中畑日月は姫を愛する
元英雄、ヒツキ視点
目が覚め、俺は布団から身を起こす。
残っているのは、見ていた夢を忘れている?ような、そんな後ろ髪を引かれる気持ち。
何か、大切なことを忘れているような、そんな気がした。
傍の時計を見ると、時間は午前七時。
いつもと同じ起きだす時間だ。
昨夜は残業がなかったが、今日は棚卸しがある。
棚卸しを頼んである業者に指示を出すことを考え、次いで店舗運営責任者として残るという立場上、日付が変わるかもしれないな、と暗鬱な気持ちを抱えた。
客商売で販売業という仕事柄、責任者として、やらなくてはならないことは多い。
半期に一回の棚卸とはいえ、店内の商品数を考えると、始める前からげんなりしてくる。
いっそのこと、仮病を使って休みたい。
ぼんやりと部屋の中に視線を巡らせ、ふと自分の手を見た。
普段と変わらないはずの、爪も短く切ってある、ごく普通の手。
それを見るのが、ひどく久しぶりな気がして(何考えてんだか)と、自分に呆れる。
さっさと電気ケトルに水を入れ、ドリップタイプのインスタントコーヒーを、食洗機から直に出したマグカップに乗せた。
顔を洗って髭を剃り、歯を磨いている間にお湯が沸騰して、マグカップに湯を注ぐ。
普段は途中のコンビニで昼食を買っていくが、今日は、それすらも億劫で・・・ふと、寂しさを覚えた。
食事の時、誰かが、いつも、横にいたような。
・・・誰が?
俺は就職して、県外に出てからずっと一人暮らしだ。
誰かが、横にいたことなんかない。
彼女を作ろうにも、仕事三昧の毎日で、デートする暇すらない。
いや、営業時間の関係上、就労時間は長いが、ブラック企業というほどではないので、時間は作ろうと思えばできるが、デートする気力がない。
同期の中にはすでに結婚して、子供がいるやつまでいるのに、俺は何かが欠けている。
恋愛をしたいとも、しようとも思えない。
性欲は人並みにあるが、それを上回るレベルで、女性に近づきたいと思わない。
ブラックのコーヒーを飲み干し、マグカップを水ですすいで、流しに置いた。
洗うのは、帰宅後の食洗機に任せよう。
俺は、クローゼットから適当な服を引っ張り出し、着ていたパジャマを脱衣所のかごに放り込んだ。
黒い長袖のシャツとデニム。
黒いハンチング。
黒いレザースニーカー。
全身黒づくめって、なんだよ、と思ったが。
なんとなく、今日はそんな気分だった。
◆
一日が無事に終わり、終電に駆け込む頃には、睡魔で倒れそうになっていた。
ここで寝たら、車両基地行きだ。
レジを閉める前に買った、眠気覚ましのガムを噛みながら、しょぼつく瞼を持ち上げる。
今日一日が、まるで自分の人生だという気がしなかった。
何かを忘れている。
何かを忘れてしまっている。
何かを忘れさせられている。
そんな言いようのない焦燥感にかられ、気がつけば拳を握りしめ、仕事を忘れている。
二ヶ月前に異動してきた新人にまで、心配されるほどだ。
・・・。
・・・・・・。
(ヒツキさま、あいしています)
何か聞こえた気がして目を開いたら、制服姿の車掌が立っていた。
「お客さん、ここで終点ですよ」
「あ、はい」
しまった、降りそびれた。
そう思っても、もう反対方面の電車はない。
歩いて帰るにしても、駅三つ分か。
歩けないことはないが・・・眠いし、疲れている。
棚卸しに対する本部からの配慮で、明日は昼からの勤務だし、どっか、ネカフェか漫喫で寝て、朝になったら電車で帰ろう。
そう思って、足を踏み出し・・・。
気がつけば、真っ暗な闇の中にいた。
どこだ、ここ?
なんだ、ここ?
