第一章 8.『山崎時雨』
草が地に落ちる音、虫の鳴く声、動物たちが腹を満たす音……そんな心地の良い自然の音がさざめく森の中で、
ゆらゆら落ちる木の葉を、木で休む虫たちを、草をむしる小動物を、オレンジ色の光が物凄い速さで横切っていた。
「急がないと……!!」
グロータスから抜け出し、『風操』の応用で身体が持つ速度を保ち、尚且つ極限までに早くなり風を切るオレンジの光──ウリエルは、グロータスで起こった出来事を回想していた。
ボロボロの家の陰に隠れ、髪色を変え黒のマント変装したルギウスを見つけたのだ。体格と声、そして隣に仮面の男がいた事によりすぐに分かった。
そんな時だ。2人はコソコソと会話をし、その内容はすぐにウリエルらを襲った人物について話しているのだと悟る。
『ダンブレイズ・ヴェイプス。奴の目的はレインを殺すことだ』
『あの赤毛、雇われの身と嘯いて僕達に便乗したのはその為だったのか』
『……俺から話しかけたんだけどな。利用しやすい馬鹿な若者だったが、今となっては別にいい。俺の目的は転生者を集め、魔剣を手に入れる事だ。捨ておいて問題はないだろう──
(転生者? 魔剣……? なんのことだろう。でもまって、ヴェイプスって確か)
ライジェルと顔を見合せ、心当たりのある2人は恐ろしい事実に気がついた。
「……ヴェイプス族」
ウリエルが悲壮に顔を歪める。
「私、書庫でヴェイプス族という存在を見た事あるよ。体の一部、もしくは全てを気体に変化させることができ、戦いを好むといわれる悪名高い種族だった」
「……そして、その一族の中には本体の一部の気体が他人の体内に入っていれば、いつでも息の根を止めれるという恐ろしいやつが居たって話だよな。
眼球を気体にしてどこでも監視出来るという能力もあるから……もしグロータスにいることがバレたら……俺らは殺されるかもしれねぇ」
掠れた金の後ろ髪を右手で抑えながら地面を眺めるライジェルの姿は、やはり落ち着きがなかった。
木の葉を頬に掠めながら、ウリエルは考えた。あの男──ダンブレイズ・ヴェイプスが偽名では無く、本当にヴェイプス族で間違いないなら
……バルカン地点の簡易牢獄、あんな鉄格子じゃ、そりゃもうハサミで紙を切るように簡単に抜け出せてしまうだろう。
『風読』の弱点は、喋らなければどうにでもなるという点だが、わざわざ事実を口にしたのは戦力を分散させる為だろうか。だとしたらとんでもない男だ。
ダンブレイズの目的がレインへの復讐だけなら、レインと戦えばいいだけの話であり、被害は少ないかもしれない。
しかしルギウス達の会話を聞いていた限り、彼の復讐心の源は母であるユエルダをレインに殺されてしまった事だ。ユエルダという女性は確か、鉄脈国ガレオンにおいて最大規模である奴隷市場の総責任者だったはず。
レインが殺したという事実については少々思うところがあるが、兵団とはそういうことだ。奴隷制度をなくすために、仕方がなく行ったことなのだろう。
しかし、ユエルダが殺されたのは鉄脈国ガレオンを潰した日だったはずだ。つまり、復讐を誓ったのはごく最近ということになる。
……もし、暗黒の龍兵団そのものを恨んでいるとしたら? 自暴自棄になっているなら、兵団と手を組むバルカンの民も無差別に殺すつもりなのかもしれない。
そこまで考え、ウリエルは一度頭をシャットダウンさせる。『風操』は集中力が大事だ。とにかく今は真っ先にバルカンに着く事を優先し、ダンブレイズの暴虐を止めなければいけない。
さもなくば、ライジェルも危ない可能性が高まる。ダンブレイズはもうバルカンを襲っているだろうか。
もう人々を惨殺してしまっているだろうか。
(いけない。集中しないと……)
森をぬけ、知隣国バルカンにつくのはもう少しだった。
──そこでウリエルはとんでもない光景を目にすることになった
──────────
今、自らの影に確かに殴られた。
突然過ぎて状況が呑み込めないまま、シグレは尻もちを付き、ひどく間抜けな姿で目の前を見ると、カゲは追い討ちをかけるでもなくずっと立っている。しかし何故だろうか。
「──意思があるからか?」
意思があれば、当然無に帰ることは好まないだろうし納得が行く。喋ることが出来ないカゲはその意志を伝えるために暴力行為に出たのだ。
釈然としないが、追い打ちをかけてくる素振りは今の所はない。シグレは別にいても問題は無いと割り切り、流石に永遠は嫌だがしばらくの間放置し、次の魔法を教えてもらうことにした。
