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改装記ライブリマスター  作者: 聖千選
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第2話 歌姫きたりて

改装記ライブリマスター 第二話


 ―その砲筒を三十秒見つめると魂が抜かれるよ―

 未だ写真と区別がつかなかった父方の祖母が昨年、亡くなった。玉枝ユリ子としてデビューした二十歳の女がテレビに出演するきっかけとなったのはそんな祖母への恩返しが頭をよぎったからかもしれない。

 「庄屋の新吉さんがこないだテレビを買ったって言ってたっけ。」

 ユリ子は眼を閉じて呼吸を整えるたびに実家の能登の情景が浮かんだ。

 テレビにおいては新人のユリ子にとってこのスタジオでの作法を知らない。予想以上のスタッフの数に買ってきた差入が間に合わない。手にした菓子折りの袋のひもをぎゅっと握って棒立ちになっている。

 だから今は、ともに挨拶回りに付き合ってくれる七瀬めぐみに頼るほかない。めぐみは手慣れた手順で通路を通り、演出家、構成作家、司会者をはじめとする本日の出演者の楽屋周りを器用にこなした。ユリ子はその陰に隠れるようにササッと小走りに進んだ。結局、誰に菓子折りを渡せばいいのかわからず、そのまま、支度部屋に戻った。


 「ここが今日、私たちが歌うスタジオよ。」

「えっ、何で室内に公園があるの?」

 備わっている大木のセットが見事だった。だが、それとベンチが置かれているだけで、今にしてみれば簡素な作りのものだが、ユリ子にはどうしてこんな大木ができているのかと不思議そうに根の方に目を凝らした。そのことユリ子が理解するまで、めぐみは説明するのに少し時間がかかった。

 テレビという媒体がこの国で動き出してちょうど十年ほどだが、そのノウハウが浸透されるには十分とは言えない。一回勝負の生放送であるがゆえに打合せは現場でも綿密であった。

 スタジオのセットの真ん中に立ちその慌ただしい様子を目の当たりにしたユリ子は思わず目をそむけた。そして中学校を卒業したころを思い出していた。

卒業の記念にと母親と二人で向かった石川市内の写真館では撮影に半日を要した。写真館の雰囲気になれないせいでもあったが、撮影のたびにじっと息を殺していることに委縮してしまう。特に照明の当て方には気を使ってカメラマンとアシスタントが何度も現場で密に話し合っていた。

「そんなに気を使わないでください。」

「でも、一生に一度の記念ですから。」

 記念とはいうものの愛着が湧くことはないだろうとユリ子は思った。原因は自分のやや自黒な肌と腫れぼったい頬にあることは分かっていたから。歌い手として生きていこうと決意した以上、写真という記録媒体にはあまりあてにしていなかった。

 今回の出演にあたっても映像ではなく歌声を届けられることに集中していた。実際、リハーサルを行った前と後でユリ子を知らないスタッフの目の色が変わった。リハーサルとも会って本番で出すつもりの半分ほどだが、力強い声量はスタジオの隅々にまで様々なスタッフの芯まで通った。かといって、ユリ子の歌い上げるソウル歌謡は繊細さを重視する日本の歌謡界にはすぐには評価されづらい。

 「ユリ子さんそんなに声を張らなくてもマイクで拾いますからね。」

 演出家は自分が緊張していて力加減を知らないと思っているらしい。

 カメラチェックが終わり、降りたステージ脇にはユリ子の事務所社長の冴木壮吉が出迎えていた。社長とはいえ、父親から引き継いだ弱小芸能プロダクションでの彼はあまりその気質はなく今はユリ子のマネージャーのような仕事で手一杯である。

 「本番に集中すればいいから今のは気にしなくていいですよ。」

 「だから余計に本番というものになってほしくないわ。」

 「僕は本番後にユリ子さんがさらに有名になってさらにレコードの売り上げが伸びると確信していますよ。」

 「有名になることに意味があるのかしら。」

 ユリ子の問いに少々無言になって冴木はユリ子にいつの間にか纏わりついた枯葉を払った。とりわけ細身の冴木はユリ子と比べると色白の肌が余計に目立ち、とても人の上に立って先導するには弱弱しい。ユリ子の口数が多くなるのもそんな冴木の才能である安心感のたまものかもしれない。

 「意味があるから七瀬めぐみさんも今回の番組を推薦していただいたんですよ…。」

 めぐみがなぜこうまでして自分をこの番組に誘ったのかは未だ理解しがたい。「もしかすると自分を陥れるためにこのようにふるまっているかもしれない。」とユリ子はこんな具合に友達であるめぐみを疑った。秋の夕方の公園をイメージしたセットのためにネガティブに考えてしまっているのかもしれないとユリ子も感づき、自身も胸に纏わりついた枯葉を手に取り右手の親指と人差し指で捻じるようにいじってみた。

 「めぐみはどこへ行ったのだろう。」

 ふと辺りを見回すといつの間にか先ほどの演出家と談笑しているめぐみの姿を見た。ことあるごとにあいさつ回りをしているめぐみの姿は本番を歌うことしか考えていない自分とはプロで生きる者同士でありながら対照的だった。マネージャーを置いてめぐみは縦横無尽だった。