何も見えない、何も聞こえない、それなのに、俺はここを知っている。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
「モウスコシ」
何かを言われた気がして・・気がつけば、俺は、冷たい石畳の上にうつぶせで倒れていた。
「な、にが?」
「やった!成功だ!異界の英雄を呼び寄せたぞ!」
わああああああっと大歓声に耳が痛む。
体を起こして見回してみれば、周囲には何百人規模の人影が並んでいた。
単純に人の数に威圧されていると、かつ、こつ、と足音が聞こえる。
いつのまにか、周囲は静まり返っている。
嫌な沈黙だ。
冷や汗が吹き出して、背中を伝うのを感じた。
「英雄様、どうか、この世をお助けいただけないでしょうか?」
俺の前には、金の髪と青の瞳を持つ、いかにも高貴の生まれだと言わんばかりの男性が、微笑んで立っていた。
とても穏やかで、心底困っているのだ、という雰囲気で。
優しそうな男性だ。
そう思った途端に、頭の中が真っ白になった。
怒りでも喜びでもなく、何も感じられない。
気がつけば、俺は目の前の男を殴り倒して、その場にいた何百人もの人間をぶちのめした後だった。
兄弟喧嘩以外、荒っぽい事などしたこともなかった。
それなのに、俺の体は人の壊し方を知っていた。
骨をへし折り、内臓を破裂させ、脳を外から破壊する方法を知っていた。
血だまりの中を歩きながら、確信していた。
俺は、人を殺したことがある、殺すことに罪悪感を抱かない。
なぜ、俺はこんなことをしている?
足が勝手に進んでいく。
運動などしていないのに、いくら全速力で走っても、呼吸一つ乱れない。
地下から上階へ。
高い高い尖塔の最上階へ。
「シャルムアーテ!!」
「・・・ヒツキ様?」
鍵ばかり巨大で、重厚な鉄扉の奥。
白銀の月を思わせる瞳、夜闇色の髪。
ドレスを着た少女が、そこでうずくまっていた。
シャルムアーテ?
なんだ?というか誰だ?なのか。
俺自身、何が起きているのか分からない。
目の前の少女が、理由を知っているのかと思ったが、少女は、ただ涙を流してこちらを見るばかり。
理由もわからず、ふつふつと湧き上がってきた怒りで、目の前が真っ赤に染まった。
◆
俺には、俺が知らない力がある。
それは、何もかもを破壊する力。
それは文字通り、世界を破壊する力のようだ。
俺がいるここがなんなのかは、分からない。
どう見ても、地球のどこかの国ではなさそうだ。
まず、文字が絵文字にしか見えない。
国ごとに文字が違うようだが、見分けがつかない。
それでも言葉は通じるし、文章も読める。
原因は不明なのに、人間?を見るだけで、腸が煮えくり返る。
勢いで殺してきた人?の顔立ちは、彫りが深く手足の長い、明らかに日本人ではない美男美女が多かった。
さらに、人ではない人々も多い。
耳が尖っていたり、尾が生えていたり、角や体毛を備える彼らは、姿以外は人間と変わらない。
人ではない人には、怒りを覚えなかったので、俺がおかしくなっているのは間違いない。
俺を召喚(ってなんだ?)したらしい国を滅ぼして、俺に手を出してくる雲霞を振り払っていたら、いつの頃からか、俺は〝魔王〟と呼ばれるようになっていた。
魔に魅入られた者をそう呼ぶらしい。
魔ってなんだ?
どれだけ振り払っても、追いかけてくるのがうっとうしくて、どこかに定住しようと決めた。
偶然見つけた、一番住みやすそうな常春の国を譲り受けた。
もちろん実力で。
話し合いの席に着かなかったのは、相手側だ。
俺はこの世の礼儀作法も、守るべき慣習も何も知らない。
それを伝えた上で、どこかで平和に暮らしたい、力を貸して欲しいと頼んだのに、兵士が大挙して押し寄せてきた。
仕方ないので、一人残らず潰した。
その国の跡地に住みだしてから、いつしか俺の力に恐れをなした者や、弟子になりたいという者が集まってきた。
強者に庇護を頂きたい、と寄り添ってきた者がいた。
多くは人ではない人、つまり亜人だった。
俺にとって、そいつらの価値は、シャルが認めるかどうか、だ。
シャルが、ほとんどの者を喜んで迎え入れるとしても、俺の判断基準は変わらない。
一年、二年と年月が経つにつれて、気がつけば、俺は生きている喜びを感じていた。
気がつけば十年が過ぎていた。
こちらの暦で数えているので、本当に十年かは不明だが。
以前の十年は淡々として、ただ生きているだけだったのに、なぜ、今は生きている事が嬉しいのか?