それは無系なのだが、正直怖い。感情が抑えられずに挙句の果てには信頼した仲間をも殺すことに躊躇さえしなかった。ある種意志を乗っ取られるよりも恐怖だ。
なので無属性魔法は辞めてもらうことにすると、マチルダは少々何か言いたげな表情を浮かべるが、次へ進むことに賛同してくれた。中級魔法の取得だ。
そして中級魔法について前置きするように、確認を取る。
「中級魔法になるけど、これはコツが必要になってくる。初級では唱えるだけで大体成功したものが、中級は多めの魔力を消費するから制御も難しい。
例えば『火種』の上位版『火球』とか、失敗したら全身大火傷や。せやからこれは任意でやりたい人だけやってもらう。ええな?」
ハゲの説教おじさんや、優しそうな青年など、皆が頷いてから、マチルダは言った。
「じゃ、危険やから最初はシグレ君にやってもらおか」
「なんでだよ!?」
「待ってもらってたし、この中で失敗の経験多いやろ? それに多少の怪我は治せるから、大丈夫大丈夫」
「女の子の大丈夫は大丈夫じゃないって聞いたことあるぞ」
冗談はさておき、確かに見るだけというのも嫌な話である。それに強力な陰魔法を使った方がヴァンピールに早く戻れる可能性も高まる。
せっかく取得した魔法が使えなくなるのは少々虚しい所もあるが、魔法よりも魔族としての力の方が上だということは確認してる。
雫を探し出すという目的を見失ってはいけない。そんなことを考えていると、早速マチルダはシグレの目の前で魔法を使おうとみんなの前から少し離れた。
「説明するより見てくれた方が早いからよう見といてな。……『陰惨』」
瞬間、マチルダの姿が唐突に消えた。そして、瞬く間にシグレの背後に迫り、人差し指を首筋に突きつけられた。
何が起こったかわからず肩をビクつかせるシグレに、笑いながらマチルダは言った。
「これが陰系の中級魔法『陰惨』や。自分の影に入って近くの影ならどこでも行ける、実戦においては暗殺によう使われる悪質な魔法」
不気味な笑みを浮かべそう零すマチルダの刺した指先は、首元の血管をぴったりにさしていた。
(これが中級魔法……)
頭の中で呟き、はて、と思う。こんなに強力なもので中級だというのなら、上級はどれだけ恐ろしいものなのか。考えるだけでゾッとしない。
今更であるが、この初級魔法はもちろん、この様子だと中級魔法さえ全て取得しているというマチルダも計り知れない能力を持っていると言うことになる。
この国は、武力が無いと聞いたが、案外国王もとんでもない力があるのかもしれない。
だが、初級魔法がこれだけ容易であるのに、何故シグレは魔法に対し斜め下を行くのか。
「上手く行かないのはなんでなんだろうな……無属性魔法を使った時も不自然だったし。精霊ってのもよく分からねぇし。転生者ってのは特別な力を持ってるって話じゃねぇのかよ……」
「それ、じゃないのかしら?」
「うん?」
突拍子も無くそう投げかけてくるのは偶然チームになっていた10人の中で、1番特徴の薄かった女性だ。
「だから、それが転生者の持つ、特別な力とやらじゃないのかしら。不自然な程に上手くいかないのだとしたら、何らかの力があって、それが作用しているのよ。『無感情』を使った時、何かを感じたはずよ」
そう言われても、シグレは初めて魔法を使った時も特になんの感覚もなかった。わかり易かった事と言えば、ただただ怒りが沸騰し、鍋からボコボコ吹き上がるように感情が抑えられなくなったというだけである。
そう考えたところで、ふと疑問が芽ばえた
「……ちょっと待て、いつ俺がこの場で無属性魔法を使ったと言った? それにその口調まさか……」
「えぇ、お察しの通り。私はレインよ」
言った途端、彼女の髪が、顔が、服が……変形しレイン・シュバリエローズと成った。
周りを見ると、案の定マチルダが有り得ないほど目を大きくさせ、他の面子も開いた口が塞がらないといった様子である。
そして、一瞬で元の長さに戻った白髪を靡かせる。
そんな変貌した彼女に、意外にもシグレは驚いた様子はなかった。
「……正直に言うわ。自分は違う世界から来た、という人は少なくないのよ。でも、魔族の転生者なんて見たこともないし、聞いたこともない。だからあなたを監視させてもらっていたのよ」
