第十話 美しい祈祷書
タタリオン公爵家の十六代目の当主となるイシュタルティヌスのことを、イオアンはよく知っていた。今年、三十一歳になるはずである。
学問や芸術に対する関心が、ときには公務に支障をきたすほどに強く、イオアンがタタリオン家の大図書館の館長に就任できたのも、このイシュタル――数少ない高位の者だけがそう呼べる――の力によるところが大きかった。
イシュタルは新しいもの、珍しいものが大好きな、子供のようなところがある人物で、その公爵が、わざわざルラル教の布教を認めないとすれば、何か強い理由があるのではないかと、イオアンには思われた。
「不許可の理由は?」イオアンが質問した。
「それが――」
アルメディオンは途方に暮れた顔をした。
「我々には、まったく分からないのです。ルラル教の教義についても、公爵様はとくに否定的なことは仰いませんでした。むしろ、過去に説明してきた他のどの領主たちよりも、よく理解されてました」
「イシュタル様は並みの学者より、様々なことに通じておられますからね」
とイオアンは頷いた。
「しかし、許可は下りなかった?」
「ええ」
アルメディオンは溜息をついた。
「はっきりとお願いしたのですが、公爵様は明確な返事をされないまま、謁見は時間切れになってしまいました――」
学問好きの公爵様は、どんなに馬鹿げた考えや奇妙な教えでも否定せず、まずは試してみようとする好奇心旺盛な人物だ。その公爵様が認めなかったとなると、感情的、感覚的に受け入れられないものが何かあったのではないか?
イオアンは首を捻った。
冷静で現実的な公妃様とは違い、公爵様は感情的になるときがあるからな――。
「何か気に障るようなことを、口にしたのでは?」
「かも、しれません――」
アルメディオンは同意した。
「まだまだ我々は帝国の慣習には不慣れですから――それは否定しません。ただ、その原因が分からないと改めようもなく困っています。そこも含めて、公妃様から何か助言を頂ければよいのですが――」
「うーん」
とイオアンは腕を組んだ。
「そこまで公妃様にお願いするのは、ちょっと厚かましいかと――」
「私からも、お願いしたい」
と会話に割って入ってきたアグイレロが、一方的にまくし立てた。
「イシュタルティヌス様が南大陸への遠征で不在である今、公妃であるサディア様が、タタリオン家の臨時の当主であるわけですな? だとしたら、正式に布教の許可を出す権限をお持ちのはずでは?」
「それはどうですかね――」
イオアンは疑わしいと思った。
「拝謁できたとしても、公妃様の一存で、布教の許可は出さないと思いますよ」
「話を聞いて頂けるだけでも良いのです」
アグイレロが食い下がった。
「ギルドたちは、ルラル教の布教が許されていないことを盾に、我々の取引を禁じております。布教の許可さえ下りれば、我々は錫杖をはじめ、様々な武器や物資を提供できる――そこを説明したい」
「まずは、お前の謁見に同行するだけでよいのだ」
ナイト伯爵も話に加わってきた。
「もし、公妃様が興味をお持ちにならなければ、それ以上の無理強いはしない。だが、もし許可が下りれば、大勢のルラル教徒がお前に感謝するだろうし、セウ家としても利することがあるはずだ」
恩義のあるナイト伯爵にこうまで言われると、イオアンとしても断りづらかった。
すると、いままで成り行きを見守っていたトルレシオン師が、前へ進み出た。
「ルラル教の祈祷書を、お贈りいたしましょう」
「祈祷書、ですか?」
「公妃様も、学問や芸術に造詣が深い方だと聞いております」
「その通りです」
「字を読めない信者のために作られた、たいへん美しい挿絵入りの祈祷書を一冊所持しております。それを公妃様にお渡しするのはいかがでしょう?」
「その祈祷書を譲って頂けるのですか」
「それで謁見して頂けるのなら、〈光の王〉もお喜びになるでしょう」
師が柔和な笑みを浮かべた。
中庭にいる全員が、イオアンの返事を待っている。
これが晩餐会の前なら、即座に断っていただろう。
あのときは、地下牢のダマリやカルハースたちのことで頭がいっぱいで、そんな気持ちの余裕はなかった。
だが今夜、アルケタから暁の盗賊団を捕まえられそうだと聞いたイオアンは、罪の意識が軽くなったせいか寛容な気分になっていた。明日の朝には、すべてが解決しているのかもしれないのだから――。
「――分かりました」
イオアンは溜息をついた。
「献本のためという形なら、何とか許されるかもしれません」
おお、という声とともに、アルメディオンや伯爵が喜び合った。なぜか、ドルシアたちまでが嬉しそうに手を叩いている。
「ただし――」
とイオアンは釘を刺した。
「一緒に謁見できるのはトルレシオン師一人だけです。あまり大事にしたくはありません。北宮の場所はご存じですか?」
「存じております」
師が恭しく頭を下げた。
「去年、公爵様には拝謁しましたから」
「では明日の朝、北宮の庭園の前で待ち合わせにしましょう。公妃様のところへは、私が案内します」




