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第4章 恋の攻防、そして一歩の前進


 朝から晴れやかな陽光が差し込み、港町の空気が心なしか和らいでいる。潮の香りに混ざって、どこか甘い期待感が膨らんでいるように感じるのは、きっとわたしだけじゃないはずだ。

 ユリウスとわたしとの距離は、ほんの少しだけ縮まった。先日の雨の夜、彼が初めて「ありがとう」と言葉をくれた瞬間を思い返すだけで、胸がじんわり熱くなる。


 でも、まだまだわたしたちは“恋人”というには遠い。

 心が通じ合いそうで通じ合わない、不器用な距離感は相変わらずだ。彼がわずかに微笑んでくれただけで、わたしは舞い上がりそうになるし、ちょっとした行動で急に離れていくと、落胆してしまう。こういう攻防に、もどかしさと楽しさが入り混じっている。


 今朝は館の書斎で彼と一緒に書類整理をする予定になっている。荷馬車の到着時刻や隣国からの使節が宿泊する宿の調整など、やることは山積みだ。

 わたしは机の前に腰かけ、彼と二人で淡々と作業を進める。ユリウスはわたしの存在を意識しているようだけど、視線を合わせるのが恥ずかしいのか、妙に書類に顔を近づけて黙々とペンを走らせている。


「ここ、数字がずれてますね。明日の朝に船が着く予定なのに、書類は明後日って記載されてます」


 小声で指摘すると、ユリウスははっとしたように手を止める。ちらりとこちらを見て、少しだけ表情を和らげた。


「助かります。修正しておきます」

「お役に立ててうれしいです。こういうの、なんでも言ってくださいね」


 わたしが笑顔で応じると、彼は視線をそらしながらも、そっと頷く。前よりは“ありがとう”や“助かる”という言葉をくれるようになったし、あからさまに逃げようとはしなくなった。

 何気ないことだけど、その進展が嬉しくてたまらない。


 もっとも、今はまだこれが精一杯。彼は仕事の話になると饒舌とはいかないまでも的確に対応してくれるが、雑談や打ち解けた会話となると、あっという間にぎこちなくなる。

 でも、それでいい。成長のペースは人それぞれだし、彼なりに少しずつ前進している。大事なのは、その“小さな変化”をわたしが見逃さないことだ。


 セシリアは隅で手帳を開き、わたしたちの様子を観察しているようだ。「昨日より半歩進展」なんてメモを取っているらしく、たまに目が合うとにやりと笑われてしまう。

 まったく、わたしは彼女にとって面白い観察対象なのだろうか。


 そんな地道なやり取りを続けるうち、ある程度書類の目処が立ったころ。ユリウスは一枚の手紙を読み終えると、わたしの方に向き直って言った。


「実は今日、隣国の下級貴族が視察に来ることになりまして。内陸の山間部にある集落まで案内する任務が割り振られています。あなたも同行しますか?」

「もちろん。お呼びとあらば、どこへでも」


 わたしが即答すると、ユリウスは少しだけ言葉に詰まって目を瞬かせる。でも拒否はしないでいてくれる。むしろ「助かる」と小さく付け加えてくれたのが、とても嬉しい。

 どうやら彼は最近、わたしがそばでサポートするのを当たり前に思ってくれているらしい。そうやって彼が“頼る”という感覚を覚えてくれるなら、わたしの存在意義があるというものだ。



 昼前、わたしたちは馬車で山間部を目指す。隣国の使節たちがあらかじめ先行していて、数日後に合流する予定だという。ユリウスは準備を万端に整え、抜け漏れがないか何度もチェックしている。

 その隙にわたしは、セシリアにひそひそ声をかける。


「この馬車移動の間に、せめてもう少し会話が弾んだらいいんだけど」

「お嬢様の場合、強引に話題を振りすぎると彼は黙りますよ。適度に隙を作って、向こうが話しやすいように誘導するとか」

「そっか、誘導ね。よし、やってみる」


 意気込むわたしを見て、セシリアは面白がるように笑う。そして「がんばれ」と手を振って馬車を見送ってくれた。わたしは車内でユリウスの向かいに座り、のどかな景色を眺めながら、ちらりと彼の様子を探る。