「……だからと言って、黙っていたのはどういう事なんだよ? 俺は一言くれればいいと思うんだが。
──信用、してねぇんだよな」
「…………」
数秒の沈黙が流れる。他の人達には何が何だか分からないのだろう。気まずさで時間が止まったような錯覚に陥る。
「俺が『無感情』を失敗した時に言ったことを覚えてるか? 雫がいる場所がどこか検討もつかないと何故嘘をついたのかってな。
それは、俺をなんらかの目的の達成の為に使うコマとして、どうしても手に入れたいから、とかじゃねぇだろうな?」
ずっと疑問だったのだ。傷だらけの子供であり、無条件に助けて貰ったのはまだ納得出来る。
暗黒の龍兵団としてそういうもの達を引き取るという志に沿っているからだ。だがその後、明らかにおかしい点がいくつかある。
雫が“暗黒の龍兵団”に攫われた可能性を話した時にすぐに否定しなかったこと、挙句の果てには検討もつかないと嘯いたこと、
そして……シグレのチカラを確かめるように魔法を使ってみるよう促した事、だ。
しかし、助けて貰った身であるのは重々承知しているシグレは何を言われても許そうという気前でいたのだが
──目の前にいる女性は今も尚、何かを誤魔化そうとしている。
「それは……」
「否定、してくれないんだな」
得体の知れない者を無条件で信じて欲しいなど無茶な願いだ。
いきなり宇宙人が潜入してきて「何もしないから滞在させてくれ」といわれても、やはり人間達は排除しようとするだろう。
でもそれなら、シグレを最初から連れてこなければいいだけの話だ。否定もしてくれないには、納得のしようがない。
せめて弁明を聞いてみようと黙っていた、そんな時だった。
「すまない!! たった今、我らの友、暗黒の龍兵団がバルカン地点より緊急事態との報告を受けた!! 直ちに大会を中止し、避難を行って欲しい!! 詳細はあとで説明する!!」
なんの脈絡もなく国王が立ち上がり、事態の急変を告げたのだ。と、言い終わる直後、耳を塞いでしまう程の爆発音が響いた。
閉じられていたバルカン城の頑丈な大扉が破壊さたのだ。
100人もの人達は数秒遅れて何が起こったのか理解し視線がそちらに向くと、そこには赤毛の男が突っ立っていた。
近くにいた人達が悲鳴をあげ、うるさいとでも言うようにあっさりと吹き飛ばされた。
吹き飛ばされた者達は腕や足を押え、動けないようで痛みに叫びながら身体をクネクネさせる者や、気を失っている者もいた。
そのうめき声を聞いた者達にも伝染し大きな叫び声を上げた
「なんであいつが!? 捕まってたんじゃねぇのかよ!!」
「まずいわね。すぐにでもこの人たちを避難させないと……」
レインはそう言うが、この城の周りには壁しかなく、ここから出れる場所といえば赤毛の男がいる、あの大きな扉しかなく、避難する事も出来ない。
「なんやあいつ、何者や……? 罪のない人をいきなり……!!」
マチルダが悔しそうに言い、レインが答える
「幻影城を襲撃した1人よ。マチルダ、私はあいつを食い止めるから、ここにいる人たちをパラスに移動させて。あの男に目的があるとすれば……きっと私を殺すことだから」
「色々言いたいことはあるけど、あとや!! 任せるで!」
マチルダはそれだけ残し、ここにいる人たちを移動させようと火の魔法で線を引いた。赤毛と国民を分けるように、だ。
「シグレくん、あなたはカゲと一緒に倒れてる人を確保して急いでマチルダのところに向かって。頼んだわよ」
その瞬間、地面を蹴りすごい速さで扉の方角へと向かった。
レインはもう完全に戦闘態勢に入っており今にも周りを巻き込みそうな死闘を繰り広げている。
倒れてる人は全員で10人、子供の姿であるシグレが影と手を合わせたとしても運べる人数は一度に1人であり、時間がかかることは明らかだった。
「なんでこんなに問題しか起こらねぇんだよ……どうすりゃいい、運べる方法は、何か……。そうか」
考え、すぐに実行に移す。
「──『陰影』」
呟き、シグレの影から新たなシルエットが浮かび上がる。
「『陰影』、『陰影』『陰影』!!!」
連呼し、同じ事を繰り返す。人手が足りないなら、増やせばいい。
単純な考えだが確実であるこの作戦を行い、全ての血管が浮かび上がるような錯覚と共に、額から汗が流れる。
「お前ら!! 今だけは俺の言うことを聞いてくれ、あそこにいる人達を安全な場所へ移動させるんだ!!」