 一方で、めぐみのマネージャーの山本はめぐみとは反対側のスタジオ入口で誰かと話している。ユリ子がめぐみを探している合間に目に入った。山本の相手は番組スタッフにしては風貌が異なっていた。動きやすそうな服を着用してはいるが、とりわけガムテープ軍手など専門的なものは持ち合わせていない。一応、ほこりよけのためかマスクはしているが、かみのようなものをジグザグに織り込んだだけのようなもので自分の知っている厚みのある布マスクと比べて貧相に映った。そんな男を山本は立ち退かせようとしているようだ。

 「めぐみのファンが押しかけてきたのかしら。」

 ユリ子にとってハイカラなものに関しては、めぐみの担当だと思っておけば解決できるものであった。同じ出演者でありながら、自分とめぐみの間にはもう一層のブラウン管があるような感覚だった。それだけユリ子にとってもめぐみはテレビの人であった。だからこそ自分は歌うことだけに専念できればいい。ユリ子はこの異空間をプロとしての信念で振り払うだけで安心できる。

 だが果たして、その男の目は最後に私を見た。みられることになれていないユリ子としては為す術がない。即座に目線を外して下を向き、徐々に見上げてみたが男はまだ自分を見ている。枯葉を握る手は一層強くなる。

 「玉枝ユリ子さんですね。お会いしたかったです。」

 男は尋問に追い詰められてとんだでたらめを言っているとユリ子は思った。ユリ子がこれまで行った米軍キャンプ地やジャズ喫茶にもこんな男は来ていないし、自分の音楽が影響していているにしては風貌が異になっていた。

 「当たる人を間違えていませんか。」

 念のために確認をとってみたが、庄野裕市という男の目的は自分に間違えないという。その割にはその感激ともいえる情が見受けられない。はじめて誰かにお使いを頼まれた子供のように淡々としていた。それか子供ならそんなドライさも可愛げがあるのだが、華奢とは言え、そのスッとして猫背な姿勢はこの世界では気味の悪くも見えた。好景気に沸いて明るい光が差そうとする時代の中、その暗さは際立つ。自分が辿ってきたアングラな世界とも違う。その目線は未だはっきりと自分に向けようとしない。


 「その手に持っているもの…。」

 裕市の目線は手元に定まり、その手は即座にユリ子の右手をはたいて握っていた枯葉を手放させた。

 「何なさるの。」

 「この世界の崩壊が始まっています。すぐに離れて。」

 裕市はユリ子の憤りを無視してあたりに忠告した。ファンかと思わせておいて、結果自分のことにやはり興味がないという本性を見せた男にユリ子は呆れたように苦笑した。

 ユリ子の溜息に乗ってか知らずか、振り払われた木の葉は風に乗るかのごとく地面に触れることはなく、徐々に上昇しながら漂っている。セットの立ち位置を確認しているADの杉沢がそのことに最初に気付いた。

 「火事だ!」

 錆びが持つ赤褐色の様相は燃えているようにも思わせる。本番前のスタジオでは、百キロを裕に超える固定カメラが計三台。各方面を華やかに焚き付ける照明が五台設置されておりおよそ三十メートル四方程のスタジオ内では汲んできたやかんが三十秒もたたないうちに沸騰するような体感温度がある。ましてやこの緊張感だといつ爆発するかもわからない火薬庫と表現したほうが正しいかもしれない。そんな中でスタジオ内の木の葉ほどの錆びつきから一気に広がる錆びつきは、杉沢の叫びを合図に周囲の人々を恐怖によって炎上させた。

 逃げ惑う群衆をよそにユリ子は自分の手を見つめている。怪物は先ほど自分の手を放した木の葉から生まれた。怪物は自分の醜さから産み出された化身なのか?見つめる手の先にある異形体に引き寄せられている光景を遠目に裕市は思わずユリ子の手をとり、入り口の扉をめがけて走り去った。

 「あなたが向かうべきステージはそこじゃない。」

 ハッと我に返ったユリ子は意外にも納得させられたこの不審者に従い、最後の避難者となった。熱気が一段と増す中、炎上のごときサビたちの前に一人の男が立ちふさがる。


 「じゃあ行こうか・・・シャドーライザー!」


裕市の目の前の炎の化身と対角線上に映し出される陰から飛び出す黒きハヤブサは裕市の対称の先へ挨拶なしに飛び掛かった。その勢いで初めの一体は取り出した鏡棍(カジョル)を手に勢い任せに叩き付ける。その気迫に意思のないはずのサビも動揺を見せるかのようだが、すぐにサビの性質としての行動をとりその金属体を浸食させる本能を取り戻す。光をまとった鏡棍の戦士は待っていたかのようにそれを迎え入れるかのごとく鏡棍(カジョル)を振りかざす。

 「ビーガル、いけるか?」

 「当然だ!」

 辺りは紅蓮の炎のごとく錆の壁が覆い尽くし、その外で待つ裕市の眼にはその中で時折見せるキラキラとした動きを確認するしかできない。だが、それがビーガルという戦士の動きであることは確かであった。

 「あの時と同じだな、今のところ・・・。」

 裕市に安心感はなかった。その不安を煽るかのごとく、サビの炎は大きくなる。裕市の見える希望の光がさらに小さくなる。ビーガルが死んでしまうと自分がどうなるかわからない。以前はそこまで聞いていなかったことを裕市は今になって後悔している。もう一度聞き出して答えてくれるかどうか。

 とうとうその炎の中から、ビーガルが飛び出した。裕市は安堵してしまう。そしてそれを追うようにサビの怪物はビーガルたちがいる壁に向かって力任せに体当たりした。ビーガルは裕市を抱えそこは難を逃れた。やはりビーガルにとって裕市は一心同体のような存在らしい。

