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第2章 恋の外交任務、始まります!


 わたしは馬車の硬いシートに腰を下ろしながら、じっと前をみている。

 窓から差し込む朝の陽光が揺れる車内を照らしているのに、空気はまるで静まり返ったまま。向かいの座席に座っているユリウスは、目を閉じたまま腕を組んでいる。

 言葉を交わそうとしても、どこか遠いところに意識を飛ばしているようで、返事が返ってこない。

 沈黙が重い。わたしは喉を鳴らして、何とか話題を振ってみようとする。


「ええと……昨夜はよく眠れましたか?」


 思いきって声を出すと、彼は目を開いてこちらをちらりと見る。だが「はい」とだけ呟き、すぐにまた視線を逸らす。まさかここまで話が続かないなんて。

 隣で口元を押さえているセシリアは、多分笑いを堪えているに違いない。


「……そう、ならよかったです」


 車輪のきしむ音だけが際立って耳に残る。どうやら彼は本当におしゃべりが苦手らしい。いきなり砕けた会話を望むのは酷かもしれない。

 とはいえ、これからわたしは彼の外交補佐として一緒に行動するのだ。少しは打ち解けないと仕事にならないはず。

 セシリアは「まずは話しかけを継続して、相手の返答を観察するのがいい」と言っていた。やはり後ろからわたしの肩を軽く叩き、アイコンタクトで頑張れ、と言わんばかりに微笑んでいる。


「あの…ユリウスさま、今日のスケジュールの内容を確認しても良いですか?」


 そう切り出すと、彼は少しだけ顔を上げる。そして困ったような表情で手元の小さな書類を見せてくれた。


「交渉相手の貴族が管理する館に、まず挨拶に行きます。そのあと、町の治安状況を確認するため、見回りをする予定です」

「なるほど。ではわたしもついて行きますね。補佐官として、必要なところで手伝えれば幸いです」

「……はい、お願いします」


 一応は会話が成立しているのに、この重々しい気まずさは何だろう。目が合うと、彼はすぐに視線を外してしまうし、わたしが笑いかけても困惑気味の反応ばかり。馬車の揺れが大きくなるたび、ほんのわずかにわたしたちの距離が近づくような錯覚がある。でもそのたびに彼の方は身を引いて座り直すから、その瞬間わたしは胸に小さな寂しさを感じる。


「お嬢様、あまり詰めすぎずに、じっくり攻略ですよ」


 セシリアがぽそっと囁く。わたしは「わかってる」と返すが、正直やきもきしてしまう。

 こんなに近くにいて、まるで心が通わない感じがもどかしい。しかしこの謎めいた距離感こそが、わたしを強く惹きつける理由でもある。わたしは彼の心の壁を壊したいわけではない。ただ、扉をノックして開いてもらいたいだけなのだ。いずれきっと、そういう日が来ると信じている。


 馬車がしばらく走ったのち、わたしたちは目的地である館の前に到着する。石造りの美しい建物で、花壇や噴水が手入れよく整っている。出迎えてくれた女主人はふわりと柔らかな笑みを浮かべ、ユリウスを見つけるなり嬉しそうに駆け寄ってくる。


「まあ、ユリウスさま、お久しぶり。そちらは…もしかしてお連れ合いの方?」

「あ、いえ、そういうわけでは」


 わたしが否定しようとする前に、ユリウスが慌てて手を振る。女主人は「あら、恥ずかしがらなくてもいいのに」とからかうような口調だ。どうやらこの館の主催する外交行事に、ユリウスは以前から何度も足を運んでいたらしい。彼がどうやら仕事面では有能だと噂で聞いていたけれど、今まさにその一端がうかがえる。


「そちらのお嬢様は美しい方ですね。見た感じ、とても仲睦まじい印象を受けますが…」

「いえ、ただの……」


 そう言いつつ、ユリウスはまたわたしを横目に見て、なぜか言葉に詰まっている。まさか「恋人じゃありません」と否定することにためらいを感じているのだろうか。それとも「いや、仕事仲間です」と説明するだけの気力が出ないのか。いずれにせよ彼の頬はほんのりと赤い。