幸いにも、20人ほどにもなったシグレの影達はガッツポーズをしたり、親指を立て「任せろ」とでも言うような態度を見せている。
大丈夫そうだと確認し、即座に走りながらレインの戦う姿を見る。火の粉が飛び散っていると錯覚しそうなほど、激しいバトルが交差している。
「あなたの目的はなんなの? 雇われの身なら、もう撤退してもいいはずだけれど」
レインの拳を受け止め、答える
「僕はダンブレイズ・ヴェイプスと言ってね、どうせ心当たりはないでしょう? 僕の目的はひとつです。死んでください──『水泡』」
ダンブレイズと名乗った赤毛の男は、空気中にシャボンのような水の玉を浮かばせる。何を察したのかレインは固定された右腕を振りほどき、その場を脱出する。
刹那、シャボンが弾ける。しかしそんな可愛いらしいものではなく、弾け飛んだ水しぶきは刃のように地面をいとも容易く抉った。
その水の刃はシグレの方にも向かい、掠ったそれはもう少しで足の関節が役に立たなくなる所だった。
「いっ……急がねぇと、マジでやばいな」
言ってる側から、倒れて動けない中の一人が水の刃を受け腕が貫通する。
「う……アアア!!」
激しい痛みに悶えるのは茶髪の青年だ。急いで担ぎ上げるが、なかなか上手くいかない。
「おい! 2人がかりで背負う!! 頼む、手伝ってくれ!!」
カゲは慌てたようにこちらに駆けつけ、足を持ってくれた。同じように指示し、何とか10人を1度に運びあげることに成功する。
手で触れて初めて気づくが、血は全く出ておらず、代わりに強力な張り手をくらったように赤く腫れている。所々水膨れを起こしているのも気になる。
「いや、今はそんな事はいい、とにかく城の中に連れていくのが最優先だ!」
シグレと、そのカゲ達がせっせと運んでいく姿はまるで人攫いのようで、酷く間抜けな光景だなと自傷しながら、マチルダが作り出した火の境界線まで到達する。
「誰か!! ここを開けてくれ!! 重症の人もいる!!」
すると、一部分だけ消火し、抜け道が出来た。シグレは迷わず直行し見事全ての人を救出することが出来た。
「シグレ様! 早くおろしてください!!」
「リリスか!! あとは任せた!!」
恐らく治療をしに来たのだろう。待機していたリリスに預け、戦闘しているレインの方へ体を向ける
「ちょ、どこに行くんですか!?」
「あとは任せた!!」
シグレの説明になっていない言葉を受けると、「もう聞きましたよ愚鈍野郎!!」と相も変わらず辛辣なことをいうリリスに苦笑いし、レインがいる場所へ走る。
よせばいいのに、何故自ら危険な場所に足を突っ込むのか。雫の事に対して聞きたいことがまだあるから、ではない。
──レインが押されてるように見えたからだ
「レインがあの黒い瘴気を出した時はほぼ互角だった。でも、なにか使えない理由があんのかもしれねぇ」
手を龍の形にすれば、もしかしたら互角以上だったのだが、今はしていない。
ならばレインが倒れるのは時間の問題だ。複数のカゲもいる事だし、俺が助けになるかもしれない。
そう思ったのは、血だらけになったレインが地面に叩きつけられた直後だった。
「手応えのない事ですね、余計に腹が立ちます」
ダンブレイズが手をあげ、トドメを指そうと魔法を詠唱する瞬間
「待て!! なんで、てめぇはレインを執拗に殺そうとするんだ?」
少しずつ冷静さを取り戻していくシグレの全身をたしなめるように見たあと、同情するように口をこぼした
「あなたは……もしかしてあの時のガキですか? そんな醜い姿に変えて……可哀想ですね」
会話にならない。そう判断し、戦う意思がないことをアピールする為にカゲ達を制止させる。
「質問に答えろ、ダンブレイズ」
「…………ユエルダ」
「なに?」
「ユエルダを……僕の母さんを殺されたから、ですよ。つい最近の事なんですが、覚えていないでしょうね。まぁ、数え切れないほどの人々を平気で殺しているんでしょうから当たり前なんでしよょうけど」
「つまり、復讐って事か」
だが、殺された、と言うダンブレイズはあまりにも落ち着き払っているように見える。
俺がもし雫や……母さんを他人に殺されたとしら、そりゃもう暴虐の限りを尽くすはずだ。
犯人を探して目から血がこぼれても辞めることはないだろう。探して、見つけて、八つ裂きにする事しかずっと考えないのだ。それが最近のことなら尚更だ。