その答えはすぐに出た。
シャルムアーテが側にいるからだ。
シャルが笑えば、それだけで俺は幸せを感じる。
相変わらず、毎日が血生臭いというのに。
毎日のように、際限なく向かってくる人の群れを、殺しまくっているのに。
毎日のように、人の血や臓腑を浴びて、血の雨を降らせて、大地を黒ずんだ不毛の地へと変えているのに。
シャルは、俺を恐れない。
なぜだろう、と思うことはあっても、シャルは俺の問いに答えてはくれない。
何か理由があるのだろう。
俺は、彼女の家族を皆殺しにしたのだ。
それも自分の意思ではなく、誰かに体を使われているような感覚の内に。
「シャル、ただいま」
出会った頃は十歳ほどだったシャルムアーテは、もうどこから見ても絶世の美女だ。
正確な年齢は、シャル自身にもわからないらしい。
「おかえりなさいませ、ヒツキ様」
この一言を、シャルは本当に嬉しそうに言ってくれる。
俺は砂埃と泥と血飛沫まみれで、ズタボロになった姿のまま、彼女の元へ駆けつけているのに。
彼女が、戦場から戻ってすぐ会いに来て欲しいと頼むから、しているのであって。
血まみれの姿を見せつけたいわけじゃない。
断ったら、戦場に出てこようとしたので、仕方なかった。
ゆったりと微笑む彼女の笑顔を堪能してから、俺は体を洗いに踵を返す。
そこに、黒い肌の亜人の兵士が飛び込んできた。
「魔王様!
人の英雄が、国境を超えたそうです」
「・・・英雄?」
どくり、と鼓動が騒めいた。
今、何かを思い出しかけたような。
思い出せそうにないので、首を振って頭を切り替える。
「その英雄とかいうものが、どんな奴か徹底的に調べろ。
ただし、誰も死なせるな。
シャルが悲しむ」
「はいっ!」
兵士が大慌てで立ち去った後、シャルが笑顔で両手を広げていることに気がつく。
シャルは両足首の腱を、実の父である国王の命令で切られている。
胸糞悪くなる話だ。
シャルを抱えて、俺を召喚した国の城下町を駆逐していた時に、シャルの乳母だったという老婆に出会った。
彼女から聞いた話では、赤ん坊の頃の事だという。
逃げないように、逃げられないように。
シャルが、英雄への生贄だと託宣が降りたから。
今向かってきている英雄とかいうのが、件の英雄なのか?
分かっているのは〝英雄〟という単語だけで、シャルが生贄になるという相手の、名も姿も分からない。
詳細を知る者が生きていないので、〝生贄〟がどんな意味を持つかも知る術がない。
・・・悪い予感がするのは俺だけなんだろうか。
シャルは俺に支えを望みながら、立ち上がろうとして、バランスを崩す。
いつもなら喜んで手を差し出すが、今の俺は、手助けをしにくい。
それでも。
「危ないっ」
反射的にシャルに手を伸ばし、綺麗な水色のドレスが、血と泥でどす黒くなってしまう。
「ああ!しまったっ
ごめん、シャル」
「・・・ヒツキ様、汚れてしまいました。
服を着替えさせていただけますか?
今、ここで」
シャルのあまりにも大胆かつ突然のセリフに、俺はその場で硬直した。
「ヒツキ様?」
「あ、と、悪い、先に風呂に入ってくるよ。
侍女長を呼ぶから、着替えさせてもらってくれ」
さすがに、血塗れ(他にも色々)のままで彼女を抱き上げるわけにはいかない。
そう思いながら断ると、シャルは本当に嬉しそうに微笑んだ。
「いいえ、ヒツキ様と共に参ります」
え?どこに?
俺と風呂に入りたいってことか?
・・それは困る。
悩んだ所で、シャルの望みを断れるはずもなく、さらにドレスを血塗れにしながら、ほっそりとした体を抱き上げる。
途中で侍女を見かけたら、シャルを託そうと思いながら。
「わたしの全ては、ヒツキ様のものです」
時々、シャルはものすごく重いことを言う。
不思議と怖いとは感じない。
むしろそれを嬉しいと思ってるあたり、俺もこの世界の価値観に毒されているのかもしれない。
いつ来るかもわからない、英雄?のために、娘を一生歩けなくさせる父王。
家族を皆殺しにした身元不明の男に、喜んで追従する姫。
復讐されてもおかしくないのに、そんな姫を心の底から愛している俺。
何もかもがおかしい。
頭では分かっているのに、不思議なほど、俺の心は満たされている。
いずれ、英雄が俺を殺す?
いいや、返り討ちにしてやる。
シャルを失うのは嫌だ。
二度と。
ん?二度と?
やはり、疲れているのかもしれない。
風呂に入ったら、仮眠でもしよう。
シャルを抱え、風呂へと足を向けた。