 朝の光がガタガタ揺れる窓を通して差し込んでいて、ユリウスの黒髪が柔らかく光っている。


「あの、山間部って、どんな感じなんでしょう。わたし、初めて行くから楽しみです」


 そうやんわり話を振ると、ユリウスは小さく息をついて答えてくれる。


「村や集落が点在しています。街道が細く、雨が降ると地盤が崩れやすい場所もあるとか。自然豊かではありますが、何かと不便も多いですね」

「へえ、そんなに険しい道のりなんですね。険しいというか……自然が多いなら、いろんな景色が見られそうでワクワクします」

「……そういうものですかね」


 彼は淡々としているが、以前よりはちゃんと会話が続いている。わたしが少し目を輝かせるだけで、くすっと笑いそうになるような気配を見せる場面もある。

 こういうときに「あなた、いま笑いかけましたよね」と突っ込むと、きっと恥ずかしがるだろうから、あえて黙って胸に秘めておく。


 そうこうしているうちに道が険しくなり、馬車はかなり揺れ始める。ガタンと大きく跳ねた拍子に、わたしは体勢を崩して、思わずユリウスの肩に手を当ててしまう。

 間近で見上げる彼の顔は予想どおり真っ赤だ。だけどわたしもどきりとする。


「す、すみません、揺れがすごくて……」

「あ、いえ……こっちこそ……」


 お互いろくに言葉が出ないまま、気まずいような、でも嫌じゃないような沈黙が落ちる。

 心臓がバクバク鳴って、顔が熱くなるのを感じる。

 わたしはゆっくり手を離しながら、「ごめんなさい」と再度小声で謝る。彼は気まずそうにうつむくが、どこか照れくさそうな表情なのが見えて、思わず頬が緩む。


 予想以上に山道に手こずり、わたしたちが目的の村へ着くころには、雲行きが怪しくなり始めていた。村の有力者に挨拶を済ませたあと、天候の急変を警戒して、あまり長居せずに引き返そうとする。

 ところが途中で風が吹き荒れ、豪雨に近い雨が降り始めた。道がぬかるむと馬車では進みにくい。


「仕方ない、少し山道を歩いて抜けよう。ここから先、近道があります」


 ユリウスが地図を開いて説明してくれる。わたしはその頼もしい姿に感心しつつも、雨で足元が危なそうなのが気にかかる。案の定、土の斜面が滑りやすく、何度か転倒しそうになりながら進むことになる。


 激しい雨音のなか、わたしはほとんどユリウスの背中だけを見て歩く。彼は道なき道を迷いなく進んでいるが、さすがに雨脚が強すぎて先が見えない。少しでも雨を凌げる場所を探しながら進んでいると、かすかに洞穴のような暗がりを発見する。

 わたしが指さすと、ユリウスも気づいて「あそこならしばらく雨宿りができそうですね」と答えた。


 なんとか滑りそうになる足を踏ん張り、洞穴の入り口へ飛び込む。天井はそんなに高くなく、ほんの数人が隠れられる程度の広さ。雨が吹きつける心配はなさそうだ。

 わたしは濡れたドレスの裾を絞り、ユリウスは近くの枯れ木を寄せ集めて火を起こしてくれる。


 ぱちぱちと小さな炎が灯り、洞穴の中に淡い光が揺れる。

 雨音が外から重たく響いてくるけれど、ここは自然に区切られたプライベート空間みたいで、どうにも胸が高鳴る。ユリウスも火のそばでしんと座り込み、しばらく黙ったままだ。

 わたしも隣に腰を下ろし、暖を取るように両手を火にかざした。


「…‥寒くないですか?」


 彼が不意に声をかけてくる。その言葉は短いが、ちゃんと気遣ってくれているのが伝わる。


「ありがとうございます。平気です……ちょっと足が冷えてるぐらい。あなたこそ、風邪ひかないように」


 するとユリウスは控えめに微笑み、かすかに首を傾ける。


「僕は慣れてます。昔、騎士団で鍛えられていたころも、似たような状況が……」

「え、あなた、騎士団でも訓練してたんですか?」


 びっくりして声を上げる。やっぱりただの外交官じゃなかった。あの身軽な身のこなしを見れば納得だ。ユリウスはどう反応していいか分からないのか、手元の火をじっと見つめる。