もう一度目の前の男をながめる。細い足、腹、胸……震えている様子は微塵もなく、鼓動も落ち着いている。そして表情だ。当然……やつれた感じはない。
顔も無表情に近い。目立つ所といえば、少々崩れた赤い髪の毛だけ。おかしい話である。復讐を誓うにしても、半端だ。
「本当は、誰かをただ殺したいが為にそれらしい理由をそれ来たとばかりに食いついてるだけじゃねぇのか? 俺なら、殺すだけじゃ飽き足らず、力があるのをいいことに無差別殺人をも平気で繰り返すと思うぜ?」
露悪的とも取れるシグレの態度に、それでもダンブレイズは冷静でいた
「あなたと一緒にしないで下さい。それに僕が落ち着いているなら、そもそもこんな事はしませんよ」
「だからその愉快犯よろしく都合のいい理由付けで、復讐するぜ! ってのが頭っからおかしいって言ってんだよ。筋が通ってねぇ」
もし、雫が誰かに殺されたならば、途轍もない消失感と虚しさ、そして何も出来なかった自分の悔しさに頭が狂いそうになるだろう。
それこそ冷静のれの文字も無いはずだ。むしろ、暴れまわってらりるれろって感じだ。
「別に理解を求めて欲しいんじゃあないんですよ。僕はただあの女に死んで欲しいだけです」
「なら俺が教えてやる。気づいてるか? あんたは復讐復讐言ってるが……一度だってお前を殺してやると、そう言ってねぇ」
「…………」
「他人行儀なんだよ。身内が殺されて悔しいなら、もっと熱くなれよ」
「……黙ってください」
「仲が悪かったんだろ? 母さんっつってもお前はユエルダと、普段から名前呼びで他人として過ごそうって、そう思ってたんだろ?」
「黙れ」
「──本当は母さんが殺された時も、なんも感じなかったんじゃねぇのか?」
「……黙れ!!!」
1分前までのダンブレイズと比べると、同一人物であることも疑わしい程に顔を歪める彼はもう、殻を被っていなかった。
しかしシグレは精神的な優位に立てたことに対し、喜んでいるといった素振りは全く見せなかった。
……むしろ自分の事のようにとても悲しそうな、同情にも似た感情を実らせていた
「──わかるよ」
「……は?」
「俺は、こう見えて25歳だ。ガキの頃に母を亡くしてな? ずっと喧嘩してたんだよ。当時は何も考えずにヤンチャしてて、家に帰らねぇ時もあった。
そんときに母さんの訃報を聞いて、俺は何をしたと思う? …………何も、しなかったんだ」
ちょうど質の悪いダチと同じ金髪に染めて、ゲーセン回って中坊から金を毟り取っていた頃、親父から連絡が来たのだ。携帯越しに、母が病死したんだ、と。
どうやら母は悪性の乳ガンだったらしいが、貧乏なウチには到底手術する金もなく、母はそれをよしとしていた。家族にまで隠して、だ。
だが、当時俺はこう言った。
『そうかよ、やっとくたばったか。あのババア』
それだけ言って通話を切った。馬鹿を繰り返していた俺は完全に頭が腐っていたのだ。だが、飯が不味くなり、家が更にボロボロになり、──そして、親父がいなくなり……
そこで当時9歳だった雫に泣きながら、頬を革靴で思い切り殴られ……ようやく目が覚めたのだ。
働くことを決心し、何も分からないまま現場仕事を始めたのだが、馬鹿しかやってこなかったもんだから、やっぱり口調も馬鹿丸出しで中々人間関係も上手くいかなかった。だからひたすら努力した。
同僚よりも1時間早く現場に赴き、誇張抜きで人の5倍は動き、ある時は仲間のミスで俺が土下座することもあった。
そんな姿をずっと見ていた現場の先輩の知り合いで、大手会社の社長を勤めている者がいるとその先輩から聞かされた時は心臓が止まるかと思った。
そのコネで会社に入ることができ、なんとか生活費や雫の学校のお金もそこそこ安定して暮らせるようになったのだ。
本当ならこれでハッピーエンドだが、俺は度々母さんの事を思い出し、胸が業火に焼ける思いをするのだ。だから俺は……いや、山崎時雨は
「──わかるよ」
もう一度、そう言うのだ。あの感情は、もしかしたら世界で山崎時雨にしかわからないのではと思うほど、複雑なものだ。
家族がお年寄りに詐欺を働いただとか、二重人格である自分の、もう1つの人格が人を殴っただとか、そんなものに近いだろうか。
とにかく、物凄く悲しく、その感情をどこにぶつければいいのかも全く分からないのだ。
「僕は……」
シグレの短い足を見下げるが、ダンブレイズは視線をさまよわせていた。それは、彼の気持ちをそっくりそのまま写しているようだった




