第一話 死神と少年
イグマスの町の通りを、死神と少年が歩いている。
いや、男は死神ではなかった。
禍々しい髑髏の仮面を被り、黒ずくめの服を着ているが、誰かの命を刈りる大鎌は持っていない。死神ではなく、ただの死神のような男だった。
隣を歩く小柄な少年は、十五歳ぐらいか。
巻き毛の黒髪で、肌は浅黒い。
少女のように可愛い顔だが、目の下に隈をつくり、その表情はどこか暗い。何かに取り憑かれているかのような目付きで、通りを眺めていた。
娼婦たちの声で喧しい通りを、薄気味悪い二人組は歩き続けた。
死神が、ある女に声をかけた。
「〈フリュネの誘惑〉という浴場を、探しているのだが――」
言葉遣いこそ慇懃だが、その声には差し迫った響きがある。
毛皮商の首に手をかけ、いちゃいちゃしていた若い女が振り向くと、すぐ目の前に不気味な髑髏が見えた。悲鳴を上げた女は男を突き飛ばし、通りの人混みのなかに消えていった。
死神は困ったように、女の後姿を眺めた。
気を取り直し、尻もちをついている毛皮商へ、顔を向けた。
だが、この男も、慌てて立ち上がると、どこかへ走り去ってしまう。
顔を上げた死神がまわりを見回すと、通りに立っている娼婦や客たちも、怯えた顔をして、じりじりと後ずさった。
死神は、隣の少年に訊いた。
「本当に、その浴場はここにあるのか」
少年が無言で頷く。
「そうか」死神は小さく溜息をつく。「では、もう少し探してみよう」
再び、二人は通りを歩きだした。
二人が歩いているのは、イグマスという大きな都市の、〈浴場通り〉と呼ばれる大通りである。
延長が一キロほどある通りには、いわゆる公衆浴場が、びっしりと立ち並んでいる。これらの浴場は、男女が裸になり清潔を保つ場所――と総督府には認められていたが、実際には純然たる娼館で、浴場の二階、三階にある個室では、いかがわしい淫らな行為が、マッサージと称して夜な夜な行われていた。
季節は夏、時間は宵の口で、空には丸い月がかかっている。夜でも――いや、夜になるといっそう、イグマスの〈浴場通り〉は賑やかだった。
通りには篝火が焚かれ、豪華に飾り立てられた浴場を照らし出している。白粉の匂いをぷんぷんさせた娼婦たちは、瑞々しい肌を露出させた派手なドレスを着て、通りを行く客たちに笑いかける。浴場の陰ではエルフの美少年が、年増の女とひそひそと値段の交渉をしている。
屋台からは、揚げ物の脂ぎった臭いが漂い、吟遊詩人がリュートを奏でながら、竜殺しの詠歌を酔っ払いに歌っていた。
この暑苦しくて騒がしい〈浴場通り〉を、死神と少年はきょろきょろと、左右の浴場の名前を確かめながら進んだ。通りの者たちは二人を見ると、一瞬ぎょっとした顔をするが、すぐに顔を背け、夢と欲望の世界に戻ってしまう。
依然として、目指す浴場は見つからない。
二人は知らなかったのだが、〈浴場通り〉は概ね、通りの南に行くほど浴場の格が低く、北に行くほど格が上がる。探している浴場を見つけたのは、通りの最北端、もう別の通りにぶつかるところだった。
「ここか――」
二人は、大理石の宮殿のような建物を見上げた。
ポーチの上には〈フリュネの誘惑〉と、浴場の名前が刻みこまれている。
五階建てか、六階建てぐらいの高さがある。
正面の壁一面に、くねくねと艶めかしいポーズをとる、愛の女神像や妖精たちのレリーフがびっしりと彫られており、むちむちとした豊満な肉体を、これでもかと言わんばかりに見せつけていた。
「けしからんな」死神が口にした。
太い柱が四本立っているポーチは、まるで宮殿のような印象だが、それに反して入口の扉は小さく、どこか秘密の扉めいた印象を与えていた。そのそばに、用心棒らしきオークが、暇そうに壁にもたれていた。ただ、視線だけはちらちらと、死神と少年のほうへ向けている。
「入んないのかよ」少年が急かした。
「うむ」
死神は、女神たちの裸体から目を引き剝がすと、ポーチへ一歩踏み出した。すると、用心棒のオークも壁から離れ、入口の扉を塞ぐように立った。
オークは、宮殿のような建物に合わせているのか、手の込んだ上品な服を着ているが、まったく似合っていない。右手の重そうな棍棒を振っては、左手の掌に当て、小気味よい音を立てている。威嚇してるつもりなのかもしれない。
死神がポーチの石段に足をかけると、オークは唸り声を出した。
「何だ、お前ら」
「ここに、イオアン君はいるかね」
「イオアン様だと!?」
意表を突かれたような顔をしたオークが、しばらくしてから質問した。
「いたら、どうだって言うんだ」
「もちろん、会いたいのだが」
「約束は?」
「いや。会うのもひと月ぶりだからな」
「じゃあ、駄目だ。約束して出直せ」
「彼と約束できないから、こうして直接、ここまで訪ねに来たんじゃないか」
オークは考え込んでいる。
「やっぱり駄目だな。迷惑なんだよ。お前みたいな奴らに来られると」
オークは胡散臭げに、死神の仮面を見ると、
「だいたい何だそれは。〈死者の日〉の祭りは明日からだぞ。お前は日付も分からない馬鹿なのか?」
と言って嗤った。
「〈死者の日〉など関係ない」
ムッとした死神が、ポーチに上がった。
「愚か者は君のほうだ。急いでいる。馬鹿の相手などしている時間はない」
「てめえ!」
オークが振りかざした棍棒を、死神はこともなげに躱すと、腰から抜いた短剣を、オークの太い喉元に、さっと突き付けた。
「傭兵くずれが、私に敵うとでも思っているのかね?」
死神が、後ろの少年に合図をする。
「エル――」
少年が、〈フリュネの誘惑〉の扉を開き、中に入った。
「ああ、くそ!」
と叫んだオークは、死神を押しのけて少年を追った。死神もその後に続いた。