「平民出身の僕が、外交官に抜擢される前に、少しだけ騎士団に顔を出してたんです。けれどある事件をきっかけに、正式採用にはならず今の部署に回されました」

「ああ、そうだったんですね。でも騎士団経験があるなら、行く先々で助けを求められたときも対応できますよね。市場で困っている子を助けたり」

「……まあ、そうですね」


 彼はわずかに笑って、火に枝をくべる。その横顔をそっと盗み見ると、前よりずいぶん柔らかい表情をしている気がする。こんな風に、昔の話をほんの少しでも教えてくれるなんて。

 わたしはうれしくて火に近づきすぎそうになるのをこらえながら、さらに言葉を継ぐ。


「騎士だろうと外交官だろうと、あなたが人を救う性分なのは変わらないと思います。だからわたし、あなたを好きになってよかった」


 彼は一瞬ぴくりと肩をこわばらせて、火の明かりの奥でかすかに目を見張る。


「……あなたは、本当に一直線ですね」

「ええ、そうです。恋って、こんなにまっすぐぶつかれるんだって、自分でも驚いてます」


 そう言って笑うと、彼はばつが悪そうに目を伏せる。でも、以前のように否定したり拒絶したりはしない。むしろ耳まで赤くなっているのが見えて、わたしは胸がドキドキする。

 こんな雨宿りの暗がりで、二人きり。火の灯りを介して距離がさらに近い気がする。


 火が落ち着いてきたところで、わたしは薪を少し動かそうとして、彼と同時に手を伸ばしてしまう。かすかに指先が触れた瞬間、彼はまるで電流に打たれたように体をびくりとさせた。わたしも息をのむほど驚く。ほんの一瞬のタッチなのに、やけに強く意識してしまう。


「……す、すみません」


 彼があわてて手を引っ込める。わたしもさっと顔が熱くなる。たったこれだけのことが、どうしてこんなに胸を高鳴らせるのだろう。もしかしたらわたし以上に、彼の心臓は大きく鳴っているかもしれない。そんな想像をすると、妙な安心感と愛しさが込み上げる。

「変ですね」と、彼はぽつりと漏らす。


「何が変ですか?」

「ただ手が触れただけなのに、心臓がうるさいくらい暴れてるんです」


 彼は真面目な顔でそう言い、再び火を見つめる。その口調は戸惑いに満ちているのに、どことなく嬉しそうにも聞こえる。わたしはその言葉がたまらなく愛おしくて、思わず弾んだ声を返してしまう。


「それが“恋”なんですよ」

「恋……」


 彼はその言葉を噛みしめるようにつぶやく。

 洞穴の薄暗がりと揺れる炎が作る幻想的な空間に、わたしたちの呼吸が混じり合う。雨音だけが外で鳴り響き、ここは二人だけの世界みたいだ。胸の奥に熱が広がり、強くなる鼓動に呼応するかのように、彼の瞳にも小さな光が宿っている気がする。


「変、なんてことはないです。むしろ自然なこと。わたしだって今、あなたと少しでも触れたらすごくドキドキする」


 自分で言っておいて、さらに顔が火照る。あまりにも正直すぎるけれど、嘘はつきたくない。彼は返答に困ったように視線を泳がせながらも、小さく息をついて笑う。


「……あなたに慣れるのは、相当先になりそうです」

「慣れる必要はありませんよ。わたしもあなたの不器用さが好きですから」

「そ、そういう問題じゃ……」


 困ったように眉を下げて、言葉を止める。わたしはさらに追い打ちをかけず、笑って黙る。

 せっかくほんの少しずつ心がほどけているのだから、無理に踏み込まず、彼の心の揺れを一緒に味わいたい。そんな気分になる。


 やがて雨音が弱まり、外を覗くと雲が切れ始めている。まだ道はぬかるんでいそうだけど、進めないほどでもなさそうだ。ユリウスが慎重に外へ出て地面を確かめる。わたしも荷物をまとめて立ち上がる。