 壁を破壊しついには、サビの大きさは前回の巨体と同じぐらいまでの姿を裕市の前に現した。

 「こんな巨大な敵にどう挑めばいいんだ・・・。」

 ビーガルから吐き出された動揺にやはり裕市は違和感を覚えた。それは先にビーガルと出会ったあの時と同じ感覚。冗談を覚えたのか?だがその割にはビーガルにも余裕がない様子である。何分、今はノリ突っ込みをしている状況ではないことは芸人でなくてもわかっている。それならば逆に考えるべきか。


 『ビーガルは記憶を失っている。』


 彼がどういう事情であれ、この状況を打開できる手段を裕市は一つしか知らない。


 「シャドーチャージ!」


 ビーガルに手をかざした裕市をまばゆい羽衣が覆う。するとその尾ひれについた黒い影が太陽を照らしていく。ビーガルのその意思とは関係なしに広がる自身の視界に動揺が止まらない。

 「裕市、いったい何を。」

 「どうやら今は、僕の方が君を知っているようだね。」

 裕市は微々ではあるが、自信をつけた。その自信が今はビーガルを導く唯一の手立てだということを知っている以上、今は自分がビーガルとして目の前の敵に立ち向かった。ビーガルの視界は開け、広大な街並みが再び裕市たちの目下に拡がる。地は冷え、この日はあいにくの空模様。来世紀に生きるものとしてはこの時代の建物は町の人々が傘を差し始める雨脚でさえ触れてしまえばフヤケテしまう段ボールのように感じてしまう。

 しかしここは記録媒体の世界、映しだされていたのはスタジオの中だけだ。テープに残留思念があるとして、当時の天候まで思い入れがある人がいるのだろうか。じめじめとした空間の中で、裕市の中に玉枝ユリ子の色黒の姿を思い出した。それは裕市という未来からのお尋ね者にもユリ子の持つ陰湿さを感じていたかもしれない。

 「何をいまさら、そんなこと誰にだって・・・。」

 雨脚はさらに強くなる。

 それならば、紅蓮のような眼前の怪物は自然とその活動は鎮火されるだろう。ビーガルは手にしている鏡棍(カジョル)を全身で振り回して風をつくりだし、目いっぱいそれをサビに向けて放った。それに合わせて雨の流れもサビと化した怪物に向かれる。追い打ちをかけるように直接、鏡棍(カジョル)でも叩き付けた。怪物はもちろんそれに従いかのごとく、悲鳴を上げながら倒れ込んだ。手ごたえはある。これなら、敵を鎮めるのに三分もかからないだろう。それは裕市も同じだった。

 だが次の一撃を与えようとサビに近づいたとき、それに抵抗する何かはビーガルの視界から外れた右後ろから突っ込んできた。倒れはしないものの鏡棍(カジョル)を杖代わりにして遂にはへたり込んでしまう。サビは沈静化されるどころか、その数が増していた。

 「これでは、巨大化しても変わらないじゃないか!」

ビーガルの眼前はふたたび地獄絵図のような光景が広がった。無数に増えていく怪物の数。どれも活気を取り戻したかのような怪物の俊敏性。そんな光景を目の当たりにしてビーガルの巨体の方に立ち尽くす裕市は悟ったかのごとく、一つ呼吸を整える仕草をする。

 「落ち着くんだビーガル。初めての事態だが、勝機はあるはず。」

 「どうやって。」

「(・・・カビ臭いな。)」

 裕市の条件反射で手を顔に覆った。それに呼応するように、一層雨は強くなる。炎の怪物は燃え広がるようにその数を増やす。この雨には、アルコールでも入っているのか。だが、紅蓮の怪物は力をつけるたびに、その姿が輝緑色〈エメラルド〉に変色していることを裕市は見逃さなかった。

「ビーガル、フィルタを。」

 裕市の指示からビーガルが行動するまでは手早かった。そうしなければ、マスターテープの腐食がさらに進むと思ったからだ。原因は自分の呼吸による酸化にもある。ビーガルの左肩に収納された抗菌性の階層分割シートを広げた。目の前の怪物は確かにサビではあるが、それに養分を与えているのがこの雨だとすれば、汚れの付着ではなくカビによる腐食が考えられる。表面についたものを取り除くことはできても、マスターテープ自体が削れてしまっては、自分の力ではどうすることもできない。この世界に思い入れがない以上、自分はここではスーパーヒーローにはなれないらしい。

 雨が止んだ世界に、どこからともなく太陽光が降り注いだ。いや、この世界全体が輝いているといった方が正しい。それまでどことなく暗い世界が真白く染まっていく。建物も行きかう人々も線がくっきりしてきた。エネルギーを絶たれた怪物を叩くことは容易だった。それでも、さっきまで自分たちがいたスタジオの方角は修正液を垂らしたかのように不自然に白い。カビによる参加が進んだ影響だろうか。

 「ビーガル、僕をあの場所に連れてってくれないか。」

 裕市はこの世界に思い入れはない。失われた空間の中でできることは自分にはない。それでも残りの収録分の約二十八分間も含めて残りのテープのリマスター作業もある。

ビーガルはその空間へ向かって、手を伸ばした。二の腕にまかれた腕章はマシンへ変形している。裕市はそれを駆って自分の仕事に向かった。


 裕市の息遣いは再び元の落ち着きを取り戻した。フィルム全体を見回した時、最も手あかにまみれていたのは最初の三ロール分に集約されていた。そのことを考えると大きな山は越えたと考えられる。それでも全体に流れる香を焚き付けたような臭気がただようことに裕市は敏感だった。