 わたしは横で微笑を返しつつ、気まずそうにうつむく彼を見やる。どうやら彼は“そういう話題”に尋常ではない苦手意識を持っているみたい。


「ユリウスさまの支援をさせていただきます。わたくし、エリザベートと申します。今後ともよろしくお願いいたしますわ」


 やんわりかわして挨拶すると、女主人は「まあ素敵」と嬉しそうに両手を叩く。

 ユリウスはその隙にささっと書類を取り出し、早口で館の行事日程や要望を確認し始める。仕事になるとまるで別人みたいにハキハキと説明するから驚く。見事な手際に、相手方のスタッフたちが感心した顔をしている。確かにこれなら“あの堅物外交官”という評判にも合点がいく。

 プライベートでは人と距離を取りつつも、公の場ではきっちり成果を出すのだ。


 わたしはその打ち合わせを少し離れたところから眺めながら、なるほどと納得する。口下手に見える彼だけど、外交文書の要点を端的にまとめる力や、相手の求める情報をさっと用意する段取りの良さは見事。そんな“仕事人”の姿がやけにカッコよく見える。


 ほどなく打ち合わせが終わり、わたしたちは館の中で夕食をふるまわれることになった。

 広間に長いテーブルが設えられ、使用人が次々と食事を運んでくる。わたしはさりげなくユリウスの隣の席をキープしようとしたのだけれど、まるで彼が虫の知らせでも受けたようにスッと席を離れてしまう。結果、わたしは頑張って彼の近くに行くも、一席ぶん空白ができてしまう。

 あまりの瞬発力に思わず苦笑する。


「隣、空いてますよ」

「……あ、いえ、こっちで大丈夫です」


 まあ、そこまで避けられているわけではない。彼はきっと慣れていないだけなんだと、自分に言い聞かせる。視線が少しでも合うと、彼は急にそわそわしてしまうから、わたしも深追いはしないよう心がける。それでも、やはり少し寂しい。

 そんな顔をしていたのか、セシリアが苦笑いしながら小声でささやく。


「これ、作ってみましたよ。『恋愛ミッション表』」


 聞けば、わたしとユリウスが今後こなす“イベント”を一覧にして、どの段階でどうアクションを取るかをメモしたのだという。例えば「まずは5メートル以内で三言以上会話」「一日一回は視線を合わせる努力」「身体的接近を図るときの段取り」。まるで子どもの宿題計画表みたいだが、これが意外に役立ちそうで困る。


「わたしの恋がそんな表で攻略されていくのね。ちょっと笑えるけど、ありがとう」

「いいんですよ。何しろ相手が手ごわいですから。焦らず順番を踏んでいきましょう」


 わたしはそのノートを苦笑しながら受け取る。夕食が終わる頃にはもう、ユリウスはそそくさと席を立ち、執事やスタッフと細かい打ち合わせを始めてしまう。――そうして彼はあっという間に仕事モードへ戻るのだ。わたしも少しでも役に立ちたくて、あとを追おうとする。


 それから夜半近くまで、館内での会合が続いた。帰る頃には馬車ではなく徒歩で周辺のパトロールをする予定だという。隣国の使節が訪れる際、予期せぬトラブルが起きないよう見回るのだそうだ。

 彼が先頭に立つのなら、わたしも補佐として同行したい。そう思って手を挙げると、彼は一瞬迷い顔をするものの、断りきれないのかうなずいてくれた。


 夜の町は昼間とは違い、人通りが少なく静まりかえっている。遠くに酔客の笑い声がかすかに響くぐらいで、ほとんどの店が締まりかけている。ユリウスの足取りは慣れたもので、曲がり角や裏路地に向かうときも警戒を怠らない。わたしとセシリアが後ろを歩き、何かあればすぐ動けるようにしている。

 すると、そのとき何やら小さなすすり泣きが聞こえた。


「子どもの声……ですかね」


 セシリアが耳を澄ます。わたしも目を凝らすと、薄暗い通りで小さな女の子がうずくまっているのが見えた。ユリウスも気づいたのか、すぐに駆け寄る。彼はひざまずいてやさしく声をかける。


