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小鳥の囀りが聴こえる。
正面の窓を開けると、少しひんやりとした風が室内に注ぎ込み、それと共に爽やかな草の香りが鼻をかすめた。目の前には様々な花で彩られた広大な庭園が広がっている。
部屋の西側へ移動し、窓を開けて芝へ目をやると、庭師のグンテが剪定バサミを持って歩いているのが見えた。グンテは、本邸と別邸の両方の庭を管理する庭師の長であった。
グンテは、朗らかな初老の男性で、とても優しい目をしている。歳のせいもあり少し腰が曲がっているが、一度も仕事を休んだことが無いほど健康であった。
彼は、別邸へ追いやられてしまったマリアンヌをいつも気にかけていた。マリアンヌが少しでも笑って過ごせるよう、毎朝その日1番綺麗に咲いている花を一輪届けることを日課にしていた。
「ごきげんよう、グンテ。」
マリアンヌは自室から声を掛ける。グンテは、ゆっくりと上体を持ち上げマリアンヌの部屋の方を向いた。そして、マリアンヌと視線を合わせると、口元を綻ばせた。
「おはようございます、マリアンヌ様。今日は、いつもよりも早いですな。」
「小鳥が起きてって言うんですもの。」
「それはなんとまぁ、ロマンティックな話で。」
「そうでしょう?」
マリアンヌはそう言いながら手慣れた手付きでカーテンを纏めた。使用人が起こしに来ない今の時間帯に目覚めると、自身で窓を開けてカーテンを束ねることにしている。エリザベスに見つかると、カーテンを括ることは使用人のやることですと小言を言われてしまうだろう。
「ねぇ、グンテ、私もそちらへ行っても良いかしら。」
「構いませんが、朝露で芝が濡れておりますぞ。」
「大丈夫よ。」
グンテの返答を待たずに、マリアンヌは棚の裏からロープを取り出し、ベッドの脚にくくりつけた。固く縛ったことを確認すると、窓の外へロープを放り投げた。グンテは剪定バサミを腰に下げた袋の中に仕舞い、手の平を軽くシャツで拭うと、垂れてきたロープの下へと急いだ。
「マリアンヌ様、お気をつけて。」
「慣れてるもの。」
「エリザベス様が見たら卒倒してしまいますぞ。」
「そうね。」
今のマリアンヌの行動を目の当たりにした時のエリザベスの姿を想像したら、笑いが込み上げてくる。その感情を抑えて、マリアンヌはするするとロープを伝い、地上へ降りた。最後はグンテの支えもあり、安全に降り立つことができた。
地面に足をつけると、両手を広げて深く息を吸った。閉じ込められているも同然な別邸から、解放されたような清々しい気分になった。
ロープを使って外へ出ることは鏡の中の者の案である。
別邸の鍵はエリザベスが所有しており、自由に外へ出ることができない。引き篭もりだったマリアンヌの過去を知っているという鏡の中の者は、自由に外に出る手段を教えたのだった。
また本邸と別邸は、ほぼ横並びにあり、正面の庭は共有のものだった。マリアンヌは正面玄関から外に出ることをセリスに許されていない。そもそも、隠されているマリアンヌが、外に出ることを許される訳がないのだ。
マリアンヌが唯一許されている場所といえば、裏口にある裏庭だけであった。その裏口も普段は施錠されており、エリザベスが鍵を握っている。自分の意思で自由に出入りができる窓からの移動手段は、マリアンヌにとって非常に便利なものだった。
本邸と別邸の裏庭の間は樹木で仕切られており、グンテによって四角く綺麗にトピアリーされ、壁のようになっていた。無理に覗き込もうとしない限り、本邸と別邸の裏庭の様子は確認できない。
セリスとユリアンヌは、宝石やドレスにしか興味を示さず、庭園に出て花を愛でることを好まなかった。庭園を歩いているのを見かけることはほぼ無い。庭園に出る日といえば、お茶会を開いている時くらいだと聞く。
「そういえば、庭園はガーベラが見頃ね。」
「そうなんですよ。…ほら、マリアンヌ様。」
「まぁ、嬉しい。ガーベラね。」
グンテは腰に下げた袋の中から、大事そうにオレンジ色の花弁を持った花を取り出した。切り取られた茎には湿らせた布が巻かれている。マリアンヌは、花を受け取るとその花に顔を寄せた。
「まだ花が少し閉じていますが、日の当たる正面の窓のそばに置いておくとすぐに開きますよ。」
「部屋に戻ったらすぐに生けるわね。」
ガーベラを片手にマリアンヌは裏庭を散策する。朝露で濡れた芝が光っている。早朝の誰もいない戸外は静かで、鳥の声や草木が風で擦れる音が心地よい。マリアンヌはグンテから草花だけでなく、鳥や虫についての知識を聞くことが楽しみだった。
「…お父さまは、お変わりない?」
話がひと段落し、2人の間に静寂が訪れた時、マリアンヌはそうグンテに尋ねた。グンテは目を少し見開いたが、すぐにいつもの柔らかい顔つきになり、「あまり本邸に戻りませんが、お元気ですよ。」と答えた。