恋に『溺れる』
ぷくぷくぷく。
ぷくぷくぷーぷぷぷ。
ここは深い海の中。
お魚さんたちが、こいつは何だろう? とそのお口でつんつんと、翠狸をつついています。
くすぐったくて、思わず笑ってしまいましたが、呼吸に問題はありません。
しっかり酸素ボンベを背負い、ダイバースーツを身にまとっているため、安心安全です。
そう、今回の目的はずばり、『溺れる』体験です。
しかし、先の愚行以上の危険を冒すことを、紅狐がゆるすはずもなく。
百歩譲って、ダイビングをすることで落ち着いたのでした。
水の中で光が反射して、不思議な彩りを醸し出しています。
地上で暮らしている生きものにとって、水の中は、未知の空間と言えるでしょうか。
翠狸も例外でなく、初めて見る景色に、息をのんだのでした。
群れをなして、水中を勢いよく泳ぎまわる魚たち。
あんなにたくさんいるのに、よくぞぶつかり合わないものです。
海の底、岩の上をのっそりと歩く蛸。
口を固く閉ざした貝。
鮮やかな色のサンゴや海藻。
その他、名前も分からない数々のものたちが、たえず息づいていました。
手足の短い翠狸は、あまり自由に泳ぎ回ることはできませんでしたが、同行した紅狐がうまいこと誘導してくれたおかげで、さまざまな美しい景色を見ることができました。
趣旨は少しずれてしまいましたが、これはこれで、貴重な体験となりました。
新たに生まれたあたたかい感動を胸に、翠狸と紅狐は手を取り合って、ゆっくりと浮上していきました。
「すごかったなあ……! 出てきたばっかりなのに、もっかい潜りたくなっちゃうな!」
「本当だね。その内に、また来ようか」
海から上がり、翠狸は満足げにぷーっとお腹を膨らませて、砂浜にころりと仰向けに寝転がっています。
そのお腹をつつつと紅狐がくすぐって、きゃっきゃとしばらくいちゃついてやがりました。
「ぼく、考えたんだ。そもそも何で、恋に『溺れる』のか。
恋することって、泳ぐことと似ているのかもね?」
ひとしきりじゃれ合った後で、落ち着いたのか、おもむろに翠狸が話し始めます。
「未知の世界に飛び込んで、あるいは落っこちて。
慣れ親しんだ日常、地上とは違う、恋っていう自由の利かない水の中で、もがいて、泳いで。
経験を積むと前よりうまくやれるらしいのは、泳ぎが上達していくようなもんかな」
砂の上で、すいすいと泳ぐジェスチャーをとっていましたが、今度はぴたりとその動きを止めて、言葉を続けます。
「溺れるのは、何かにぶつかったり、足を取られたり。あるいは泳ぎ続けることを諦めてしまったりするから、かなあ。自分の自由を、明け渡してしまう。
生まれついて、魚みたいにすいすい泳ぎ回れる人もいるだろうけど、多くはそうではないし。また水場だって海や川や沼や湖ってふうに様々だし、水質だっていろいろだから」
「自分に合った水を、見つけていければいいんだろうな。
そういや、水が合う、なんて言葉もあったね」
そうちいさく呟いて、翠狸は海を眺めながら、波の満ち引きの音に合わせて、ゆらゆらと左右にからだを揺らしています。
そんな翠狸をながめながら、紅狐も少し、『溺れる』ということに、思いを馳せていました。
――魚は、地上ではうまく息ができないから。
恋をしたら、それこそ水を得たように、全てがうまく回りだす。そういうこともあるのかもしれない。
特に、私のようなものにとっては――
恋をする前こそ、空気に溺れていたようなもので。
恋をしたからこそ、ようやく呼吸ができるような。
そんなことを思いながら、いつもそうしているように、紅狐は翠狸を、後ろからぎゅっと抱きしめたのでした。




