例えば、この関係が変わったとして、
幼い頃から今まで、数えきれないくらい通ったこの道は、ロバートにとってすっかり馴染んだ道のりだった。
そして辿り着いたのは白亜のよく手入れのされた屋敷。
慣れた足取りで家の中に入って家人に会っても誰もなにも言わない。ロバートがここへ来るのは昔からの習慣のようなもので、会えば「まあ、いらしていたのですね。どうぞごゆっくり」と笑顔で挨拶をされるくらい、ロバートはこの屋敷に馴染んでいた。
そんな馴染み深い屋敷の門をくぐり、玄関に辿り着く前に左へ曲がる。勝手知ったる様で庭を歩いていると、ロバートの目的地が見えてきた。
目的地が近くなると、自然とロバートの頬が緩む。
「わん!」
「やあ、マッシュ」
ロバートを見つけ、はち切れんばかりに尻尾を振ってロバートに駆け寄る彼の姿はとても愛らしく、顔がにやけてしまうのは無理のないことだろう。少なくとも、ロバートとエレンに限ってはそうだ。
愛らしいと思うものの前ではすべからく笑顔になれる。つまり、『可愛いは正義』ということである。
「今日も君は素敵だな」
「わふ!」
当然! と言わんばかりにマッシュは鳴く。そして期待した眼差しでロバートを見つめる。
きっとお菓子か玩具を期待しているのだろう。しかし残念なことに、今日は手ぶらだった。あまりマッシュに物を与えるとエレンが煩いのだ。
「ごめん。今日は何も持ってないんだ…また今度持ってくるから、な?」
「きゅぅん…」
ロバートが屈んでマッシュの触り心地の良い頭を撫でると、マッシュはしゅんとして落ち込んだ。
彼は人間の言葉を理解しているようだ。なんて賢い子なのだろうかと、愛おしさが倍増したのは言うまでもない。
マッシュは項垂れるようにして下げた顔をすぐに上げ、はふっとロバートの服の袖を噛んで引っ張る。それはまるで「遊んでよ」とロバートに強請っているようで、ロバートは堪らずマッシュを撫で回した。
「なんて可愛いんだ、君は! やっぱりエレンなんてやめてうちに来ないか。エレンよりも可愛がるから」
わしゃわしゃとマッシュを撫でまわすと、マッシュはとても嫌そうな仕草をした。「毛並みが乱れるからやめろ」と言いたいのだろう。
だけどそんな嫌がる様子ですらロバートにとっては可愛らしいのだから、ロバートは重症に違ない。
この症状に名前を付けるとしたら『マッシュ病』となるだろう。なにせ、マッシュ以外にはこんな風にならないのだから。それだけマッシュが愛らしく魅力的だということだ。可愛いは正義だが、可愛すぎると罪になるのだ。
ロバートはしばらくマッシュと戯れ、心癒された。
マッシュとこうして過ごすのロバートの心癒さられるひと時だ。例えエレンに嫌がられようがマッシュに会いに来るのをやめることはできない。それがなくなったらロバートの癒しがなくなってしまうからだ。
それと、口実も。
「なぁ、マッシュ。俺はどうすればいいと思う?」
「わふ?」
マッシュは可愛らしく首を傾げ「なにが?」と言うようにロバートを見つめた。
その愛らしさに憂い顔をしていたロバートの口角が僅かにあがる。
「なぜなのか、エレンの前では素直になれないんだよ。……エレン以外のレディの前ではすんなりと言えることも、なぜかエレンには言えない。会えばいつも喧嘩になるし…なんでだろうな?」
喧嘩したいわけじゃないんだけどなぁ、と呟くと、マッシュが「わん!」と鳴く。
「まあまあ、元気出せよロブ」と励まされているような気がして、ロバートは表情を緩めて「ありがとな、マッシュ」と彼の毛並みを撫でた。
「マッシュは優しいな。…いや、本当はわかっているんだ。俺はきっと今のこの状況に甘えているんだ。なにせ、エレンの一番傍にいるのは俺だからな。エレンを狙う奴らには常に牽制してるし、相手がこの俺だと知っていながらエレンに手を出そうとする奴はそうはいない。例えエレンにただの幼馴染みだとしか思われていないとしても、俺以上にエレンに近い奴はいない。その状況に甘えているんだ。下手にエレンに気持ちを伝えるよりもこのままでいた方がってな」
「グルルゥ…わん!」
「情けないって? その通りだ。俺は情けない臆病者なんだ…笑えるよな。あの、ロバート・スペンサーが実はヘタレだった、なんてな」
はは、と情けなく笑えば、マッシュは頭をすりすりとロバートに擦り付けてくる。きっと彼なりの励ましなのだろう。本当に、彼はとても賢い。
「…このままじゃいけないって、思ってはいるんだ。いつまでもこのままじゃいられない。今はまだ小父さんたちが待ってくれているからいいが、いずれはエレンも…」
きっと婚約者が出来てしまう。
エレンは傍目から見ても可愛らしい令嬢だ。そんなエレンを狙っている男は少なくない。
今はロバートの牽制が効いているからエレンに近づく男はいないようだが、それもいつまでもつのかわからないのだ。急がなくてはならない。そうわかってはいる。
