第3章 噂と真実と、少しの距離
今朝、セシリアが珍しく険しい顔つきで部屋に飛び込んできた。
わたしが「どうしたの?」と声をかけると、彼女は深呼吸してから、おもむろに手紙を差し出す。
「お嬢様、王都からの文書が届きました。……ちょっと、いい気分にはなれない内容です」
横から覗き込むと、そこには「ユリウスの過去のスキャンダルに関して」と書かれているらしい言葉が並んでいる。むろん、失礼極まりない言い回しで、不穏な影を匂わせるような文面だ。読んでいるだけで腹が立ってくる。
「何これ。こんなの、最初から根も葉もない噂に決まってるじゃない」
手紙を握りしめて怒りを燃やすと同時に、嫌な胸騒ぎが広がる。
王太子派に属する誰かが、裏でユリウスを陥れようとしているのかもしれない。わたしの周りを嗅ぎ回っている人物がいるのだとしたら、決して面白い状況じゃない。
セシリアは机に手をついて憤慨するわたしを見やりながら、小声で嘆息する。
「これは複数箇所から出回っている噂の一部らしいです。過去に『外交先で女性をたぶらかして交渉を失敗に導いた』とか、挙げ句『相手国の令嬢を不幸にした』なんていう虚実入り混じった話が流れてるんだとか」
「馬鹿馬鹿しい。いくらなんでも露骨すぎるわ」
わたしは文書をテーブルに叩きつけると、椅子から立ち上がる。
こんな中傷を仕掛ける人間は誰なのか。そもそもユリウスが何かやらかしたというのなら、わたしがそばにいて気づかないはずがない。なのに、ありもしない話をでっち上げている輩がいるのが許せない。
「ユリウスはどう思ってるのかしら。もう知ってるのか、まだなのか」
「たぶん、本人の耳にも入ってますよ。でも、あの人はきっと自分から説明したり弁解したりはしない気がします」
セシリアが歯がゆそうに言う。わたしも同感だ。
ユリウスを少しでも知っている人なら、彼がそんな不埒な行為をするわけがないと分かるはず。だが当の本人は、自分の傷が暴かれることを恐れているのか諦めているのか、黙り込むだけだ。
「セシリア。事実がどうだったのか徹底的に確認してくれる? わたしは彼の過去ごと受けとめたい」
わたしがそう言い切ると、セシリアはすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「分かりました。黒幕が誰なのか、スキャンダルの真偽はどうなのか、徹底的に調べてきますね」
「ありがとう、助かるわ」
誰かが彼を貶めようとしているのなら、わたしは絶対に看過しない。そもそも、そうでなくてもユリウスは昔から人を遠ざけて生きてきたように思える。今こそ彼が傷ついていた理由を知りたいし、その傷を抱えながらも守りたがる“なにか”を理解したい。それがわたしのやるべきことだと思っている。
午後になり、ユリウスが外回りの書類整理から戻ってきた。
わたしが声をかけようとすると、彼はあからさまに視線をそらす。何度か「ユリウスさま」と呼んだけれど、まるで聞こえないふりをしているようだ。
「ちょっと待って。あなたが話を避けるなら、わたしは何度でも呼びますけど」
わたしが強めに言うと、彼は仕方なさそうに足を止める。
薄く息をつく様子が見えて、わたしは少し胸が痛んだ。きっと噂のことを既に知っているのだろう。そのせいか、彼はいつも以上に壁を作っている。
「……何ですか」
「あなたに関する噂、わたしも耳にしました。王都からも妙な文書が届いてるの」
「そうですか。気にする必要ありません。放っておいてください」
不機嫌というより自分を切り離してしまったような、冷めた口調。いつもならあからさまに顔を赤らめたり、そわそわしたりするのに、今日はそれすらない。ただ静かに拒絶してくる。