 それは今扱っているフィルムロールに影響していることも大きい。このフィルムの所有者である平今日子の印象が先行しているのかもしれない。特段シワ枯れた様子もないが、あえて目立たない薄茶色の着物をまとっていて、年齢以上の風貌を思わせる。それでいて、その帯留めにビビットなピンクを使い現代的にも見える。目立たせる部分を一点に集約させることの粋な様相は、裕市の隣で依頼の受け応えをする堀内沙織には通じたらしく着付けた今日子の背筋を見習うかのごとく自分の背筋を伸ばしてみた。無論、裕市にはそんなことは伝わらない。ただ、今日子から発する香の方が少しキツイくらいに感じていた。自分が田舎のころに近所の子たちとかくれんぼをした際の押入れの香りに近いものを感じた。

 今日子の父は実家で映画館を経営していたこともあり、フィルム収集は性質上行っていた。その父はバブル期に入ると特に大手の映画館に対抗するために嬉々として独自のフィルムを入手していた。その関係もありテレビ局の資料提供にもたびたび足を向けており、室長の仁王とも顔なじみである。

 「大切に扱いますから。」

 仁王は都度、こうして今日子を説得するように説明した。今日子には中身がどういった価値があるかはわからないが、ライブリマスタープロジェクトの中に父の遺品を通すことには一抹の不安がある。今日子の表情は変わらない。仁王の推察ではあるが、こうした依頼はたいていそうであることを知っている。

 亡父が安住の地を見つけて過去に根を生やそうとしているものを引き抜こうとしている。新しい技術とはそうした無神経なものを持っている。

 そんな時代でもあるなら裕市がビーガルという搬送波生命体の情を考えることは無益なことであろう。裕市は効率の良さを犠牲にして、そんな小さなことを追求していた。


スタジオの空白世界は十五秒ほどで突然切り替わった。映像は一コマ一コマを切り取っているので、切り替わりが早い。今までのことが何事もなかったかのようにと評するのは適正ではないかもしれない。

ともかく、スタジオの本番はすでに始まっている。裕市が追っていた白い影はいまだ見えない。だが、先に見たカビのテープへの浸食を考えるとロールに接した分だけ、断続的にその事象は発生することが考えられる。心惹かれるかのごとく再びこの場所に戻ってきたが、人は美しさの象徴に白という色を求めていたが、その奥に「無」という存在が内包されていることを知ってしまった。今、裕市にとって白という色は最も嫌悪に感じている。

本番時のスタジオは一つの空間であるが場面転換が激しい。突然辺りが暗転したかと思うと、すぐに真白く光る。裕市の周りを突如として悪夢の色がつつむことだってある。

「なんだ、照明か・・・」

 裕市は白という色に対して敏感だった。だからこそ、このスタジオを照らす白には瞬時に安堵できる。もっとも、この時代の照明は膨大な熱量を伴っているのでまだ心を通い合わせることができる。異なる時代で普段から受け手側である裕市にとって、むき必なものにありもしない心を通い合わせることしかできないかもしれない。

カメラを向ける煌々とたかれた照明の奥にはさらに異なる白い存在がいる。だがこれも裕市の求める白とは違う。

 七瀬めぐみの歌が自身のヒット曲「高原こえて」が披露された。

あの高原にこれからがあった

あなたといたからここまでこれた

一緒に遊んで喧嘩した日々

だけどあの高原で皆分かち合う

これで最後だから

そして誓おうあの高原で


高校卒業で離ればなれになる仲間が、最後に思い出づくりに向かった高原で見た広大な景色にそれぞれの未来を映し出す。そんな姿を軽やかに唄いだすこの曲は難汗めぐみの若々しい歌唱とマッチしていた。

 少し悲しいながらもそれを若さで前向きに歌い上げる曲調は同じ別れ歌であっても五十年代の大人の歌手と比べて暗さが見えない。終戦の時代から十五年余りが経ち、残された子供たちがようやく若者になった。暗闇の中を手さぐりでくぐり抜けて、未来を見出せるようになってきた。こうなると日本は強い。めぐみのススのない純白さは新しい時代の象徴でもあった。纏っている真っ赤なワンピースはテレビとの相性が抜群であった。

 それは司会をしている長妻陽一郎の眼にも確かに感じていた。五十年代にロマンス恋愛映画などで活躍した俳優だが、テレビの時代の先見の明を持ち合わせており、だからこそそこから先の時代をこうした光景から感じられた。長妻はだんだんと力をつけるこの国の新しい時代の中で引き方を考える数少ない著名な男と言える。彼が長い手足を生かして数々の恋愛映画に主役を務めたのがほんの十年ほど前の事である。世間が時代によって瞬時に記憶を切り替えるなら自分はスターに甘んじるつもりはない。そう考えられる男である。長妻は今の自分の状況は居心地がよかった。

 唯一、今の懸念点があるとすれば、自分の隣に座っている玉枝ユリ子という存在ぐらいか。事前の情報で七瀬めぐみとデビュー当時からの仲がいいという周りが共有できる情報しか存在しない。あとは彼女からみなぎる緊張が自分側に伝わってくるぐらいか。

 (さてどうするか。)