 わずかな時間だったけれど、この洞穴で過ごしたひとときは、わたしたちをほんの少し近づけてくれたと感じる。

 わたしは立ち去る前にもう一度、小さく火に息を吹きかける。赤い残り火がぱっと灯って、また消える。


 宿に戻れたのはすっかり夜になってからだった。さすがに体力を使い果たして、わたしもぐったりと疲れている。泥だらけの服を着替えたいけれど、それよりも今は少し休みたい。

 そんな風に思っていると、彼が手にしたティーカップをわたしの方へ差し出してくれた。


「……温かいお茶が入りました。よかったら飲んでください」

「え、くれるんですか?」

「あなたが昨日、『お茶を淹れるの得意』って言ってましたよね。今日はその……僕の方で淹れてみようかと」


 目を伏せて気恥ずかしそうにしながら、カップをそっと渡してくれる。どうやらわたしがいつも「あったかいお茶でほっとしたいですね」と口にしていたのを憶えていてくれたらしい。

 その優しさに胸がいっぱいになる。


「嬉しいです……いただきますね」


 唇をつけると、ほのかな香りが舌に広がる。正直、ちょっと濃いめで渋みが強い気がするけれど、それでも心と体がじんわり温まる。何より、彼がわたしのためにやってくれた、その行為がかけがえない。思わずわたしは目を細めて、にこりと笑う。


「おいしいですよ。ありがとうございます」

「そ、そうですか。よかった」


 彼は短く呟いて急いで自分のカップに口をつけるが、たぶん照れ隠しだろう。そんな微笑ましい姿に、わたしも笑みがこぼれる。一歩、また一歩。わたしたちは確実に近づいている。距離感が少しずつ埋まっていくのを実感しながら、わたしはティーカップを握りしめる。


 彼が不意に視線を落とすとき、そこにはいまだに迷いやためらいが残っている。それでもいい。わたしはこの関係の進展を焦らずに味わいたい。

 何しろ、ほんの一瞬手が触れるだけで、こんなにも胸が高鳴るのだから。


 静かな夜の宿で、お互いに向けて言葉は多くない。でも、一日を一緒に乗り越えたあとだからこそ分かる。“相手の存在が特別で尊い”という事実。雨に打たれて震えた体が、すっかり穏やかな熱で満たされている。


 ふと、わたしはカップを置いて彼の横顔を見る。疲れているはずの瞳は、不思議なほど柔らかい光を湛えている。わたしが見つめていることに気づいたのか、彼は少し照れながら「何です?」と尋ねる。


「いえ、ちょっと…あなたの顔を見てました。今日はいろいろありがとうございました」

「……どういたしまして」


 その小さなやり取りだけで、今日という一日が報われた気がする。

 わたしは胸の奥で小さくガッツポーズをしながら、明日の朝はもっと距離を縮められるだろうかと期待してしまう。


 部屋に戻る前、わたしはそっと振り返り、彼に微笑みを送る。すると彼は一瞬迷ったように見えたが、ほんのわずかに手を挙げてくれた。そんな小さな仕草が、わたしには何よりも嬉しい。


 ドアが閉まり、部屋の静寂に包まれると、わたしは心の中でつぶやく。

 ――今日の距離が明日はもう少し近くなるかもしれない、と。洞穴で寄り添ったあの時間、触れ合った指先、交わした言葉。それを覚えているだけで眠れないほど胸が高揚してしまう。でも、それが幸せというものだ。


 彼はこれからどう思ってくれるんだろう。わたしを少しは意識してくれているのか。それとも、まだ一歩踏み出すのが怖いのか。

 恋の行方は誰にも分からないし、どんな障害が来るかもわからない。でもわたしは彼の隣で、この“恋の攻防”をじっくり楽しもうと心に決めている。



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