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鏡の中の者とは、マリアンヌが別邸に移された時に出会った。
本邸から移動する際に、自身の私物は全てユリアンヌのものとなった。不必要なものは処分された。唯一持ち出せたものは、手鏡だけだった。この手鏡は、幼き頃のセラフィーヌが使っていたもので、マリアンヌ誕生祝いとしてモーガンから送られたものである。
その他のセラフィーヌの私物は持ち出しを禁止されていた。それはセリスの指示では無かった。セラフィーヌの部屋は、セラフィーヌが死んで以来、マルクスによって鍵が掛けられおり、誰も立ち入ることは出来ないのだ。
別邸には、数名の使用人とマリアンヌが住むことになった。移り住んだ当初、全てを奪われたマリアンヌは、使用人とも打ち解けようとせず自室に篭った。姿も声も知らない母のぬくもりを求め、静かに泣いて過ごした。
幾日か過ぎた頃、部屋の前を通る使用人達の声が耳に入った。
「本邸ではセリス様はユリアンヌ様と好き放題してるらしいわよ。」
「やだー。別邸で良かった。お給金一緒だしさ。」
「しっ、声大きいわよ。でも本当マリアンヌ様はお可哀想。」
「お窶れになって…。セラフィーヌ様の生写しかのように美しいのに…。」
セラフィーヌの生写し。
マリアンヌにはその言葉が強く胸に残った。自分の顔立ちは母に似ているのか…そう思うと確かめずにはいられなかった。
台の上に無造作に置かれた手鏡をとると、恐る恐る鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
「やっと見たな。」
そこに映るのは、目の下に少しクマができている幼いマリアンヌであったが、それが自由に動き出したのである。
「ひっ!」
マリアンヌは声にならない悲鳴をあげて、手鏡を床へ落とした。乾いた音が部屋に響いた。
「あ、、、」
すぐに自分のしてしまった事を後悔し、鏡が割れていないか拾って確かめる。無事なようだ。ホッと胸を撫で下ろし、覚悟を決めてもう一度覗き込んでみる。手鏡を持つ手は震えるが、声を振り絞って鏡の自分へ問いかける。
「さっき、喋った…?」
少しの沈黙の後、
「驚かせてごめん。」
と申し訳なさそうな顔をして、鏡の中のマリアンヌが頭をかいたのだった。
それからマリアンヌは、鏡の中の者と長い時間話をした。こんなに人と長く話したのは、生まれて初めてなのではないかと感じた。なんでも、鏡の中の者はマリアンヌの運命を変えるべく、鏡に宿っているという。鏡の中の者は、マリアンヌに様々なアドバイスを送った。
まず、いつ社交界に出てもいいように、教養やマナーを身につける事。
そこで、マリアンヌは本邸での教育係であったエリザベスを別邸に呼んだ。エリザベスは、教養を身につける気がないユリアンヌに煙たがられ、ありとあらゆる難癖をつけられて解雇寸前だった。エリザベスは、再び勤勉なマリアンヌに教えられる事を心から喜んだ。
次に、おどおどしている性格を変えるように言われた。これはまた難しかった。しかし、毎日言葉遣いの荒い鏡の中の自分と話していると、物怖じせずなんでも言える気がした。次第にマリアンヌは鏡だけでなく、使用人にも積極的に話しかけるようになった。別邸は、会話で溢れ、明るさが芽生えた。
長い歳月が経ち、マリアンヌは姿形も美しく完璧な公爵令嬢に仕上がった。その完璧さの中に、確かに芯の強さも持っていた。