「放っておけるはずないじゃない。あなたが否定もしないで黙っていると、周りはそれを“事実”だと思い込んでしまうわ。わたしはそんなの嫌」
「事実じゃない、と言ったところで、どうせ信じる人は限られています。だから意味がないんです」
「意味がないなんて……」
わたしは言葉を失いそうになる。彼はこれまでに何度も“誤解”を受け、そのたびに周囲に裏切られてきたのかもしれない。でも、それを知っていて黙って見過ごすなんて、わたしには到底できない。
彼はこのまま誰とも心を通わせず、自分だけを傷つけ続けるつもりだろうか。
「わたしは、あなたの過去ごと好きになるつもりでいるの。だから、隠さないでほしい」
本音をぶつけるように言うと、ユリウスは目を伏せたまま、ほんの少し唇を噛む。
その沈黙がじれったいけれど、今は彼を詰めすぎても逆効果かもしれない。わたしがもう一歩踏み込む前に、彼は顔を背けるように踵を返す。
「……関わらないほうがいいです。あなたも巻き込まれるだけ」
それだけ言い残して彼は行ってしまう。わたしは手を伸ばそうとして、その背中に触れられないまま立ちすくむ。こんなにも強く突き放されると、わたしの中の焦燥が募る。
少し後ろからセシリアが近寄ってきて、肩に手を置く。
「大丈夫ですか? あの人、全然本音を言ってくれないですね」
「でも大丈夫。絶対に諦めない」
わたしは自分に言い聞かせる。ここで引いたら、彼はもう二度と誰も信じられなくなるかもしれない。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
わたしにできることは、誰よりも近い場所で、彼を信じる姿を見せることだ。
夜になり、突然の雨が降り始めた。
わたしはざわつくような苛立たしいような気持ちを鎮めるために、窓から外を見下ろして激しい雨音に耳を傾けていた。風が強く、あたりはびしょ濡れだ。
ふと、窓の下を歩く人影に気づいた。
暗がりに紛れていてはっきり見えないが、あの背筋の伸びた佇まいはユリウスだ。どうしてこんな雨の中をひとりで出歩いているのだろう。
セシリアは町の情報収集に出ていて戻っていない。わたしは急いで傘を手に取って外へ飛び出す。
重い雨のしぶきが肌を冷やすが、そんなことを気にしている場合じゃない。彼を放っておけない。
滑りやすい石畳に注意しながら走ると、ユリウスの後ろ姿が徐々に近づいてくる。
黒い外套が雨に打たれてしっとりと光る。彼は何を思ってこんなふうに濡れながら歩いているのだろう。わたしは息を整えつつ、すぐ後ろで声をかける。
「ユリウスさま! こんな大雨の中、何をしているんです?」
すると彼はゆっくりと振り向く。雨粒がその頬を伝っているのか、それとも彼が涙ぐんでいるのか。
一瞬わたしの胸がぎゅっと締まる。彼は何も言わず、ただわずかに眉を寄せるだけだ。
わたしは止まらずに彼に近寄り、持ってきた傘を広げる。
「……風邪をひきますよ。少しは雨宿りしましょう」
そう言って傘を差し出すと、ユリウスは静かに視線を伏せる。抵抗するでもなく、わたしの傘に入るでもなく、中途半端に立ち尽くしている。
「どうして……あなたは。そんなにまでして僕に近づく必要があるんです」
痛ましげな声。あまりにも弱々しい問いかけ。それに対するわたしの答えは明快だ。
「間違いなく、わたしがあなたを好きだからです」
「……僕を好きになるのは、間違っている」
呟くように言う彼の表情には、強い自己否定の色が見える。
過去の噂や誹謗中傷を真に受けて、すべての責任が自分にあるように思い込んでいるのかもしれない。わたしはその瞳を見つめ返す。
「いいえ。あなたを好きになることは、わたしにとっての正解です」
ユリウスの目が揺れる。音もなく雨脚が強くなり、わたしの傘の端を叩く。
彼は困惑に満ちたまま、わずかに唇を震わせる。
