あなたに、
フレドリックとエレンの交流は、緩やかに続いた。
夜会で会えば和やかに会話をし、時には一緒に出掛け、ご飯を食べる。フレドリックと過ごす時間はとても穏やかで、心地よい。彼が婚約者になってくれたら、どれほど素敵だろうと思う。
そう、確かに思うのに。
「…ねえ、マッシュ。私、なんだか最近おかしいの」
「きゅぅん?」
マッシュを撫でながらエレンがそう話しかけると、マッシュは不思議そうに顔を傾けて、つぶらな黒い瞳でエレンを見つめた。
普段のエレンなら、そんなマッシュの仕草にメロメロになり、たちまち笑み崩れただろう。だが、今のエレンはマッシュのそんな愛らしい仕草を見ても、表情は浮かないままだった。
普段とは違う主人の様子に、マッシュは不安そうにすりすりと頭を摺り寄せる。
まるで「大丈夫?」と言ってくれいるようで、エレンの顔にほんの少しだけ笑みが戻った。
「フレドリックさまはね、とっても素敵な方なのよ。私には勿体ないくらいの。とても優しくて、紳士的で、穏やかで。フレドリックさまとお話をしていると、とても落ち着くの」
え、それってロブがヤバイんじゃない?
そうマッシュは思ったが、エレンの様子は初めての恋に浮かれている様子ではなく、むしろなんだか落ち込んでいるようで、マッシュは首を傾げるばかりだ。
「私と話していると楽しいって、そう仰ってくださるのよ。私もフレドリックさまとお話するのはとても楽しいわ。でも…でもね…」
エレンはそこで言葉を区切り、おもむろにマッシュを抱き締めた。何かを堪えるようにマッシュをぎゅっと抱き締めるエレンに、マッシュはおろおろとした。
いつもならエレンがマッシュを抱き締めると幸せそうな笑みを零すのに、今日のエレンはそれとは正反対に辛そうだ。マッシュはそんなご主人様の様子が心配でならなかった。
「フレドリックさまと一緒に過ごしていても、いつもロブのことばかり浮かぶの…ロブだったらどうしたのかしらって、そんなことばかり…。私って最低ね」
エレンは自嘲気味に呟き、マッシュから離れる。
マッシュは「きゅぅうん…」とエレンをじっと悲しげに見つめた。
「私を心配してくれているの、マッシュ? あなたは本当に良い子ね…あなたのご主人様はとても悪い子なのに」
「わんわん!」
そんなことはないと否定するように吠えたマッシュに、エレンはほんの少しだけ表情を綻ばせた。
「ありがとう。マッシュはとても賢くて優しい子だわ。私の自慢よ」
「わん」
「ふふ、そうね。当然の事だったわね。……ね、マッシュ」
「わふ?」
「ロブは…最近あなたに会いに来ている? 私は最近、ロブの姿を見かけないの。あの夜会からかしら…いつもはうんざりするくらい姿を見かけるのに、もう何日も姿を見てないし、あの夜会から話しすら一回もしていないのよ。…だから、ロブのことばかり考えてしまうのかもしれないわね」
マッシュを撫でながら、エレンはそう言い訳を口にする。
(もしかして…私、ロブに避けられている…?)
そんな可能性が不意に浮かび、エレンはまさか、とすぐに否定する。
ロバートに避けられるような行動をエレンはしていないはずだ。言い争いをしたわけでもないし、ロバートに避けられる理由がエレンには思い当たらない。だからそれはきっとエレンの気のせいなのだと、エレンは自分自身に言い聞かせた。
ある日、公園で散歩をしませんか、とエレンはフレドリックに誘われ、憩いの場として多くの人々が利用している公園へ赴いた。
フレドリックはエレンをしっかりとエスコートしつつ、青空を眩しそうに見つめた。病弱だった彼は滅多に外で青空を見ることがなく、こうして外に出るたびによく青空を見上げていた。
それを知っているエレンは微笑ましく思い、ついくすりと笑みをこぼしてしまった。するとフレドリックはさっと顔を赤くして恥ずかしそうに「すみません…」と謝った。
「謝る必要はありませんわ。今日はとってもいい天気ですもの。青空を見上げたくなる気持ちはわかりますわ」
「そう言って頂けると助かります」
ほっとしたように微笑むフレドリックにエレンも微笑み返す。
それから二人で他愛のない会話をしながらゆっくりと公園を歩いていると、見知った人物を見つけて、エレンの足が止まった。
「エレン嬢…? どうかなさいましたか?」
一点を見つめて突如立ち止まったエレンに、フレドリックは不思議そうな顔をし、エレンの視線の先を見つめた。
「…ああ。彼は確か…あなたの…」
フレドリックが何かを言う前に、エレンが見つめていた人物がこちらに気付き、爽やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「やあ、こんなところで会うなんて、運命かな」
「ロブ……」
