例えば、それが恋だとして、
エレンの一日はマッシュに会うところから始まる。
朝起きて着替えて、朝食の前にマッシュに会いにいっておはようのキスをする。
愛くるしいその毛並みをぎゅっと抱き寄せて堪能し、堪能し過ぎてメイドにいい加減にしてくださいと怒られて、渋々とマッシュから離れるところまでやらないとエレンの一日は始まらない。
となると当然一日の終わりもマッシュがいないと終わらないことになって。
つまるところ、エレンの一日はマッシュで始まってマッシュで終わるという、マッシュ一色な一日なのだ。
なんて贅沢で素晴らしい日々を過ごしているのかしら、とうっとりしてしまう。
きっとこんな素晴らしい生活を送っているエレンは世界一幸せで、誰もが羨ましいと、羨望した目でエレンを見つめるに違いない───
「………そう思うのはあなたとロバートさまくらいだと思うわ…」
「まぁ。そうかしら?」
こてん、と首を傾げてエレンはポーラを見た。
ポーラは心底不思議がっているエレンに呆れ顔をして、「エレンは相変わらずね」と笑った。
ポーラはエレンの事を理解できないと言うけれど、エレンにしてみればポーラの気持ちこそわからない。
だってマッシュはあんなにも愛くるしいのに。
粒らな黒い瞳も、ふわふわとした触り心地の良い毛並みも、くるんとした尻尾も、きゅっと引き締まったお尻もどれも可愛い。マッシュよりも可愛い存在などこの世に存在しないと信じて疑っていないし、異論は決して認めない。
「…ロバートさまも相変わらずエレンの家に通っていらっしゃるのね」
「そうなの。相変わらず私の可愛いマッシュを狙っているみたいなのよ」
許せないわ、とついつい力を込めて言ってしまう。
ロバートとはいわゆる幼馴染みという関係で、ロバートの父とエレンの父が親友同士だというのが、エレンとロバートとの関係の始まりだ。まあ、よくある関係でもある。
ロバートはエレンよりも4つ年上で、チョコレート色の髪と琥珀のような綺麗な瞳を持つ、客観的に見て美形という分類に入る青年だ。
常に優しそうな紳士的な笑みを浮かべていて、尚且つ侯爵令息という肩書を持つ彼に熱をあげている令嬢は数多にのぼり、ロバートもロバートでそんな令嬢たちと楽しく過ごしているようなのだから手に負えない。
エレンの耳に入る彼の噂の恋人の名は毎回名前が違う。本当にどうしようもない人だわ、とエレンはその噂を聞くたびに呆れてしまう。
会うたびに「いい加減、誰かと真面目にお付き合いしてみたらどうなの」と言っているのだけど、ロバートは気取った笑みを浮かべて「それは無理だな。どのレディも素敵すぎて俺には選べない」なんてのたまうのだ。本当に腹が立つったら。
だけど彼がそれを言うとなんとなく許せるような気がする、とはポーラの意見だ。だけどエレンは絶対に許せない。どんなに美形だろうとも、あんな不誠実な人は人としてどうかと思う。
「…あんなひと、ベッドの角にでも足の小指をぶつければいいのだわ」
「それは地味に痛いわね」
ぷんぷんと怒って言うエレンにポーラは苦笑した。
ポーラは自分の目の前に置かれたカップを優雅に持ち上げ、ほれぼれとする所作でそれを口に運ぶ。
彼女は社交界でも一目置かれている存在であり、いずれはこの国の王妃となる人だ。
そんなポーラと私は親友同士。ポーラとの出会いはエレンの社交界デビューだった。
社交界デビューでがちがちに固まっていたエレンに気を遣ってポーラが話しかけてくれたのがきっかけで、そこで意気投合し、今ではなんでも言い合える仲となった。
楚々として優しくて、美人。ポーラはエレンの自慢の親友だ。
「でも、ロバートさまもエレンも仲が良いわよね」
いつもエレンのエスコート役はロバートさまだものね、とポーラは何かを含んだ笑みを浮かべてエレンを見つめた。
エレンはぶすっとした顔をして「…だって、しょうがないじゃない」と呟く。
「…お父様が勝手にいつも彼に頼むのだもの。私はトーマスがいいのに」
トーマスとはエレンの弟の名前である。エレンより2つ下の弟はとてもよくできた弟だ。
そう、とてもよくできた弟なのだけど、弟はなぜかロブを兄のように慕っているのだ。それが唯一ある弟への不満だ。
エレンがエスコートはトーマスがいいわ、と父やトーマスに言っても取り合ってくれない。それどころかトーマスには「僕よりもロブ兄さんの方が姉さんに合っているよ」と笑顔で言われる始末なのだ。本当にどうして二人ともロブの味方をするのか。エレンとしては裏切られたような気分だ。
「でもエレン。あなた、ロバートさまと一緒にいるととてもいきいきとしているわよ」
「それはそうよ。だってロブったら嫌味ばかり言うんですもの。その対応をするのに燃えてしまって」
エレン以外の令嬢には甘い言葉を囁く癖に、エレンには甘い言葉どころか辛辣なことばかり言ってくる。本当に腹が立つったらありはしない。
「…本当に困ったものね、ロバートさまも」
「ええ、本当にその通りよ」
少し呆れた顔をして呟いたポーラに力強くエレンが同意すると、ポーラはなぜか苦笑した。