「正解って……」
「わたしはあなたが好きだからここにいるの。それって、わたしが決めることですよね?」
わたしが言うと、彼はまばたきすら忘れたようにじっとこちらを見つめる。
そしてふいに、糸がほつれたように、小さく笑みがこぼれ落ちた。
「……あなたという人は、本当に変わってますね」
「ふふ、ほめ言葉として受け取っておきます」
会話はごく短いものなのに、わたしの胸に温かい火が灯る。雨の中でじっとりと冷えていた心が、一気にあたたまっていくようだ。彼の頬を伝う雨粒も、さっきよりは穏やかに流れているように見える。
わたしは彼の腕を引き、近くの軒先へ移動する。傘が二人分をきちんと覆うほどの大きさではないから、自然に肩が触れあう。
彼は少しだけ息を詰め、わたしを見下ろす。わたしも顔を上げて目を合わせる。
「……ありがとう」
雨音の合間に、彼の小さな声が聞こえる。そのひとことは短いけれど、わたしには十分だ。
これまで避けられてばかりだったのに、こうして真正面から言葉をもらえた。わたしはその“ありがとう”が、彼なりの敬意や感謝のすべてだと感じる。
「どういたしまして。大好きですよ。ユリウス様」
そう言うと、彼は唇をかすかに開いて、言葉を探しているように見える。何かを伝えようとしているのか、あるいはまだ整理しきれないのか。だけど、無理に聞き出そうとは思わない。
ゆっくりでいい。この雨の中で少しずつ、わたしたちの間にある壁が溶けていけばそれでいい。
わたしはそっと息をついて、肩を並べて立つ。雨宿りを続けるうちに、少しずつ小降りになっていく。やがて、空からの雨粒が止み始めると、湿った街並みから夜の匂いが濃く立ち昇ってきた。
「雨、止んだみたいですね。……一緒に帰りましょう」
「ええ……そうですね」
彼がうなずいてくれる。それだけで、わたしの心は満たされる。
わたしたちは傘をたたんで歩き出す。道端には水溜まりが残っていて、月の光が揺らめいている。わたしは濡れた舗道に足を取られないように気をつけながら、ほんの少しだけ彼の腕に寄り添う。
すると、また彼は一瞬ぎこちなくなるものの、今度は離れようとしなかった。
翌日、セシリアが戻ってきて、わたしにこっそり報告をしてくれる。
やはりユリウスの過去のスキャンダルは、ほぼ捏造だったようだ。彼は外交先で理不尽な陰謀に巻き込まれ、相手貴族の女性から“付き合っていた”と嘘を流されていたのが真相らしい。その女性はユリウスを駒に使って自国の利益を狙っていたが、上手くいかず逆恨みをして醜聞を広めた。それが長らく尾を引いている、とセシリアは話す。
「しかも、その影で糸を引いていたのは、王太子に近い派閥の貴族の可能性もあるとか。いろんな要素が絡んでるから、一概に誰が悪いとは言えませんけど」
「要は、彼は被害者だったってことね。ほら、やっぱりそうでしょう」
わたしは怒り交じりに納得する。あの優しくて誠実なユリウスが、そんな破廉恥な真似をするなんて想像もつかなかった。きっと本人は余計な波風を立てないように、反論もせず黙ってきたのだろう。だから周りが誤解を解かずに、噂がひとり歩きしたのだ。
セシリアが苦い顔で首を振る。
「過去に『本当のことを話しても誰も信じなかった』という経験が何度もあったみたいですよ。そりゃあ人を信じられなくもなりますね」
「でもわたしは、彼を信じ続ける。何があっても、嘘だと分かってるんだもの」
やるべきことははっきりしている。彼が逃げ腰でも、わたしは堂々と「彼はそんな人じゃない」と言い続ければいい。町や周囲の人にだって、わたしが知るユリウスの優しさや誠実さを伝えてまわろう。
日が落ちる前、わたしはいつものように街を歩きながら、会う人ごとに明るく挨拶を交わす。