だけどもし、エレンに嫌がられたら? 婚約なんてしたくないと言われたら…そう考えると恐怖が先だって行動に移せない。今の関係が心地よく感じているからこそ、なおさら。
「…それに、今さら…」
「ロブ!?」
小さく呟いたロバートの言葉は、エレンの驚いた声でかき消された。
顔を上げて辺りを見渡せば、怒った顔をしてこちらに駆け寄ってくるエレンの姿があった。赤いようにも見える、不思議な色合いの艶やかな金髪を靡かせて、大きな夜明けの空のような淡い紫色の瞳は怒りで燃えている。
そんなエレンの姿が眩しくて、思わず目を細めて微笑む。
今日こそは、他の令嬢たちにするような、スマートで紳士なことを言うのだ。そう思って口を開いたはずなのに───
「やあ、エレン。君は相変わらずのお転婆だな。駆け寄るなんて淑女のすることとは思えない」
「余計なお世話よ! それに、あなたの前で淑女らしくしても無意味だもの。それよりも何しに来たの? まさか、マッシュを奪いに…!?」
マッシュに近寄らないで、とまるで威嚇をする猫のようなエレンの様子に、肩を竦める。
普段と変わらないやり取り。なぜエレンの前では素直に言葉が出ないのだろう。他のレディたちの前ではすんなりと出る誉め言葉も、エレンの前では少しも出ない。
好きな子を前にすると意地悪をしてしまう子供のような自分の態度に呆れてしまう。もう子供といえるような歳ではないというのに。
「…ねえ、ロブ」
「なんだ?」
「もし、もしも……」
エレンはなにかを言いかけて言葉を噤んだ。ロバートには遠慮なくはっきりと言うエレンにしては珍しいことだ。よほど言いにくいことなのだろうか。
「……ううん、やっぱりなんでもないわ」
「は? 何か言いかけてただろう」
「なんでもないの、気にしないで。………やっぱり、あり得ないもの…」
「?」
エレンは俯き、小さく呟いた。しかしすぐに顔を上げてキッと俺を睨む。
「それよりも、いいのかしら。あなたを待っていらっしゃる方がいるのではなくて?」
嫌味たっぷりに言うエレンに、ロバートは頭を抱えたくなった。この様子だと、またロバートに関する良くない噂でも聞いて来たのだろう。まあ、その噂も大半は嘘ではない。噂のもとを作っているのは、他ならないロバート自身だ。
現在、ロバートは王太子殿下の側近として殿下に仕えている。その側近としての仕事のひとつに情報収集というものがある。殿下の欲しい情報、殿下にとって有益になりそうな情報、はたまたは殿下への不穏な動き…それらを調べ、殿下に報告するのがロバートの仕事だ。
その調査のひとつにはレディたちの噂話も入っている。女の噂話と侮るなかれ。彼女たちの噂話は時に諜報員をも凌ぐ。まったくのでたらめな事も多いが、彼女たちの噂話は時に貴重な情報源となる。それだけでも十分に彼女たちの噂話は聞く価値があると判断されたのだ。その噂話を聞く役目はロバートに任され、役目を果たす過程でロバート自身が噂になることが多々ある。
だが、それは仕事の一環で、好き好んで噂のもとを作っているわけではない。世の中には向き不向きというものがあり、たまたまロバートがレディたちの相手をするのに向いていただけなのだ。レディたちの相手をするのは嫌いではない。だからこの仕事は自分に向いていると思う。
そう思うのも事実だが、それによりエレンの風当たりが強くなってしまうのは困りものだ。
「エレンは、嫉妬をしているのかな」
「は…?」
「最近、あまり構ってあげてなかったからなぁ。大好きなお兄様に構って貰えなくて寂しいんだろう?」
「そ、そんなわけないでしょう! あなたって本当に自信過剰すぎるわ! いつか刺されるわよ」
半分くらいはそうだったら嬉しいという願望だったのだが、どうやらロバートのその願いは果たされなかったらしい。代わりにエレンを怒らせてしまったようだ。
顔を真っ赤にして怒るエレンも可愛いなと思いながら、ロバートは肩を竦めた。
「レディに刺されるのなら本望だ」
「最低…」
心底軽蔑をした目で見られて、少し堪えたがエレンがそんな風に人を見るのは自分だけだと思えば耐えられなくなくもない……ような気がした。
とにかくエレンがこんな風に気軽に接する異性はロバートだけだ。この関係はとても心地良く、ずっとこのままでいたいと思ってしまう。
例えば、この関係が変わったとして、そうなればこんな風にエレンと軽口を叩くことはできなくなるのだろう。マッシュを愛でたり、取り合ったり、そんな子供のようなやりとりも出来なくなる。
それがとても嫌で、怖い。
このままではいられない。だから近い未来、エレンに想いを告げなければならない。拒絶されようと受け入れられようとも、それだけは揺るぎない決定事項だ。ただ、それがいつかは未定なだけで。
(頼む、エレン。どうか俺を受け入れて)
声に出さずロバートはそう、エレンに向かって叫んでいる。
マッシュが「きゅぅん…」とロバートを心配そうに見ていた。