 とりあえず足を組み替えてみる。長妻はそうすることで相手との距離を詰める。彼が芸能活動で相手との距離を縮めるために身につけたゲン担ぎである。

ユリ子は動じない。というより緊張でそれどころではない。目の前で場馴れした親友がオーラを輝かせている。そんな姿に「自分は親友としての資格があるのか。」とすら感じた。傍から見るユリ子にはめぐみのオーラを自分の体の一部のように扱っている。声ひとつをとってみても、もう一つの腕としてカメラを通じて見えない聴衆の心をつかんでいく光景が広がっている。目まぐるしく変わる感情の中ではあるが、結果としてユリ子は動じないままだった。

 「事前に歌を聞かせてもらいましたが、歌、お上手ですね。」

 ユリ子にとって思いがけない一言を発したのは、隣に座っている長妻だった。やはり動じないままだが、自分を認めてくれる人が自分の隣に座っているとは思わなかった。

 「僕は若い人が新しいことをすることが好きなんだ。思い切りよくね。」

 長妻は続けた。動じないならそれに対する方法がある。

 「・・・ありがとうございます。」

ユリ子は一言を返すだけで精いっぱいだった。長妻にとってはそれで十分だった。実のところユリ子の歌は聞いていない。リハーサル時は楽屋で別映画の台本を覚えていたからである。詐欺師の役だ。これも長妻がこの世界に入って得たスキルである。

 (随分と汚れたもんだな。)

 だが長妻は満悦だった。それで玉枝ユリ子が少しでも気が休まるならそれもありだろうと思えてくる。若い人が新しいことをする。そのことが大切なのは確かだから。純粋な若者が成功する陰で多くの大人が嘘で支えていることもまた長妻は知っている。自分がその役回りに回っただけだと自然の摂理のように自分で結論付けた。


 めぐみが歌い終えた。それと同時に司会席に目をやった。とはいえ、こうした場面に緊張で動じないユリ子からどんな思いをしているかはめぐみでさえも伺い知れない。スポットは自分から長妻とユリ子のいる司会席へ移る。自分は慣れている強光でも彼女にとっては拷問かもしれない。そんな余計な心配さえ思えてしまう。段取りでは司会の長妻とユリ子の間に入り彼女の友人としてトークすることで歌への後押しをする流れである。ならばすぐにでも自分がその光を軽減するフィルタとしての立場にならなければという思いが高まっていた。

 ところが、スポットの光が眩いせいか彼女の顔がはっきりと見えない。光を強めに充てているのかも知れない。しかしリハーサルの段階では、彼女の地黒の肌は白を基調としたスタジオにも映えている。殊更に彼女にスポットをあてる必要があるだろうか。ユリ子にとってテレビは初めての世界である。ならば尚更自分がすぐに彼女の楚辺についてガイドしなければならない。

 「それ以上、そこに近づいてはいけない。」

 足早に歩を進めるめぐみの前に一人の男が立ちはだかった。裕市である。

 「また世界が崩壊するかもしれません。逃げてください。」

 「何言っているの。私はそこへ行かなければならないの。ユリ子にあれだけの光を浴びせていては耐えられないわ。」

 「そこに気付いているなら、尚更あなたを近づけるわけにはいきません。」

暗転している中でもスタア歌手の前に一人の若者が突如として近寄ろうとしている。すでにその異変に数人のスタッフが気付き始めている。裕市としても そんな面倒のことは避けたい。しかし、自分が粛々と追いかけていた光をめぐみにも感づいている。無へと誘う光に魅入られるのは自分一人だけでいい。

 「ちょっと君、いったい何のつもりだ。」

 ADが二、三人で裕市の腕をつかんだ。生身の力に自信のない裕市の身体は軽く足が浮いた。補導された過去のない自分にとっては、劣等生がされるような立場に自分がなるという今の状況をもって初めて自らの誤手に気付き天を仰いだ。

(この世界に来てからの自分はどうもおかしい。)

 今だったら言い訳をこの異世界ですることができる。裕市はそうした気の紛らわすことで次のチャンスを伺おうとした。特段、抵抗もなく取り押さえたスタッフの指示に従ってステージから降りる裕市の姿に、スタッフは唖然とした。

 「ちょっと待って・・・。」

 めぐみはそんな沈黙を破って声を掛けた。唖然としたスタッフたちはさらに目を丸くした。

 「ユリ子を救えるのですか。」

 「僕に力を貸していただきたい。」

 今、スタジオという広大でひとつだった空間はスポットが当たっている世界と暗転の世界の二つに分断されている。見た限りでは、そのように陰影がはっきりしているが、文字通り分断されており、そのことに気付いているのは奇しくも裕市とおぼろげにめぐみしか感じていない。カメラを向けている見えない世界では生放送の進行が続いている。

 「さて続いてのゲストはお初にお目にかかります玉枝ユリ子さんです。どうぞよろしく。」

 「・・・よろしくお願いします。」

 ユリ子の反応はひとつひとつ出遅れている。その沈黙で可愛げをアピールするわけではないから午後十一時からの放送では見ている側としては怖さを感じるほどである。今でこそ淡泊な進行だが、その中でテレビ黎明期ともいえる緊張が漂っている。演出家は露骨に肩を落としそばにいたアシスタントに耳打ちする。

 開始して一分もたたずに、その緊張はユリ子にも感じていた。そうなるともうカメラの周りにいる大人の顔を見たくはない。ただ一つ救いだったのは、出番待ちしている段階で緊張をほぐしてくれた司会の長妻がそばにいることである。長妻はそのことを感じてより彼女の眼を見て話そうと努めた。ユリ子はこの緊張感の中で寄り添うような気持であった。硬直した立ち振る舞いに変化は見られない。だが、長妻との受け答えでの沈黙は次第に縮まっていった。