どこか呆然とした顔でエレンはロバートの名を呼んだ。
いつもなら「なにを言っているの」と呆れた顔をするところ、そんな反応すらもエレンは出来ないでいた。
それというのも───
「ロバートさま、この方は、どなた?」
ロバートにぴったりとくっついて寄り添う、可憐な令嬢の姿があったからだ。
令嬢は可愛らしく首を傾げ、世の男性が魅力的に思うであろう表情で、ロバートに甘えるように訊ねた。
「ああ…彼女は俺の幼馴染みである、エレン・ルース伯爵令嬢だよ。エレン、こちらはクリスティネーテ・ビンデバルト侯爵令嬢だ」
「初めまして、エレンさま。クリスティネーテと申します」
「…初めまして、クリスティネーテさま。エレン・ルースと申します」
「ふふ…わたくし、ロバートさまにとてもよくして頂いておりますのよ」
「まあ、そうですの」
ふふ、とエレンは微笑むがその笑みはとてもぎこちない。
そんなエレンをフレドリックは心配そうな顔をして見つめていた。
「…エレン。そちらにいるのは、誰?」
エレンとクリスティネーテの会話にロバートは割って入り、問いかけた。
それにエレンはハッとした表情をし、取り繕うように微笑んだ。
「まあ、紹介が遅れてごめんなさい。こちらはフレドリックさま。わたしにとてもよくしてくださっているの」
「フレドリック・ギルグットと申します」
「ロバート・スペンサーだ。君のお兄さんとは仲良くさせて貰っているよ」
「兄をご存じでしたか」
兄、という言葉にフレドリックは嬉しそうな表情を浮かべた。
しばらくフレドリックの兄ついてロバートとフレドリックが話ていると、クリスティネーテはふふっと笑いを零した。
「…どうかしたの、クリスティネーテ嬢?」
「いいえ、なんでもありませんの。ただ、フレドリックさまとエレンさまはとてもお似合いだと思いまして。ロバートさまもそう思いませんこと?」
無邪気に笑って言うクリスティネーテに、エレンの心臓がどくんと飛び跳ねた。
(ロブは…なんて返すのかしら? そうだねって肯定する? それとも…)
そこまで考えて、エレンはなにを考えているのだろう、と思い直す。
ロバートがどう答えようといいではないか。なのにどうしてロバートの答えが気になるのだろう?
「…そうかな。俺はまだフレドリックに出会ったばかりだし、俺に二人がお似合いかどうかなんて判定はできないよ」
ロバートがそう答えると、クリスティネーテは面白くなさそうな顔をした。
きっと彼女はそうだねと肯定して欲しかったのだろう。
一方のエレンは、なぜか泣きたくなるほどほっとしたのを感じた。
(どうして…どうして、わたし、こんなにほっとしているの…? わたしは、ロブにフレドリックさまとお似合いだと肯定してほしくなかった…?)
エレンが自分の気持ちに戸惑っている内に、ロバートとクリスティネーテは立ち去ろうとしていた。
エレンはそれに慌てて、作法も忘れて大きな声てロバートを呼び止めた。
「ロブ!」
ロバートは驚いたような顔をして振り返った。その横でクリスティネーテがエレンを睨んでいたが、気にならなかった。
しかし、呼び止めたものの、なにを言えばいいのかわからず、エレンは急いで言葉を探した。
エレンとロバートの共通点といえばマッシュのこと以外にない。だから、エレンはマッシュのことをだしに使うことにした。
「マッシュが、寂しがっているの。今度はいつ、来てくれる…?」
やっとの思いで出た言葉にエレンはなんて自分は可愛げのないんだろう、と思った。寂しがっているのはマッシュではない。なのにそれをマッシュに置き換えて言う。
「…そうだな。最近行けてなかったから…近いうちにお詫びのビスケットを持ってお邪魔するよ」
「わ、わかったわ! そう、マッシュに伝えておくわね」
元気よく答えてしまい、エレンはそんな自分が恥ずかしく顔を赤めた。
ロバートはそんなエレンを見て、くすりと優しく笑った。
「よろしく頼むよ、エレン」
そう言ってロバートは今度こそ去っていった。
それを呆然と見送ったエレンに、フレドリックが優しく声を掛ける。
「…良かったですね」
「え?」
なんのことなのかわからず、エレンは思わずぽかんとした顔をすると、フレドリックは困ったような、少し悲しそうな笑みを浮かべて言った。
「彼と仲直りができそうなんでしょう?」
「え? 仲直り…? ど、どうして…?」
「お二人の会話を聞いていて、なんとなくそう思ったのですが…違いましたか?」
エレンはフレドリックの問いに戸惑った。
別にロバートと喧嘩をしていたわけではない。ないのだが、そういうことになる、のだろうか?
戸惑っているエレンを見て、フレドリックは小さく「……これでは勝てない、かな」と呟いたが、エレンの耳に届くことはなかった。