第四話 小さな広場
路地裏の曲がりくねった道の先に、ニナの姿は見えなくなった。
「待って!」とシアは叫んだ。
ニナが路地の奥で振り返った。シアに気づいたらしく、立ち止まっている。
古い建物に挟まれた路地は、両手を広げられる程の幅しかない。夏の日差しは建物に遮られ、路地までは届いていなかった。
シアが追いつくと、ふたたびニナは歩き出した。
「あのね、ニナ」
とシアは後ろから話しかけた。
「あなたに会いたいって人がいるの」
「だれ?」
「ヴィヨルンドっていう人。〈フリュネの誘惑〉に住んでいるの」
「ふーん」
「次、〈フリュネの誘惑〉に来るのはいつ?」
「今夜」
「あら、そうなの」
「うん、イオアン様に報告しなくっちゃ」
シアは拍子抜けしたが、かといってヴィヨルンドが、すぐにシアと会えるわけではなもなかった。夕方からずっと客につきっきりの〈貴婦人〉は、朝になって客が帰るまでは自由にはなれないのだ。
売れっ子のヴィヨルンドが、ニナと夜に会うのは、たぶん無理だろう。
そうなると昼間に会うしかないが、今度はニナの予定と合うかどうか? 昼間のニナは、別の場所で物乞いをしている。もしかしたら、イオアンに頼まれた仕事をしているかもしれないし――。
そんなことを考えながら、ニナの後ろを歩いていると、路地が突然、小さな広場のようなところに出た。眩しい日差しに、シアは目を細める。
建物に囲まれた広場の中央には井戸があり、そこでしゃがみ込んだ女たちが、洗濯をしたり野菜を洗いながらお喋りをしている。
そのまわりでは、子供たちがはしゃぎ回っていた。動物の模様を、顔から裸の上半身にまで塗っている。
日陰では、萎びた老人たちが並べた椅子に座り、ひそひそと何か話している。
小さな神殿がひとつあった。
広場に面した入口には、冥界の王の人形が置かれ、そのまわりに、たくさんの蝋燭がともり、向日葵や食べ物、酒などが供えられている。
ニナは広場突っ切り、シアもその後を続いた。
女たちはお喋りをやめ、子供たちも動きを止めて、目の前を通り過ぎるニナとシアを眺めた。それは一瞬のことで、すぐに女たちはお喋りを再開し、子供たちは甲高い叫び声をあげて遊び始めたが、なんだかシアは恥ずかしかった。
女たちは、このあたりで暮らしている貧しい職人や商人の妻や娘だろう。慎ましい暮らしをしている彼女たちは、シアが〈フリュネの誘惑〉から与えられた着古したドレスさえ、高価すぎて手に入らない。
だが、どちらにしろ、彼女たちが着ることはないだろう――。
〈貴婦人〉のほど派手ではないにしても、〈侍女〉のドレスでさえ、透けるように薄い絹の生地で、体の線を強調し、肌の露出が多い。
普通の妻や娘が、こんな際どいドレスを着たりしたら、お前は娼婦にでもなるつもりかと、夫や父親に殴られるのがおちだ。
〈フリュネの誘惑〉で暮らして三か月――。
なんとかシアは、その生活にも慣れ、華やかで奇妙な夜の世界を、当たり前に感じるようになっていた。
だが決して、当たり前ではないのだ。
普通の人たちは、日の出とともに働きはじめ、日が沈めば疲れきってベッドに入り、ぐっすりと眠る。
〈フリュネの誘惑〉のように、日が沈むとともに騒ぎはじめ、汗だくになるのはベッド上だけで、朝になると客を送り出し、ぐったりと嘘の世界を終える――なんてことはないのだ。
近頃は、外に出かけることも減っていたから、〈フリュネの誘惑〉以外の世界があることを、シアはすっかり忘れていた。
夏の日差しを浴びた広場を突っ切り、ふたたび薄暗い路地に入ったとき、シアはホッとした。あの女たちに引け目を感じ、もしかしたら、夜に生きる吸血鬼もこんな気分になるのかしら――と思ったりした。
だがいずれ、シアも決断しないといけない。
〈貴婦人〉を目指すのか、それとも〈フリュネの誘惑〉を離れるのかを――。
予想以上に、夜の世界に馴染めていることに自分でも驚いているが、それと、〈貴婦人〉となって客をとり、見知らぬ男たち体を許すのは、ぜんぜん別の話だ。望んでもいないし、できるとも思えない。
けれど――、
いまは、その道しか見えない。
それ以外に選択肢がない――。
それが、現実だった。
しかし、泣き言を言っても始まらない。
他の〈侍女〉たちも、何かしら同じような重荷を背負っていた。たぶん華やかに見える〈貴婦人〉だってそうなのだろう――。
やっぱり、この運命を引き受けるしかないのかしら?
シアは暗い気分で歩き続けた。
誰か、倒れそうな私を支えてくれる人が欲しい――。
路地が水路に突き当った。
視界が開ける。
石組みで覆われた、小さな運河のような感じだ。
ぼんやりしていたシアが驚いて下を覗き込むと、それほど広くはない川面に、荷物を載せた小舟がいくつも浮かんでいる。
下の水路へは、狭い階段で降りれるようになっており、ニナが足をかけていた。
「どこへ行くの?」とシア呼び止めた。
何となくシアは、ニナは〈フリュネの誘惑〉へ向かっているのだろうと考えて、いままで後ろをついてきたのだが、そんなことはないのだ。
ニナには、ニナの用事がある。
ちょっと考えれば、分かることだった。
階段を降りかけたニナが、シアを見上げた。
「みんなと会うの」
「みんな?」
「ほら、シアと初めて会ったところ」
とニナが微笑んだ。
シアはハッとした。
数か月前に訪れた地下の礼拝堂での、異様な儀式を思い出したのだ。
不安が胸に渦巻く。
「また、あそこに行くの?」
「ううん」
とニナが首を振った。
「別の場所よ。見つかるといけないから。でも、やることは同じ!」
ニナはそう叫ぶと、階段をたたっと駆け足で降りていった。シアは上から、たニナが水路の岸辺を歩いていくのを見守った。
シアは振り返り、まわりを見回した。
運河沿いに寂れた建物が並んでいる。知らない場所で、イグマスのどこなのかも分からない。人に道を訊けば、いずれ〈フリュネの誘惑〉に帰ることはできるとは思うけれど――。
「待って、ニナ!」
シアも階段を降りていった。




