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暗くて湿っぽかった自室は、窓という窓が全て外され、風が吹き抜け日が差し込んでいた。誰かが掃除をしてくれたのだろうか、木屑は一つも見当たらず、机の上やベッドは綺麗に整理されている。
机には、ギルヘルムに買ってもらった羽ペンと手鏡が並べて置かれている。マリアンヌは鏡を手に取ると、そこに映る自分と目を合わせた。
「……よう。」
鏡の中の自分が、少し照れ臭そうに笑う。それを見てマリアンヌは気が抜けたようにベッドに座り込んだ。
「王宮ではどうだった?」
「お父様もユリアンヌ達も、罪に問われて…重い刑罰を受けることになったわ。」
「そっか…。ザマァみろって感じだけどな。」
「ははは……。」
「どうした?」
鏡の中の者は、力無く笑うマリアンヌをじっと見据える。
「私、ジュール国王女に戻るの。だからこのビスタルク国とは少しお別れ。」
「そうなのか。まぁ、そうするだろうなとは思った。」
「なんで分かるの?」
「うーん…勘ってやつ?」
「なにそれ。」
二人は笑い合う。そのやりとりがひどく懐かしく感じられた。
「ギルヘルムとはどうなったんだよ?」
「私を迎えにきてくれるって言ってるわ。ギード…クレマンは、私とギルヘルム様とで結婚するよう勧めてくるの。」
「おう!良かったじゃねぇか。」
「…ふふ。」
「幸せそうだな?」
「勿論。これも全部鏡さんのおかげね。」
「お前の努力だよ。」
マリアンヌはそこで違和感に気づいた。鏡の中の自分が少し霞んでいるように見える。疲れているからかと思い、目をこするが変わらない。
「ねぇ、なんか変に映ってるわ…。」
マリアンヌはベッドのシーツで鏡の表面を擦る。汚れているのかと思ったが、そうではない。
「あぁ…そっか。もう俺の役目は終わったってことなんだな。」
「どういうこと?」
「俺が消えるんだ。俺の悲願が達成できたからな。」
「悲願って…?」
「お前を幸せにすることだよ。」
鏡の中の者は手を伸ばす。マリアンヌに触れることはできないが、その手はマリアンヌの頬を撫でているようだった。
「そんなっ、急すぎる!ねぇ、ずっと一緒にいて!鏡さんがいないと何も出来ない。あなたが一緒じゃないと幸せになれないわ!」
「お前はもう十分強いし、頼れる奴らが沢山いるだろう。」
「そんなこと言わないで…。」
喉に詰まる声を必死に絞り出して、マリアンヌは懇願する。鏡の中の者は困ったように眉を下げて笑った。
「…大丈夫だ。すぐ近くにいるから。」
「どういう意味?わかるように教えてよ…。」
「そのうちわかる。」
鏡に映る自分が薄くなっていく。
「……本当にお別れなのね。」
「あぁ。」
マリアンヌと鏡の中の者は、そっと手のひらを合わせた。実際に手を繋ぐことは出来ないが、確かな温もりを感じられた。
「鏡さん…幸せにしてくれて、ありがとう。…大好きよ。」
「おう。
…元気でな。」
鏡の中の者が、ふっと笑ったかと思うと、鏡はプツンと音を立てて真っ暗になった。
再び自分の顔が映る。
「…鏡さん?」
呼びかけても自分と同じ動きしかしない。
「ねぇ?鏡さんてば。」
呼びかけに答えない。鏡の中の自分は、外にいる自分と全く変わらない。がさつで品の無い動きをする自分にはもう会えない。
鼻の奥がツンと熱くなる。
「答えてよ…。」
マリアンヌは手鏡を胸に抱きしめ、声を押し殺して泣いた。