「どうしたんだい? 何かあったの?」


 女の子は涙をためながら「迷っちゃった…お母さんと離れちゃって」としゃくり上げる。ユリウスは静かにその子の頭を撫で、「一緒に探してあげるから大丈夫」と告げる。わたしは、そんな彼の様子を見守りながら、胸に温かいものがこみ上げてくる。先日の市場で少年を助けたときと同じ。

 彼は本質的に誰かを見捨てられない人なのだと、ひしひしと伝わってくる。


 わたしたちは近所の人に声をかけながら母親を探す。少しして、焦った顔で通りを歩いていた女性が「うちの子!」と気づいて駆け寄ってきた。ユリウスは女の子の手をそっと離して彼女に渡してあげた。女性は何度もお礼を言い、涙を浮かべて抱きしめている。

 その光景を見つめるユリウスの横顔は、どこか切なげだ。


「よかったわ」


 わたしが安堵の声を上げると、ユリウスは小さく頷くだけ。でもその微かな表情の変化から、彼も少し嬉しそうな気配がうかがえる。

 誰かを助けることが当たり前のように染みついているのに、本人はそれを誇らしげに語ることもしない。そんな不器用な優しさが、とても尊い。



 次の日。セシリアが町で買い物をしている間、わたしはふと耳にした噂話に気を取られる。

 どうやら、ユリウスには過去のスキャンダルがあるらしい。数年前、外交任務先で女性絡みの不祥事を起こした――という内容だけれど、どうも作り話くさい。けれど事実かどうかははっきりわからない。セシリアは「少し探ってみます」と言って、すぐに情報収集に出かけてくれた。


 わたしはそのあと、邸宅の裏手にある洗濯場で作業をする使用人たちの手伝いをしていた。

 ユリウスに「ここを見回ってほしい」と言われたのがきっかけだが、実際にはどうしても“偶然を装って彼が来ないか”期待している自分がいる。実際、しばらくしてから彼が書類を持って通りかかった。


「こんにちは。今日もお勤め、ご苦労さま」


 できるだけ自然に声をかける。するとユリウスは固い面持ちのまま、ぺこりと頭を下げて何か言いかける。わたしは思いきって腕まくりをしてみせる。普段は露出などしない清楚なドレスだから、ちょっと大胆かもしれない。でも、軽く日常的に袖をまくっただけで、彼は目のやり場に困ったように視線を逸らす。


「すみません……袖を、戻してください」

「え? あら、わたし少し暑いなと思って」

「そういう……問題じゃ、なくて……」


 モゴモゴする彼の姿が面白い。そして妙に可愛い。

 恥ずかしがるわたしではなく、彼の方が先に真っ赤になってしまう。なんだろう、この胸をくすぐる感覚は。自分が悪戯好きな性格だとは思っていなかったけれど、彼の照れ顔を見られるなら意外と悪くない。そんな風に感じてしまう。


 結局、彼は書類を慌ただしくまとめると、早足でその場を離れてしまう。わたしは残された水桶を見つめ、思わず吹き出す。こうしてあからさまに逃げられると逆に燃えるというか、“どうしたらもう少しだけ近づけるのか”を考えてしまうのだ。



 その夜、わたしはバルコニーで夜風に当たりながら、一人で考えごとをしていた。

 遠くでは波止場の方から、海鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。潮の匂いと、まばらにきらめく町の灯火が幻想的に混じり合っている。つい数日前まで公爵令嬢として王太子の婚約者をやっていた身が、こうして外の世界で新しい一歩を踏み出していると思うと、不思議な気分になる。


「なんだか、楽しいわ。こんなにドキドキしたり焦ったりするなんて初めて」


 声に出すと、気持ちがさらに明確になる。ユリウスのことを考えるたび、心が熱くなるし、会話が成立しなくて落ち込むこともあるけれど、それでも「わたしが本気で好きになれる人がいる」っていう事実だけで救われる想いがある。