エレンはなぜポーラが苦笑したのかわからず首を傾げた。
「ねえ、エレン。あなたが恋人にするならどんな人がいいの?」
「私が恋人にするなら?」
唐突に問われた質問にエレンは真剣に考え込む。
(そう。もし恋人にするのなら、やっぱり犬が好きな人が良いわ。マッシュと一緒に遊んでくれる、そんな人が)
「そうね…やっぱりマッシュを可愛がってくれる人がいいわ。マッシュと一緒に遊んでくれるととても嬉しい。これだけは外せないわね。マッシュを可愛がれない人なんて論外よ。あとは…そうね。一途な人がいいわ。それと優しい人」
考えに考えてエレンがそう答えると、なぜかポーラはとても嬉しそうに笑った。
「まあ、そうなの。とてもエレンらしくていいと思うわ」
「そうでしょう?」
ふふ、と得意げにエレンが笑うと、ポーラは含み笑いをして、上目遣いにエレンを見た。
「でも、ね。ねえ、エレン、あなた気付ている? あなたのその条件に全部ロバートさまが当てはまるってこと」
「え…? まさか。だってロブは一途じゃないでしょう」
一途な人が良い、というのは恋人の条件をあげるときに、マッシュの件の次に浮かんだものだ。
それは言外にロバ―トみたいな人はごめんだということを含めていたのだけど…。
エレンが戸惑ってポーラを見つめると、ポーラは慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「あなた、私を会うたびにロバートさまの話をしているわ。気付いていた?」
「そうだった、かしら…?」
自覚はまったくない。
エレンとしてはロブの話よりもマッシュの話ばかりしているつもりだったのだけど。
ああ、でもマッシュの話をすると勝手にロバートの話になってしまうから、そうなのかもしれない。
なにせロバートはエレンのマッシュを取ろうとしている悪い人なのだ。マッシュに会いにくるのも1日置きくらいのペースで、だからついつい彼に対する愚痴を言ってしまう。
「でも、ロブはあり得ないわ。彼は私にとってただの幼馴染みで、私の兄のような存在だもの」
「そう。でもあなた、ロバートさまの噂を聞くたびに嫌そうな顔をしているけれど?」
「それは…だって、嫌でしょう? 私の幼馴染みがそんな節操のない人なんて、恥ずかしいじゃない」
「本当にそうかしら?」
「もう、ポーラったら。何が言いたいの?」
「わたくしが言いたいのは、あなたがロバートさまに恋をしているんじゃないかってこと」
「私が、ロブに恋?」
ポーラの言った言葉にエレンは思わず目を大きく見開いて、何回も瞬きをする。
「まさか。あり得ないわ。だってロブと一緒にいてもどきどきなんてしないもの」
「本当に?」
「ええ、本当よ」
「ロバートさまがエレン以外の女性と一緒にいても、もやもやしない?」
「もやもや…?」
もやもやするかしないかと答えれば、する、と答えるしかない。
だけどこれはきっと兄を取られることに対する嫉妬みたいなもので、ポーラが考えているようなものではないはずだ。
「ねえ、エレン。一度考えてみて。将来、あなたの隣に立っているのは誰?」
「……それは…」
未来で、エレンの隣に立っている人。
そう考えて真っ先に浮かんだ顔は、悔しいことにロバートだった。
考えてみれば私は家族以外で親しくしている男性はロバートくらいしかいない。だからロバートしか思い浮かばないのは仕方のないことなのだと自分に言い聞かせる。
ロバートに対するエレンの気持ちは、家族に対する親愛と同じもの。
だけどそう、例えば、それが恋だったとして。
エレンが仮にロブに恋をしていたとして。
だとしてもロブだけはごめんだと思う。
だって、浮気をされたらエレンはきっと彼を許せない。エレンはあまり心の広い方ではない。だから浮気をされたらみっともなく取り乱してしまう。
傷つくのはいやだ。だから彼にだけは恋をしない。
そう考えるエレンはきっと臆病者なのだろう。
「…どうしてそんなことを聞くの?」
「だってエレンに浮いた話一つないんですもの。別にロバートさまじゃなくてもいいわ。恋をするべきよ。だってわたくしたち、まだ17なのよ。花で言う見頃なの。そんな時期に恋をしないなんて勿体ないと思わない?」
「それは…そうかもしれないけれど…」
恋をして、それが喜ばしいものであるとは限らない。
辛い悲しい恋だってある。恋をしてその恋がすべて等しく結ばれるわけではないのだ。
エレンは臆病だから、傷つきたくない。傷つくかもしれないことに挑戦してみる勇気は、エレンにはなかった。
「ねぇ、エレン。あなたはとても魅力的だわ。だから、自分に自信を持って」
ね、とポーラが優しく微笑む。
エレンは自分に自信がない。いくら家族にとても可愛いと言われても、ポーラに魅力的だと言われても、身内の贔屓目だとしか感じない。
それでもポーラに悲しい顔をして欲しくなくて、エレンはなんとか微笑み「…わかったわ」と頷いた。
だけどエレンは自分に自信が持てる日が来るとは到底思えない。
そうエレンが思っていることにポーラは気付いているのか、少し困ったような笑みになった。