若干困惑気味だが、断る理由もないし、職務として協力するなら一緒に行動して情報交換するのも悪くない。そう思ってうなずこうとした瞬間、どこか背筋に寒さが走った。まるで誰かが冷気を放っているような。
「……行くなら勝手にどうぞ」
振り返ると、廊下の先にユリウスが立ち止まってこちらを見ている。腕を組み、微妙に険のある表情をしているのがわかる。それが妙に胸に刺さり、わたしは思わず言葉に詰まる。
彼が不機嫌そうなのはなぜだろう。少し考えるが、はっきりとした理由が見つからない。
その日の昼下がり。ルカを含む新しい使節団と挨拶を交わし、わたしもセシリアとともに周辺案内のため駆け回っていた。港の商人たちに外交関連の相談を受ける合間、ルカがまたにこやかに話しかけてくる。
「エリザベートさん、ここでの活動は長いんですか? 今まで何をされてたんです?」
「まあ、そんなに長くはないですけれど、ユリウスさまの補佐をさせていただいてます。あなたは王都から最近着任されたんですよね?」
「そうそう。王都から派遣される形です。実はずっとユリウス先輩に憧れてたんですよ。“あの美貌の天才外交官”って、伝説みたいに語られてて。で、密かに対面を楽しみにしてたんです」
「ええ、そうなんですね」
――美貌の天才外交官、か。わたしが初めて彼を見たときの衝撃は、今でもはっきり覚えている。けれど彼はその容姿のせいで余計に人との距離ができてしまっているのだろう。
それでも、ルカのように彼に憧れを抱く人がいるのは嬉しい。そう思いつつ、わたしはふと疑問を口にする。
「憧れてたなら、さっきもう少しうまく話しかけてあげればよかったのに。ユリウスさま、あなたと会話しにくそうでしたよ?」
「うーん、確かにクールでしたね。あれは人付き合いが苦手って聞いてたので想定の範囲内ですが、ちょっと寂しいなあ」
ルカが笑いながら言う。確かにあの塩対応に慣れていない人なら「冷たい人」と感じるかもしれない。それでもルカはめげるどころか、むしろ燃えるタイプに見える。わたしは申し訳ないような、でも少しホッとするような、不思議な気持ちだ。
「それはそうと、エリザベートさんとの会話は本当に楽しいですね。そういう笑顔、きっとご本人は自覚してないと思いますけど、男性からすると破壊力抜群ですよ」
不意に甘い口調でそんなことを言われ、わたしは驚いて足を止める。ルカはわざとらしいくらいに目を輝かせて、わたしを見つめている。その言葉自体は社交辞令かもしれないが、言い方が直球すぎて照れくさい。わたしは慌てて会話を逸らす。
「褒めすぎですよ。それより、次の視察ポイントへ急ぎましょう。予定が詰まってますから」
「あ、逃げた。でもそういう可愛い反応もいいですね」
「褒め言葉はもういいので、ほら行きますよ!」
わたしは顔が熱くなるのを感じながら、ルカを置いてさっさと先を急ぐ。すると遠くからセシリアが、まるで“何してるんです?”と言いたげな視線を送ってくる。わたしは目で「別に何もないわよ!」と訴えるが、彼女はクスクスと笑っているからタチが悪い。
まったく、こんな押しの強い青年に慣れていないわたしをからかわないでほしい。
夕方、少し休憩をはさもうと宿の前に戻ると、そこにユリウスの姿があった。
書類を抱え、待ち合わせ場所に遅れた相手を探しているらしい。わたしを見つけると、少しだけ安心したように口を動かしかけるが――その目にルカが映った途端、視線を逸らしてしまう。
「ユリウスさま、予定より手間取ってしまってごめんなさい。これから資料をまとめましょうか」
わたしが挨拶代わりに声をかけると、ユリウスは短く「はい」と頷く。しかし、その声はいつもより冷たい印象を受ける。どうにも居心地の悪い空気が流れる中、ルカがまた朗らかな声を上げて笑う。
「ユリウス先輩、さっきはどうも! ところでエリザベートさんが優秀すぎて、僕、感動しまくりですよ。彼女がずっとお側にいるなんて羨ましいなあ」
ユリウスの眉が一瞬ひくりと動く。気のせいか、わたしをちらりと見てすぐにそっぽを向いてしまった。その仕草に胸がチクリと痛む。わたしはルカに苦笑いを返しつつ、ユリウスの表情を伺う。けれど彼はあえて無表情を貫いているようで、本当の気持ちがまったく読めない。
「……仕事に戻りますよ」