(これなら何とか大丈夫か・・・。)

ただ一人、長妻が安堵の表情を浮かべたもののまだ不安が残る。そろそろ歌い終えた七瀬めぐみが、彼女の友人として彼女を後押しに現れる展開となる。そのめぐみが暗転の中から出てこない。そのことはユリ子にも感じており、再び、自分に沈黙というバリアを張った。勿論、沈黙を恐れた長妻は玉枝ユリ子が七瀬めぐみのデビュー時から友達付き合いがあることを話して場をつなごうとした。

しかし、そのトーク展開をディレクターが遮った。当初の構想と現状がかみ合っていない。スタジオを包む暗転、そこからなかなか現れない七瀬めぐみ、そして生放送で切迫する時間。その度を超えた緊迫感が演出家にその手を選ばせた。

長妻は突如としての「歌の準備を」という指示にリズムを狂わされながらも、すぐに現実を受け止めた。ユリ子が再び硬直し始めている中で何とか目を合わせて軽くうなずく。

 そして、ユリ子は暗転の中に放り出された。この時点で彼女は何者なのかという疑問と不安を視聴者に残すだけとなった。長妻が「七瀬めぐみの親友」として紹介されたが、いまやそれすらも疑わしい。そんな不穏な空気はユリ子の肌にもひしひしと伝わってくる。そして自分に向けられるスポットと無機質なカメラ。その奥には何百、何千万ともいえる視聴者がいるという。ほんの五分ほど前に七瀬めぐみが掴み取った観客が皆ここにいるスタッフのような反応をしているのかと思うと倍掛けしきれない不安をユリ子は全身で感じた。

ユリ子は長妻がいる司会席の方に目をやった。振り返れば、何らかの励ましのサインがあることを期待した。しかし、目を向けた時に期待した男はなぜか自分の顔をみて震えている。しかもそれは長妻だけでない。演出家もカメラマンも照明も全てが自分を見て震えている。ユリ子はその時、自分の支え木が外れて崩れていく様子がはっきりわかった。

 (苦しい・・・)

それは身体なのか精神なのか判らない。そんな痛覚が全身を回った。

 「これは、いったい・・・。」

 思わず漏らした問の答えはすぐに分かった。ひときわ思い右手に目をやると既に自分の知っているそれとは違い爛れているような形で太さも二、三倍に膨れ上がっている。その穢れた手は窮屈な衣装の袖を通って自分へと続いている。膨張する腕はついにはその衣すら破りきる。膝をつき悶える中で、ユリ子はスタジオに設置されているテレビで今の自分の姿をはっきりと視認した。いや、視たものの認めたくはない。自らの顔の半分以上が膨れ上がり、緑と白の綿のような膜が斑に皮膚を腐食している。先ほどから感じたカビ臭さはどうやら自分から発せられていた。

 スタジオではすでに逃げ出しているもの、仕事に信念を見せての恐怖しながら残るものの二手に分かれて半数以上の人がいなくなっていた。ユリ子はこんなに自分を囲んで畏怖の対象にされた記憶がある。小学生のころ、下校の時刻に担任がいなくなった隙を見つけて男女数人のクラスメイトに無理やり顔に落書きされた記憶である。「ブス」、「クロンボ」、「キモチワリイ」。そんな張り紙を背中に貼られたこともあった。ユリ子は色黒で腫れぼったい顔立ちが嫌ではなかったが、表舞台に立てる容姿でないこともわかっていた。そんな自分がどういうわけかテレビという大舞台に立っている。そのことが罪なのだろう。そうなると今、自分が変化する怪物の姿こそが、本来の姿なのかもしれない。ユリ子の神が与えたものは常に罰と褒美が同居していた。

 徐々にユリ子の意識も遠くなり、あたり一面が白く覆われて見える。それは紛れもない裕市が求めていたものだが、ユリ子には故郷の能登の景色に重なっていた。


 (シャドーライザー)


 暗転の壁から響く青年の声。それに続けて黒き鎧をまとった戦士が暗闇を割いて現れた。ビーガルである。先の戦いで巨大化した時のような不安定さとは異なり異形の者となったユリ子の前に堂々とたたずむ。続いてその裂け目から裕市も潜り抜けた。

 「カビ化している・・・。」

 裕市は絶句した。半獣人と化したユリ子はすでに人である要素は八割がた消滅している。このまま、完全に怪物化してひとおもいに一撃で楽にする方がよいのではないかという狂気すら感じた。ビーガルも当初は同じ意見だった。しかし、ここにいる人々が生命なき記録媒体とはいえ機械的に取り扱っては後で修復した映像を見直した時に仕上がりが違ってしまうだろう。この空間の中にいるたった一つの命は未だ確証もない残留思念に期待していた。ともかく、当初の手筈通りにビーガルと事を進める必要がある。自分がここにいる以上、ただいればテープの劣化も進んでしまう。

 「とにかく急ごう。」

 「ずいぶん焦らすな。」

 「どうやら君を疑ってる余裕はないようだ。」

 「?」

 ビーガルは当初、自ら距離をとっていた裕市が、積極的に自分に関わろうとする様子が処理しきれなかった。先ほど暗闇の中で玉枝ユリ子を救うために自分ができる能力についてその処方を導き出しただけである。自らが知らない過去や巨大化という能力を知っていた裕市である。この能力も知っているかと思っていた。しかし、この男はその提案に驚きと大いに満足していた。そんな一つのきっかけで熱量が変わる人という生命の所有者にビーガルは不審を与えられた。

