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ハイケンから離れると、農道が真っ直ぐ延びている田園に出る。大きな月がそこを照らし、闇に包まれることはなかった。ハイケン通いを続けていくうちにその暗さにも慣れ、マリアンヌは恐怖など微塵も感じずに歩き進めることができた。獣の鳴き声など一度も聞いたことはなく、安全な場所であることは確かだった。
マリアンヌは、分かれ道に差し掛かると、また手鏡を取り出した。ここからはいつも手鏡と会話をしながら別邸まで帰っている。
「お疲れ様。」
「悪い顔をしてるわね。」
鏡の中の者は、にやついた顔をこちらへ向けた。マリアンヌとジークハルトのやりとりが愉快でたまらないといった様子だ。
「マリアンヌ免疫ないからなぁ。」
「どういう意味?」
「いーや、なんでも。ま、悪い男には気をつけるこった。」
「ジークは悪い男ではないわ。」
「どうだか。」
マリアンヌは、鏡を人差し指で小突いた。
ジークハルトの顔が、声が、頭の中で何度も反芻する。また会いたいとさえ思っていた。ギードの他に、親しくなれそうな者が現れたことが素直に嬉しかった。
田園の先にある林を抜けるとそこは、重々しい雰囲気を放つ建物の裏側だ。頑丈な柵に囲まれたその建物は、紛れもなくルードリッツ家の立派な邸であった。周囲を確認した後、裏庭の芝に鞄を投げ入れ、音を立てないよう柵をよじ登る。
ここに入ると自分はシルヴィアからマリアンヌに戻らなくてはならない。芝に降り立つとマリアンヌは何とも言えない哀しい気持ちになるのだった。鞄を拾い上げ、自室の方へと周囲を警戒しながら歩か出した。
西側の窓からはロープが垂れ下がっている。夜風に揺られて微かに揺れているが異常は見られない。ロープには何個も結び目がついていて、登りやすいよう工夫が凝らされている。マリアンヌはロープを手に取ると、あっという間に自室へと登っていった。