「好きになってよかった」


 わたしはそう呟いて、小さく笑った。

 恋を知らずに二十年近く生きてきたのに、いざ相手ができるとこんなにも世界が変わる。空気まで違って感じる。おまけに彼は簡単に心を開かない。だからこそ、楽しいのだ。


 ふと背後で足音がしたような気がする。誰かがこちらを見ているような……。

 でも確認しようと思った瞬間には、すうっと遠ざかるように静かになってしまった。風が吹いただけかもしれない。そう思って再び視線を夜空に向ける。


 翌朝、朝食の席でユリウスの姿を見ると、何だか様子が少し違って感じられた。彼がチラリとこちらに視線を寄越すのだ。あまりに短い一瞬だけれど、今までなら絶対あり得なかった。

 「あ、今目が合った!」とセシリアが低い声でささやき、まるで目撃証言を取ったかのように興奮している。


「ねえ、さっきこっちを見てくれたわよね」

「見てました。お嬢様の方から話しかけたわけじゃないのに、むこうから見てました」


 些細なことだけれど、わたしは嬉しくなる。気づけばニコニコしてしまい、セシリアが「小さな戦果です」とからかう。ほんの1秒か2秒のことでも、わたしにとっては大きな前進だ。

 彼が“こちらに目を向ける”行為をしてくれた、それが妙に胸をじんわりとさせる。


「彼、やっぱり少しずつ心を開いてるのかしら」

「さあ、どうなんでしょう。でも、お嬢様が積極的に働きかけてるから、ちょっとずつ変化してる気はします」


 セシリアが微笑む。わたしも嬉しさを噛みしめながら朝食を続ける。だが、その穏やかな朝を破るように、外から不穏な声が聞こえてきた。どうやら王都でユリウスに関する噂が再燃しているらしい。「女性を絡めた不祥事の当事者だ」などと根も葉もない中傷が広がっているという話だ。セシリアが手早く報告してくれて、わたしは思わず眉をひそめる。


「くだらないデマね。何が目的でそんな噂を流しているのかしら」

「お嬢様に心当たりは……? 例えば、王太子あたりが嫌がらせをしているとか」

「正直、可能性はあると思う。わたしを絡めてユリウスを貶めようとしているのかも」


 わたしが怒り混じりに言うと、セシリアも真剣な顔をする。王太子派の貴族が、ユリウスの存在をよく思っていないというのは考えられる話だ。

 そんなの許せない。彼の評判を傷つけるような噂を黙って見過ごすなんて絶対出来ない。


 そんな考えを抱えたまま昼ごろに彼の姿を見つけ、声をかけようとすると、ユリウスは何かを察したように首を振る。


「……あまり、わたしに関わらない方がいい」


 その一言は、わたしの心をざくりと刺す。彼はわたしに対してどんな想いがあろうと、噂や陰謀から守るために、敢えて距離を置こうとしているのだろうか。

 彼の表情には諦念に似たものが浮かんでいる。でも、だからこそわたしは思わず声を強めた。


「そんなこと言わないで。わたくしは……あなたに関わらずにいられないの。もし傷つけられそうになっているのを見過ごすとか、できるわけないじゃない」


 ユリウスは驚いた顔をするが、すぐに沈んだ瞳で伏し目になる。わたしはその横顔を見つめながら、はっきりと決意した思いを口にする。


「わたしはあなたの傍にいます。補佐官としても、そうでなくても。わたしは、あなたの力になりたいの」


 その言葉を聞いて、彼はかすかに息を呑む。なぜそんなにまで必死なのか、という戸惑いが読み取れる。ぎこちなく視線をさまよわせて一瞬だけ視線を上げ、何かを言いかける。けれど声にならないまま、唇をきゅっと引き結んだ。

 わたしはそんな彼に、にっこりと笑ってみせる。

 こういうとき、彼は決まって言葉をなくす。だけど、構わない。少しずつでも、わたしたちの距離が近づくと信じているのだから。


「さあ、次の用事に向かいましょう。あなたの背中を守るのが、わたしの役目ですから」


 わたしが穏やかな調子で言うと、ユリウスは消え入りそうな声で「……勝手ですね」と呟く。そんな言葉でさえ、わたしの胸には優しい余韻を残す。わたしはまっすぐ彼を見返しながら、自分の心をよりいっそう強くする。


 ――必ず守り抜いてみせる。わたしの想いも、あなたの名誉も。

 それがわたしの“恋の外交任務”なのだから。


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