追放&ざまぁへの一考察
今更ながら、流行りに乗っかって見ようと思います。( ̄▽ ̄)//
周回遅れも甚だしいですが、お付き合いくださいませ。
突然ですが、私には興味のある学問が一つあります。
それは、文化人類学です。
しかし、残念ながら日本ではあまり盛んな学問ではありませんし、研究されている大学等も、私がやってほしい所にスポットライトを当ててくれません。
真面目な研究機関が行っている文化人類学とは「アイヌの研究」であったり「アボリジニの研究」であったりと、私が知りたいことを研究してくれません。
非常に不満です。(;´・ω・)ぶぅ。
私が知りたいのは、今の日本人の文化人類学なのです。
ただ、これは色々と難しいのは理解できます。
この手の研究は、社会批判の要素を含みますので、劣等性の指摘やレッテル張りに悪用されることは明白。
公的な研究機関ほど、及び腰になるのは仕方ありません。
現代風俗の文化人類学の研究は、在野の有識者に頼るしかないのが現状で、数も少なく、個人的見解の域を出ません。
日本では盛んでない学問と言わざるを得ないでしょう。
と、いう訳で、ここで私めが、超個人的見解を文化人類学と言い張っても、否定することは出来ないのだ。
( ̄▽ ̄)//ナハハ。
それでは、堅苦しい前置きはこれぐらいにして、加藤良介的文化人類学なろう編の、始まり始まり~。
では、今回のテーマは小説家になろうにおける追放&ざまぁに関して考察していきたいと思います。
あっ、大丈夫ですよ。悪口とか言いませんから。これらがお好きな人も安心して読めると思います。
さてさて、2020年ぐらいから人気が急上昇した「追放&ざまぁ」系譜の小説ですが、正直に言いますと、あまり読んだことがありません。
個人的な嗜好ですけど、ストーリー展開に興味が無いのよね。(/・ω・)/
しかし、なぜ、流行っているかには大いに興味があります。
でも、自分で読むのはしんどいなぁ。( ̄д ̄)//
そんな横着者の私に強い味方が。
それがなろうのレビュー動画です。
昨今は便利なものでして、よーつべなどを漁れば、これらの作品のレビュー動画が沢山転がっています。
大体が悪口と申しますか、批判的な内容ですけど、基本的な設定とストーリーを分かりやすく紹介して下さるので、とても重宝致しました。
ではでは、追放&ざまぁを分解し、その中に何が眠っているのか掘り起こしてみましょう。
いつもの様に、細かいクロニクルは全カットで行きますので、ご了承ください。<(_ _)>
まず、主人公が追放されるところからが、スタートな訳ですね。という事は、なにかしらのコミュニティに所属していたという事です。
人は多かれ少なかれ、何かのコミュニティに所属しているものです。
そこから、基本的には不当に追放されますが、それは大した問題ではありません。ここに着目される方が多いですが、私は本質ではないと思います。
ここで注目すべきは、主人公を追放する集団が、とても小さいという事です。
国家でも民族でも地域でも一族でもなく、わずか数人の集団から排除されます。
ここに、現代日本人の持っている、社会への帰属意識が現れていると思います。
かつて日本人は、もっと大きな集団に所属していました。
大日本帝国とか海軍とか丹波の国とか、正確な人数が不明なほど、大きな集団の一員でした。
この、大きな集団から排除されると、生存自体が困難になるほどです。
しかし、なろうの追放物では、わずか数人の集団に所属しているだけです。
サークルとも呼べない程度の集団が多いですよね。
これでは、組織とは呼べません。
集団というよりかは、集まりです。そして、主人公はその中から排除されます。
なぜそのような小さな集団なのかと言えば、大きな集団に興味が無い事の表れではないでしょうか。
大きな集団だと、一人二人居なくなっても問題は起らない為、主人公を追放した後の集団が、落ちぶれるという演出が挟めないという都合もあるとは思いますが、そもそもとして、大きな集団への興味が希薄な印象を受けます。
もしくは、自分たちの上に展開している政府や会社、社会システムなどの巨大な組織については、見ないことにするのが、最近の風潮なのかもしれません。
主人公が数人の小さな集団に所属し、そこから追放される。これが今のリアルなのでしょう。
私は「追放&ざまぁ」は、都合の良い妄想ではなく、現代社会を映す鏡の一つだと考えています。
一昔前は、会社や学校、部活動なとど、ある程度の大きさの集団に所属していたのですが、昨今はそれらに所属することなく、気の合う数人の構成員で作るグループが、リアルな集団なのでしょう。
現実的に考えると、その様な小集団から排除されても、実質的な被害は軽微です。
数十年前の日本には、「非国民」などという強烈なワードがありましたから。これに比べれば、可愛いものです。
一度、非国民のレッテルを張られると、集団から排除などという生易しい処罰ではすみません。一家離散、本人は特高警察に逮捕され、獄中死も覚悟せねばなりませんでした。
追放される主人公は、元仲間たちから嫌味や嫌がらせを受けますが、穏便にお引き取り願う所は、まだ、良心的かもしれません。
現代社会においては、大きな集団への帰属意識は低く、小さな集団に帰属している意識が強い人が多いのでしょう。そして、その様な小さな集団が無数に存在するのが、現代のリアルなのです。だから、なろうで追放される主人公は、少数の集団から排除されるわけです。
昔に比べると、排除されたときの被害は軽微と言いましたが、小さな集団から排除される弊害もあります。
それは、新しい集団に入るハードルが高いという事です。
大きな集団が主流でであれば、同一集団内に知らない顔があっても違和感はありませんが、小さな集団ではそうはいきません。全員が顔見知りです。