 「本当に彼女でいいのか?」

 「昔からこう言ったことは親友の歌声に限る。」

 暗転の中から恐る恐るスポットに入ったスタア歌手は七瀬めぐみ。裕市を解放した後、なぜかこの不審者に玉枝ユリ子を救ってくれるように頼んだ。彼女の座右の銘は「苦しい時の後に必ずチャンスがある」としている。もともと持っている前向きな姿勢が、絶望という状況の中でも発揮されたといえる。そのため、いつの間にか影より出でた鎧をまとったもう一人の不審者にも根拠なく納得できた。玉枝ユリ子の絶望を救うチャンスはこの二人だと確信しつつあった。

 「ユリ子・・・すぐに助けるからね。」

変わり果てたユリ子の節々にある面影に顔を顰めながらもめぐみは眼をそむけなかった。そして、背筋を伸ばして気持ちを整えた。


あの高原にこれからがあった

あなたといたからここまでこれた・・・

一緒に遊んで喧嘩した日々

 再び自身の持ち歌の「高原こえて」をスタジオに響かせた。こうして唄うとこの曲がいまのユリ子に向けても歌えるものだとこんな時にも発見できる。何となく救える心地がした。そんなめぐみの肩に手を掛ける者がいる。ビーガルである。

 もちろん情があるわけではない。ビーガルがめぐみの肩に手を回すと同時に念を込めた。そして肩ごしの隠れた部分から琥珀色の光が発せられた。その光は神が放つ後光のようで次第に五指のように広がった。あの時、ユリ子が見た人を引き付ける腕のように伸びていく。

 「ビーガルにこんな力があったとは。」

この状況の中で裕市は見ているだけである。ビーガルは搬送波を使って被写体のエネルギーを増幅することができるという。どういう効果があるかはビーガル自身もわからなかった。それはビーガル自身が被写体に込められた残留思念を認識していないからだと裕市は分かっていた。その使い方は命ある人間でなければわからないだろう。裕市はここでの自分の役割を感じた。

 (あたたかい・・)

 めぐみは曲中に心地よさを感じていた。自信から伸びた腕の扱い方をめぐみは知っている。ひとつ目配せすることで、第三の腕は怪物と化したユリ子へ向かっていき、ついには捉えた。

 「ユリ子、目を覚まして。」

 光を纏っためぐみはひたすら美しかった。それはめぐみ自身も感じていた。自分とユリ子は今この光を通じてつながっている。めぐみが念をおくるとその光の道を通じて、ユリ子に送られる。ユリ子はそのたびに苦しみの反応を見せる。いける。そうめぐみは実感できた。病は気から。親友の自分の思いがユリ子をすく病原体を追い払うことができる。そんな美談が確立できつつあった。


 (それがなんだというの・・・?)


 スタジオ内に響く低音ながらエコーのかかった声。それはスタジオに残ったスタッフ、そして裕市たちにも確かに聞こえた。なんだなんだとさらにざわめく声が散在する。

 「ユリ子?」

 めぐみの疑念の通りだった。めぐみが念を送ったように、ユリ子からも返信することができた。それは七瀬めぐみが期待していた美談ではなかった。

 「七瀬めぐみ・・・私はあなたのことが嫌いだった。いつも、いつも同上のように私に付きまとってくる偽善的な態度が気に入らなかったのよ。」

 「嘘・・・。」

 めぐみはそれ以上言葉が出なかった。ドラマのようなセリフで説得できると場面であることは分かっているが、ユリ子の辛辣な叫びが、ガラスの破片のように突き刺さり悲しさが声を詰まらせた。呼吸困難で咳き込んでしまった。その一瞬の弱気に付け込んで、怪物は辺りに自身の菌をまき散らした。めぐみだけでなくスタッフ全員にもその症状は蔓延した。

 「逃げろ」

 とっさに叫んだ裕市の言葉にスタッフは従った。落胆するめぐみも一番近くにいたスタッフに連れられてその場を去った。ユリ子もその姿を確認した。薄れゆく意識の中でユリ子はこれでいいと微笑んだ。

とうとうスタジオには裕市とビーガルだけになった。

 「殺して・・・。」

 そんな声さえした。裕市には生命がないことは知っている。裕市にとって、一番簡単な方法はとりたくなかった。しかし、頼みの綱ともいえる親友の想いは断たれた。玉枝ユリ子が人間であることを拒否している以上、どうすることもできない。それは人という存在が、闇とも溶け込みやすいということを裕市は知っている。裕市は次の一手を見出せない。

 その隙をついてカビの怪物はグルリとターンした。するといつの間にか膨張した大蛇のような尻尾がビーガルを襲う。不覚を取った戦士はそのまま、スタジオのドア付近まで吹き飛ばされた。

 「このままではやられる・・・。」

 スタッフが逃げ出したスタジオのメインのドアは大開で解放されていた。そこから自分たちも逃げ出すこともできる。しかし、そこから一人の男が顔をのぞかせていた。それは間近でユリ子の変貌を目の当たりにしてその恐怖でイの一番で逃げ出した長妻であった。恐怖を拒否反応する身体と、あの時自分がどうにかしなければならなかった責任感でこの場所で何とかとどまっていた。裕市が粗利を見回してもこの場所で人と呼べるものはもはや彼しかいない。