時折「ユリウスって人、噂になってるよね」と言われれば、「いいえ、彼ほど真面目で優秀な外交官はいませんよ」とさらりと返す。疑いを抱く人もいるが、わたしは笑顔で説明する。
彼がどんなにきめ細かく仕事をしているか、困っている人を放っておけない人柄か。話せる限り伝える。
そうやって噂を塗り替えていくのが、わたしにできるささやかな戦い方だ。
街中でいきいきと活動していると、ふと、ユリウスがそっと立ち去ろうとしているのを見つけた。
わたしは咄嗟に、彼の後ろ姿に声をかけようか迷う。
けれど彼は振り返りもしないまま姿を消した。もしかしたら、わたしを見ててくれたのかな。そう期待する自分がいる。
夕方になり、セシリアは肩を竦めながら言う。
「今の活動、あの人に伝わってると思いますよ。『信じてもらってる』って実感するのは、彼にとって大きいでしょうね」
「そうだといいなって、実際、期待しちゃってるわ」
半ば照れ隠しに笑うわたしに、セシリアは楽しそうに頷く。胸の奥に静かな決意を宿したまま、宿へと戻った。
誰かを信じて一生懸命に行動するって、こんなにも難しくてエネルギーを使うのかと、改めて思い知る。それでもこんな苦労は少しも辛くない。わたしはわたしの信じる愛を貫きたいのだから。
夜になり、慌ただしい一日を終えて部屋でくつろいでいると、ノックの音がした。
ドアを開けると、そこにユリウスが立っている。相変わらず無表情気味だが、どこか思いつめたような気配が伝わる。
「……さっき、広場で、あなたが色々と話していましたね」
やっぱり見てくれていたんだ。少し照れながらも、「聞いてたんですか?」と問いかけると、彼は戸惑いがちに頷く。
「はい。どうしてそこまで……って思いました。でも、ありがとう」
その“ありがとう”は、まるで先日の雨の中で聞いた言葉よりもはっきりしている。わたしは嬉しさがこみ上げて、満面の笑みを見せる。
「どういたしまして。まだわたしは足りないくらいだと思ってます」
「足りない?」
「もっとたくさんの人に、あなたのことを知ってほしい。あなたは噂なんかに負けるような人じゃない。だって、こんなに素敵なのに」
わたしの言葉に、彼は目を伏せる。とても複雑そうな表情だけれど、わたしを拒絶しようとはしない。もしかしなくても、ぐっと距離が縮まってるんじゃない? そう思うと、胸が高鳴る。
「あなたは……本当に、不思議ですね」
静かな呟き。わたしは少し息を詰めながら、そっと微笑む。
彼と同じ空間でこうして話せていることが、奇跡のように感じられる。
「わたしは、自分に正直なんです」
そう告げると、ユリウスはかすかに笑って、穏やかに首を振る。痛ましげに伏せていた瞳が、わずかに揺れる光を宿す。
「……あなたの気持ち、受け取っていいんでしょうか」
「もちろん。嬉しいです」
わたしは頷きながら、心の中で大きくガッツポーズをしている。
やっと彼のが心の扉を開いてくれた。ここで彼からも好きを求めるのは、ちょっと贅沢だろう。
今は、私の好きを受け取ってくれるならそれでいい。扉が開いただけでも、大きな前進だ。
彼はほんの一瞬だけ笑って、「ありがとう」ともう一度言う。そんなやり取りだけで、わたしの胸はぽかぽかに温まる。
気づけば外の雨は止み、夜風が静かに窓辺を撫でている。
――少しずつ、雨が上がった空に星が見え始めている。彼とわたしの空にも、きっと同じ星が瞬いているはず。わたしはその光を見上げながら、心の中でそっと呟く。
あなたがどんな過去を背負っていても、わたしはあなたを好きだと胸を張って言うと決めた。
この想いは、嘘じゃない。
彼が受け取ってくれたひとかけらの温もりが、何よりの証拠だから。
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