再びそう言うなり、ユリウスはさっさと建物の中へ入っていく。わたしも慌ててあとを追いかけようとするが、ルカが「明日の予定はどうしましょう? エリザベートさんにぜひご協力いただきたいんですが」と引き留める。とりあえず、「後ほど調整してお伝えします」とだけ答えて、急いでユリウスを追いかける。
心臓がもやもやして落ち着かない。
夜。町で小さな祭りがあるらしく、商人や住民たちが色とりどりの灯りを飾り付けて大騒ぎしている。宿の人々も浮かれ気分で、広場に繰り出している。わたしもセシリアに付き添われる形で、人混みを眺めながら歩いている。
「せっかくのお祭りですし、楽しんできてくださいよ。お嬢様、そういう場は嫌いじゃないでしょう?」
「嫌いじゃないけど……なんだか落ち着かなくて」
セシリアが「ふうん?」と首をひねる。彼女は当然すべてお見通しだろう。わたしが気になっているのはユリウスの態度だ。今日一日、やたら素っ気ないというか、わたしがルカといるところを見られるたびに明らかに不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。なのに本人は「別に……」としか言わない。
「お嬢様、もしや嫉妬させてるんじゃないですか? ユリウスさん、見た感じうまく隠しきれてないですし」
「え、嫉妬? いや、そんなわけ……」
わたしはその単語を聞いて動揺する。まさかあのユリウスがわたしに嫉妬なんてするだろうか。
そもそも、自分の感情を表に出すのがものすごく苦手な人だ。だけど、確かに“ルカと楽しそうに話している”わたしを見るときのユリウスの顔は、いつもと違って見えた気がする。
え、でも確かにあの刺々しい横顔、もしかして本当に嫉妬? そう思うと、妙に心臓が跳ねる。
「そんなふうに思ってくれてるなら嬉しいんだけど」
「はいはい、こっちが赤面しますよ。ほら、あっち、灯りがいっぱい並んでますし見に行きましょう」
セシリアに腕を引かれ、わたしはさらに広場の奥へ進む。
夜空には花火のような明るいものはないが、提灯やランタンが散りばめられて幻想的だ。人々が笑いさざめき、屋台が立ち並んでいる。そんな喧騒の中で、わたしの心臓もどこか浮き足立っている。
やがて、人混みの中にルカが見えた。彼は忙しそうに屋台を巡りつつ、住民から情報収集している。わたしに気づくと、手を振って笑いかけてくる。わたしは笑顔で返礼して、適当に会釈する。
すると、その視界の端に、またユリウスが小さく映る。少し離れた場所で、わたしの方を見て立ち尽くしている。……やはり、あきらかに沈んだ表情だ。
わたしは喉を鳴らして、思いきってそちらへ歩み寄る。
彼はわたしが近づくのを見ても、なぜか目をそらそうとする。だけど逃さない。わたしはぐっと腕を伸ばし、彼の袖を軽くつまむ。
「ユリウス様、わたしと少しお話してくれませんか?」
「……今、ルカと一緒なんじゃ」
「仕事の話ですよ。あと、祭りをちらっと見るだけですから。いいですよね?」
そう強引に言うと、彼は少し苦い顔をして、わずかに頷いてくれる。
ほっと胸を撫で下ろし、わたしたちは二人で人波をぬって歩き出す。あちこちから笑い声や呼び込みが聞こえるが、何やら気まずい空気が二人の間に漂っている。どうにかしなきゃ。
「あの……今日、ずっとご機嫌斜めっぽいですけど、どうかしました?」
思いきって切り出すと、ユリウスはぎくっと動きを止める。さらに視線を地面に落とし、しばらく沈黙する。だけど、ここで黙られては終わりだ。
わたしは彼の顔を覗き込み、あくまでも柔らかい口調を心がける。
「もしわたしが、何かしてしまったなら教えてください。あなたに嫌な思いをさせたくないんです」
すると、ユリウスは一瞬だけ眉を寄せ、それから吐き捨てるように言う。
「……あなたは自由ですから、別に。誰と話しても構わない」
「え? それはもちろんそうですけど、それが理由なんですか?」
「分かりません。僕は、さっきから妙に落ち着かなくて……あなたがルカとかいう男と笑っているのを見るたび、胸がざわざわして。正直、自分でも何を考えているのか分からないんです」
最後のあたり、語尾が消えそうになる。わたしは思わず心をつかまれる。