 「ビーガル、彼に念をおくるんだ。」

 とっさの判断だった。裕市にとっては藁をもすがる思いだったといっていい。態勢を立てなおしたビーガルにとっても今は裕市に従い腰の抜けた長妻の元へ向う他なかった。

「何なんだ、君たちは・・・?」

 すでに異世界の中にいる長妻にとってすでに死んだようなものだった。

 「すでに腰が抜けてるぞ。」

 ビーガルは期待できなかった。そう思いつつビーガルは男に手をかざした。七瀬めぐみよりもかすかだが、光が溢れた。あの時同様、怪物化したユリ子に光の道を造った。男は震えていて何も言えない。せっかくの架け橋は吊り橋のように不安定にぐらついていた。怪物はその怒りを買ったのか、ドスの利いたような野太い声で叫びだした。

 「ダメか・・・。」

 裕市もビーガルも同じ言葉でシンクロした。テープ内のカビを取込み怪物はその姿を大きくさせた。それに比例して裕市の絶望も大きくなったが、いまだに長妻から発せられる不安定な架け橋が怪物に通じていることに違和感を覚えた。

 「もしかすると・・・。」

 裕市はビーガルにそのまま長妻への搬送波の供給を続けさせた。長妻の震えは止まらず何も語らないが、どうやらその想いだけは依然として怪物と化したためユリ子へ供給されているようである。

 裕市はビーガルに近寄り手をかざすとその想いを感じ取った。それは先のスタンバイ時に語った将来の姿。ユリ子が海外のシアターで喝采を浴びている。そんな姿が、語られたユリ子を長妻が想像させたものであった。

 「そうか・・・その姿であってもあなたは歌いたいのですね。」

 考えてみると、再びスタジオを破壊して外へあふれ出た怪物は東に向かって叫んでいる。それは海を通じて自分の将来まで届かせているようだ。悲鳴のような声はさらに続き、さらに届かせるようにその体を更に大きくした。あたりにいる人々は騒音ともいえる声に皆が苦しんでいる。ビーガルは警戒した。

 「これでは世界中の人間が、苦しむぞ。」

 ふたたび怪物と戦う意気込みを見せるビーガルを裕市は制止した。

 「いや、このままでいい。この世界の人間はみな、記録媒体だから心配することはない・・・そうだろ?」

 「そんな・・・。」

 「世界中を敵に回しても、守らなければならないものがある。って言葉も昔からあるから・・・。」

ビーガルは裕市がこの狂気を肯定的にとらえる楽観的思考が理解できなかった。だが裕市には今度こその確証をつかんでいた。おもちゃを買ってもらえず泣き叫ぶ子供がやがて泣き疲れるがごとく、怪物にもその声が徐々に静まってきた。海の向こうからは何も返事がない。むしろ足元を見ると自分の叫びで苦しみ倒れている現実がある。

 「みんなが苦しんでいる。そんな姿で歌ってもあなたの夢はつかめない。」

 裕市はつぶやいた。

 声が途切れたことによって、みるみる目の前の怪物は縮小している。併せて、肉体は元の健康体に戻っていった。

 戦いは終わった。玉枝ユリ子は魂の抜け殻のようにへたり込んでいる。どうやらこれまでの記憶がないようだ。ただ一つ覚えていることは・・・。

 「わたし・・・めぐみに謝りにいかないと。」

 全ての血が通い合わせたことを確認して、玉枝ユリ子は長妻を通り抜けてめぐみのもとへ向かった。裕市は単純に図式を立ててユリ子と長妻の組み合わせを考えてもみたが、あっさりと通り抜けたので拍子抜けした。そう簡単に人の仲から運命は生まれないものである。


 テープの復元作業が終わり、裕市はリマスタープロジェクトのメンバーとともに試写室にいる。サビカビのない完成された映像からは、当時の番組の映像が鮮明に映し出される。まるで裕市があの世界でしてきたことが夢だったかのようだ。歌声からはパワフルながらも低音なブルースは古さと暗さで裕市にとっては退屈なものだった。

 「友情と愛情を壊して彼女はこれでよかったのだろうか?」

 ネット検索すると、玉枝ユリ子は日本で二枚のシングルを発売してスマッシュヒットを立てた。その後やはり渡米して歌い手としての実力を更につけて日本に戻ってきたが、日本はテレビを通じてのポップスブームが確立しており、歌の実力だけでは物足りない風潮であった。結婚引退したもののそれが故で伝説となった七瀬めぐみとは対照的に玉枝ユリ子は影を歩き続けた。だが裕市の仕事はそれまでである。七瀬めぐみと玉枝ユリ子のその後の友情までには興味を持つわけでなく自分が行うリマスター作業の一要素にすぎない。


数日後、修復したテープがチーフの仁王から依頼主の平今日子に手渡された。この日も今日子は和装でまとめて凛とたたずんでいる。周りには裕市も含め、ライブリマスターの面々が並んでいるが、顔見知りの仁王以外、目を合わせることはなかった。

「どうもありがとう。」

 その時、裕市が聞いた今日子の言葉はこれぐらいである。夫人は一つ礼をして去っていった。あの番組が再び公開されることはあるのだろうか。

「やっぱり、命を預けるには割が合わないな・・・。」

 裕市は今日も言い聞かせる。



第二話終わり-

前回から間が空きましたが、次回以降はコンスタントに投稿する予定です。

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