第二話 アトリウム
オークの背中を追って狭い通路を抜けると、死神は屋根がない中庭に出た。中庭を囲むように、石のベンチが三方に置いてあり、そこでは、上品な服を着た様々な種族の客と、様々な種族の裸の女たちが抱き合っている。
中庭に乱入してきた、薄汚い恰好の少年を見ると、驚いた彼らは、愛撫する動きを止めた。さらには、興奮したオークの用心棒と、髑髏の仮面を被った死神が飛び込んできたので、女たちが悲鳴をあげ、何人かの男は、女の体に隠れようとした。
オークに、後ろから羽交い絞めにされ、
「放せよ!」
と少年はもがいた。
そのとき中庭には、男と抱き合う娼婦(ここでは〈貴婦人〉と呼ばれる)のほかに、地味なドレスを着て、目だけを覆う蝶のような仮面をした使用人(〈侍女〉と呼ばれる)たちも働いていた。
一人の〈侍女〉が、怯える女たちの中から進み出て、毅然とした様子で、
「どうかしましたか、オウルペさん」
とオークに話しかけた。
「その、イオア……」とオークは口ごもった。
滞在する、高貴な方の名前を口にするには、ここは相応しい状況ではないと、躊躇ったのである。
待っていた〈侍女〉は、オークが黙っているので、死神に向き直った。
「ようこそいらっしゃいました。本日のお約束は?」
「約束?」死神が言った。「私は約束などしない」
「申し訳ありませんが――」
〈侍女〉の声は、微かに震えている。
「ここの浴場に入れるのは、ご紹介があった方のみと、させて頂いております」
「風呂などどうでもよい。私はイオアン君に会いに来たのだ」
「イオアン様――!」
「ここにいると聞いたぞ」
「あの、イオアン様にどのような――」
「あら、ようこそ!」と明るい声がした。
中庭の奥から、黒いドレスをまとった女が現れた。美しい顔立ちだが、化粧のせいで二十代にも、四十代にも見える。
「〈お母様〉!」
ほっとしたように〈侍女〉が叫んだ。
「イオアン様にお会いになりたいという方が――」
〈お母様〉というのは、娼館の女主人の呼び名である。女主人は微かに頷くと、
「では、お約束はございまして?」
と死神に、優雅な微笑みを向けた。
「ない」
「それは、残念ですわ」
女主人は、大袈裟に溜息をつくと、
「イオアン様はただいま、大変お忙しいので、お約束のある方しか、お会いになれませんの」
と死神の耳元で囁いた。
びくっと体を強張らせた死神は、気を静めるように大きく深呼吸した。この「公衆浴場」に流れる、もわっと暖かく湿っぽい空気が、鼻孔をくすぐる。それに何らかの興奮性のある芳香も――。
気を取り直した死神が告げた。
「トリステロの者が、訪ねにきたと伝えてくれ」
「どのような方であろうと――」
女主人は笑みを浮かべたまま、はっきり断った。
「例外はありませんのよ。今日のところは、まず、面会のお約束をなさって、一週間後にでも日を改めて、こちらへいらして下さらない?」
「一週間後だと?」
死神が訊き返した。
「そんなに待てない。今日だ、いま会いたい!」
「そんなあ」
女主人は甘えたような声を出した。
「子供のような駄々をこねられても困りますわ。イオアン様が、どのような立場のお方か、お分かりでしょう?」
「それは――承知している」
「だとしたら、重要な問題を抱えているイオアン様とお会いするのが、とても難しいことはお分かりになりますわね? そうねえ――」
と女主人は唇に手をあてた。
「都市参事会が終わったら、お会い頂けるかも」
「それは、何日後だ」
「五日後、かしら?」
「話にならん! それでは〈死者の日〉の祭りが終ってしまうではないか」
「あら、終わってからのほうが良くてよ」
と女主人が提案した。
「それまでは〈フリュネの誘惑〉も混みますし、終わってからのほうが、落ち着いて話せますから」
「駄目だ、とにかく今夜だ!」
と叫ぶと、死神は中庭を見回した。
ベンチの座って、聞き耳を立てていた客や〈貴婦人〉が、さっと顔を背ける。
「会ってくれるまでは、私は帰らんぞ」
「それは、困りましたわね」
女主人は微笑を浮かべたが、口調は冷たかった。
「うちに限らず、ここの通りの浴場はすべて、総督府の認可を得てますの。そこで問題を起こすとなれば、しかるべきところに通報しますわよ」
「問題を起こすつもりは、ない」
死神は、ややたじろいだ表情を見せると、声を落として告げた。
「私は、イオアン君の命を助けたことがある」
「イオアン様の? 本当に?」
と女主人が、疑いの色を見せると、
「発作で倒れたときだ」
と死神は答えた。
この死神の発言に、女主人の表情が変わった。考え込むと、最終的に「分かりました」と頷いた。
「その前に――」
と女主人が、さらに死神に体を寄せた。
「腰にぶら下げている、その危ないものをお渡しになって頂けます? ここは皆さんが、裸のお付き合いをなさる場所ですから――」
「断る」
死神はすっと体を引いた。
「短剣を預けるのは、イオアン様に会ってからだ」
女主人が伸ばした手は宙を掴み、強張った笑みを浮かべた。
「では、その物騒――いえ、素敵な仮面だけでもお外しになられたら? ここでは暑いでしょう」
すると、隣で聞いていた〈侍女〉が、
「首なし騎士団の方たちだと思います」
と女主人に囁いた。
「首なし騎士団ですって?」女主人が、ぎょっとした様子で訊き返す。
「ええ」
〈侍女〉が頷く。
「首なし騎士団の方は、自分たちのことをトリステロと名乗ります。ですが、見た目ほど危険な人たちではありません」
しばらく考えていた女主人は、
「――いいでしょう」
と頷くと、後ろを振り向いた。
「この人たちのことを、五階まで伝えてくれる娘はいるかしら?」
と呼びかけると、女たちは怯えたように、さっと下を向いた。
「この女性にお願いしたい」死神が〈侍女〉へ顔を向けた。「大事な話なのだ」
女主人にも見つめられると、〈侍女〉は首を振った。
「私、三階より上は知りません」
「大丈夫よ、シア」
と女主人は、安心させるように〈侍女〉の頬に触れると、振り返って叫んだ。
「他の皆さんは、大浴場へ移って頂戴」
〈貴婦人〉や客たちは、ほっとしたように、ぞろぞろと中庭から出ていった。
「その方は?」
女主人が、まだオークに抱え込まれている少年へ顔を向けた。
「私の連れだ」死神が答えた。
「では、放してあげて、オウルペ」
オークから解放された少年は、きつく締められた腕をさすった。
「それから、これから入るお客様には、別の入口から入るように伝えて」
女主人に命じられ、オークが出ていった。
これで、中庭にいるのは、女主人、〈侍女〉、死神、少年だけになった。不安そうに二の腕を掴んでいる〈侍女〉に、女主人が説明した。
「五階の通路の一番奥に、〈谷の妖精の間〉があるの。ヴィヨルンドの部屋よ。部屋の扉に、茸が生えているからすぐに分かるわ。そこにイオアン様がいます。トリステロの方がいらっしゃったと伝えて」
頷いた〈侍女〉は、小走りで中庭から出ていった。