――そうか、やっぱりあれは嫉妬なんだ。わたしが別の男性と親しげにしているのが気になって仕方なかった。だけどそれをどう言葉にしていいか分からない。そんな彼の混乱が、そのまま伝わってくる。
「その気持ち、たぶん、嫉妬です」
正面から言い切ると、ユリウスはカッと目を見開き、すぐにそむける。頬が赤く染まっているのが提灯の灯りに照らされてよく分かる。わたしはその様子を見つめながら、胸が熱くなる。
彼がわたしをそういう対象として見てくれている、少なくとも意識しているという証拠だ。
「そんな、子どもじみた感情を抱いているつもりは……」
「子どもじみてなんかないですよ。むしろ嬉しいです。あなたがそこまで動揺してるなら、わたしの存在が特別だって思ってくれてる証拠なんじゃないですか?」
そう言うと、彼はさらに表情を強張らせ、まるで押し黙ってしまう。
わたしは少し笑いそうになる。今まで彼に笑顔を向けても、素直に返してくれることは少なかった。けれど、何も言わないその沈黙自体が、「はい、そうかもしれない」と言っているように思えてならない。
なんとも言えない空気が二人を包む。
わたしたちは小さな路地裏まで歩いてきて、人混みから少しだけ離れた。提灯が淡く照らす壁にもたれて、ユリウスは視線を落としたまま、唇をわずかに震わせる。
「……あなたといると、何もかもが予想外の方向に転がっていくんです。さっきみたいに、嫉妬とか、独占欲とか、そんなもの感じたことがなかった。それなのに……」
言いづらそうにしながらも、本音をぽつりぽつりこぼしてくれる。
わたしの胸が苦しくなる。抱きしめたいほど愛おしく感じる。でも焦らないように、呼吸を整えて優しく微笑む。
「そういう変化、わたしはむしろ大歓迎です」
すると、彼はわずかに目を上げ、わたしを見つめる。その瞳はどこか切なげで、揺れが大きい。その揺れが深い湖の底まで見えそうで、わたしは息をのむ。心臓がドクンドクンと大きく高鳴る。祭りの雑音はかすかにしか耳に届かない。
「……分かりません。好きとか愛とか、そういう言葉を簡単に言える気持ちじゃない。ただ、一日中、あなたの姿が頭を離れなくて……自分でもどうすればいいのか」
「それでいいんです。今は何も言わなくていい。わたしはあなたの気持ちが揺れているだけで、十分嬉しいですから」
わたしが静かに答えると、ユリウスは戸惑ったようにまばたきをする。風が吹き、どこかから楽団の演奏が聞こえ、ざわめきが続いている。けれど、この路地裏だけは別世界のように静かな空気が漂っている。心音がやけに大きく感じられる。
わずかな沈黙のあと、彼の手が一瞬わたしの袖を掴む。
先日の夜と同じように、何かに迷いながらも衝動に駆られたような動きだ。わたしは思わず息を呑む。だけど彼はすぐ手を離して「すみません……」と呟く。
「謝らなくていいのに。掴んでくれたの、嬉しかった」
「……あなたは、ほんとに」
ぽつりと彼が漏らす。その表情はたまらなく複雑そうで、でもどこか愛おしげな色が混じっている気がする。わたしはそっと笑って、彼の手が離れた袖を優しく撫でる。
遠くで何かが弾ける音がして、わたしは振り返る。どうやら簡易的な打ち上げ花火が用意されていたらしく、空に小さな光が散っている。
人々が歓声を上げる。その光景を背にして、わたしたちは静かに向き合う。ユリウスはもう一度だけ唇を動かすが、言葉は出ない。わたしもあえて何も言わない。
けれど、これだけは確かだ――彼の心が動いているということ。嫉妬や戸惑いに揺れているのは、わたしへの思いが少なからずあるからだ。今はそれを抱えるだけで十分。いずれその気持ちが、もっと大きく芽吹いてくれたら、わたしは何もいらないと思う。
夜空を切り裂く小さな花火の閃光が、ふたりの間に咲いては消える。わたしはその瞬間、少しだけ手を伸ばし――彼の袖口に指先をかける。彼は驚いたようにわずかに体を強張らせるが、何も言わないで受け止めてくれる。
「わたしはずっとあなたが好きです。止めるつもりはないですよ」
小さく囁くと、彼は困惑したように目を伏せる。それでも逃げる様子はない。
花火の音が一段大きくなり、通りの歓声が重なった。
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