また、大きな集団であれは、何かの拍子に、しれっと所属することも可能かと思いますが、顔見知りだけで構成されている集団への加入は、ハードルが高くなります。
余程の事が無い限り無理でしょう。
なろうにおける追放は、追放されることにより、主人公が他の集団への加入が難しいという、暗黙の前提があるのではないかと感じます。
現代社会は見知らぬ者「ストレンジャー」に対して、多いなる拒否感があるという査証ではないかと推察しました。
だから、追放されると困ってしまう訳ですし、追放することに意味があるのです。
現代日本における、コミュニティ間の流動性が低下しているのでしょう
追放物とは、日本人が昔から育んできた「村社会」が、今も日本人の心の中に根強く残っているという事の、表れなのかもしれません。
ここまで書いて、気が付きましたけど、一つ間違った引用がありましたね。
見知らぬ者を「ストレンジャー」と言いましたが、これは正しい訳ではありません。
この英単語は英語の先生に言わせると、日本語訳が不可能な単語だそうです。
辞書を開くと、見知らぬ人とか異邦人とか余所者と載っていると思いますが「stranger」には、前述の日本語に含まれる、ネガティブな意味は一切存在しないらしいです。
日本では余所者や見知らぬ人は、ネガティブな存在なのです。
だからこそ、追放されることに重みが出るのです。
アメリカ人には「追放&ざまぁ」の面白さは理解できないかもしれませんね。
この感覚は東アジア的なものだと感じます。
さて、追放された主人公ですが、このまま泣き寝入りだとお話になりません。
追放した集団に復讐、つまり「ざまぁ」をしなくてはなりません。
立ち直って、ビッグになる事が求められます。
永ちゃんにならないと駄目なのです。( ̄▽ ̄)//矢沢永吉の事です。念のため。
それも、追放した集団の、どこか知らない所で幸せになっても意味が無いのです。
彼らに出世した自分の姿を、見てもらわないといけません。
やはり、世界が狭いですね。
数人という小集団に、承認してもらうことが目的となっています。
銀河英雄伝説でラインハルトが、貴族連合を薙ぎ払う事に比べると、随分と小規模です。
個人を取り巻く社会が、ミニマム化している表れなのかもしれません。実際にはもっと大きなものに飲み込まれているという実感が、私には有りますが、彼らは姿を巧みに消しているので見えません。
そして、追放された主人公が新しく加入する集団も、決して大きくありません。
有象無象の子分がいるかもしれませんが、組織の態を成していないように思えます。
大きな組織と、小さな集団の最大の違いは、個人プレーが通用するかしないかの違いだと考えます。
頭脳系の個人プレーなら、大きな組織でも活躍できますが、魔法やスキルなどの個人プレーは、組織に与える影響が無しに等しくなるのが現実です。
このあたりは、ファンタジーなので、あれこれ言うのは野暮と言うものでしょうけどね。
また、復讐する対象の範囲が、わずか数人という小集団と狭い為、非常に主観的な小さなストーリーになりやすい。
王様や魔王みたいな、影響力の強そうなキャラも出てきますが、作品内での彼らは基本的に個人であって、組織人としては描かれません。
これは作者の方が知らないというよりかは、組織人に対して興味が無いのでしょう。
追放&ざまぁは、外の広い世界に対して閉じた物語に思えます。
これはネット社会が生み出した、副産物なのかの知れません。そして、そこに多くの読者がリアルを感じるのではないでしょうか。
そして、その閉じた小集団から、追放されてでも抜け出したいと思っているからこそ、追放&ざまぁが、多くの支持を集めるのではないでしょうか。
小さな集団には未来が無いという事です。
しかしながら、追放され抜け出した先で、また同じような小さなコミュニティを作るあたりが、面白いですよね。
そして、そのコミュニティは、以前所属していたコミュニティより少しだけ良い所。その中で主人公が大きな力が振るえるという事に、快感を覚えるのではないでしょうか。
実に奥ゆかしいと申しますか、慎ましい願望です。
勇者パーティーを追放された主人公が、外務省、統合外交政策局(軍縮とかに関わる部局みたいです)局長になる作品が有ったら読んでみたいものです。
勇者パーティーと日本国外務省。組織としては比べるまでもない、隔たりがありますよね。この、キャリア官僚の出世コースの職に就任しても、勇者パーティーと暮らしているステージが違い過ぎて、関わり合いがありません。
つまり、ドヤりようがないのです。
彼らに認識されない場所で、出世しただけです。
( ̄д ̄)//これでは、相手に勝ったとは言えない。意味が無いのです。
相手より強いが、同質の小さなコミュニティーで幸せになる。そして、それを相手に認識させる。
ここに、21世紀の日本のリアルがあるのではないでしょうか。
もう、かつてのような経済成長は見込めず、衰退していく日本。その中で個人的な小さな幸せを掴んでいくが、これからの日本人の生存戦略なのかもしれません。
未来が明るいと言えない日本という集団の中で、身近な存在に対してのみ、勝敗を決していくミニマムな世界観の表れが「追放&ざまぁ」の隆盛ではないのかと考察いたしました。
「立てよ国民!!」
誰も立ちませんよ。富野さん。みんな足腰弱ってるんですよ。ジークジオンは余所でやって下さいな。
( ̄▽ ̄)//あっ、悪口じゃないですよ。
あくまでも、文化人類学的に考察した結果でございます。
以上が「追放&ざまぁ」への一考察でございました。
終わり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
同じような論説と言い回しが、重複してしまいました。申し訳ございません。
ご意見、ご感想などございましたら、お気軽にどうぞ。基本的に返信いたしております。