シャルムアーテの死
この方にお会いしたその日、わたしの小さな世界は壊れ、そして、新しい美しいものへと生まれ変わったのです。
「おいで」
「・・はい」
そう言われ、伸ばされた革手袋の、つやつやとした黒。
広い肩幅、細い腰をぴったりと覆う黒い上着。
胸元から肩と背中にかけては、魔術具の金属板が、何枚も鱗のように貼りあわされ。
刃が生えているように、動くたびにきらりきらりと黒く光ります。
上着の上には、ひらりと揺れる不透の黒布。
さらにその上には、大きすぎる帽子。
顔を晒すことを、この方は、何よりも厭うておられるのです。
力強く逞しい御御足は、上着と同じ黒い下衣で包まれ、膝までの黒い長靴の黒鎖が、しゃりしゃりと微かな音をたてております。
かつ、こつ、と只今、石畳を踏み歩むのと同じように、この方はわたしを害していた者共を、ひき肉になるまで踏みにじってくださいました。
わたしはこの方の愛子になったのです。
今では〝死神〟と呼ばれるようになった、かつての英雄様の。
「シャル、寒いのか?」
先ほどまでの雨ではないモノで泥濘んだ道を思い出し、思わず震えたのを悟られてしまい、慌てて笑顔を浮かべます。
どうして、顔を黒布で覆っておられるのに、わたしのことがお見えになるのでしょうか?
それを言えば、戦う時ですら、その布を取ることはないのでしたね。
見えずとも、この方には何の問題もないのでしょう。
「いいえ、ヒツキ様。
ヒツキ様が素敵すぎて、ゾクゾクしたのです」
この方は嘘をお見抜きになる。
だからわたしは嘘を吐かない。
もし、この方に殺されそうになっても、絶対に嘘は吐かない。
「・・・その言葉は、嬉しいような、悲しいような気がする」
布の奥で、ことりと音がして、呆れられたようです。
わたしはヒツキ様の顔を見たいとは思いません。
だから、慌てて布の下を押さえなくても大丈夫ですよ?
「わたしは心底、貴方様がお好きなのです」
心から浮かれているわたしは、布の奥から注がれる瞳が、どんな色か、どんな感情を持っているのかを見ません。
死の間際まで気がつかないのです。
とても愚鈍で、救いようのない愚かな娘なのですから。
◆
トロトロと時間は過ぎ、わたしはヒツキ様と共に時を過ごしていきます。
万民に死をもたらす、元英雄様であるこの方は、様々な地の権力者に求められ、旅の行く先には事欠きません。
しかし、求められた場で、この方の力が必要であることは、ほとんどないのです。
ただ呼び寄せ「跪け」と命を下す愚か者。
涙に濡れて「助けて」と嘆願する死に損ない。
まるで嵐でも見るかのように「絶望的だ」と嘆く希望なき者。
そのどれもを、この方は歯牙にもかけぬ。
全てを等しく、あるべき姿に。
全ての者に、平穏なる死を。
それがヒツキ様の唯一にして、絶対のお力。
わたしだけが、それをすぐ側で見ている日々。
ただ、わたしだけがお側に置いていただける。
なんて嬉しくて、喜ばしい日々なのだろう。
ヒツキ様は、共にいるわたしが血を浴びないように、と気を使ってくださる。
背に負う、黒い外套で包んでくださる。
四筋に別れた、魔王の表皮を引き裂いて織りあげた外套は、意志持つように踊るようにひらめいて、騎士や兵士や衛兵の剣を曲げていく。
立ち向かうものには恐怖の末の死を、逃げ惑うものには慈悲の死を。
ヒツキ様の広い背を覆う魔術具の金具が、きらりきらりと黒く光るたびに、敵対者達は血を噴き上げて絶命していった。
わたしの白いドレスだけが、赤と黒と絶叫と絶望の中に残る。
かつてヒツキ様に教えて頂いた物語で、残されるただ一つの希望のように。
わたしはただ、微笑んで待っています。
赤と黒と悲鳴の只中で。
この色は、彼の生まれ育った世では、最愛の人を待つ女性が纏う色だというから。
ただ、ただひたすら、ヒツキ様が抱き上げてくださるのを待つ。
ドレスが汚れぬように。
返り血で黒い衣をより黒く染め、雨のように赤い滴を垂らす姿で、わたしの元に戻ってきてくださるのを。
◆
「たダいまシャル」
「おかえりなさいませ、ヒツキ様」
かつて教わった、淑女らしい礼を取ろうとして、バランスを崩してしまう。
わたしは両足とも悪くしているので、腰と膝を屈める淑女の礼は難しいのです。
「危なイよ」
ひらりと黒いマントが視界を覆って。
固く長い指を中に隠した革手袋が、わたしを抱きとめてくださり。
じわりじわりと、白いドレスが赤く染まっていく。
「あア、しマった」
「ヒツキ様、汚れてしまいました。
服を着替えさせていただけますか?
今、ここで」
見上げた黒い布、大きすぎる帽子の中で、一瞬の逡巡。
お願いいたします、と指を上着に添わせたその時。
カハァ、と呼気が聞こえた。
一呼吸の間に裂かれたドレスは、わたしの体の下。
ざらりと二つに裂けた長い舌に首筋を舐められ、ヒツキ様から垂れる血の匂いが、わたしを包む。
手袋に包まれた固い指が、太ももを這っていく。
ああ、時間切れです。
この方は血に、力に酔っておられる。
とうとう、日に日に強くなる罪業に負けてしまわれたのですね。
わたしの賭けは、ついに負けの目を見たのでしょう。
もとから勝率はゼロでしたが、このまま細々と長く続けられるかも、と思っていたのに。
呑まれたヒツキ様は、わたしを喰らって、変わられる。
日が月を食って、紛い物の夜を世にもたらすように。
月が日を食って、仮初めの恐怖を人に与えるように。
わたしを喰らったら、この方は、魔に堕ちる。
生け贄の姫と生まれながらに定められた、わたしの血肉を得て、ヒツキ様は変容なさる。
誰にも逆らうことのできない何かが、この世に王を必要としている。
魔の王たるものを。
魔王と英雄を欲している。
先の魔王を引き裂いたヒツキ様は、その日から、狂気に蝕まれはじめた。
わたしを手放す、と泣きながら言った日も。
手放すくらいなら喰ってやる、と嬉しそうに嗤った日も。
出会わなければ良かった、と嘆きに沈む日も。
ヒツキ様は、狂気に少しずつ削られていった。
次の魔王に堕とされまいと、必死で抗っておられた。
ヒツキ様に出会った瞬間、胸が痛みました。
この方を愛したい、この方に愛されたい。
でも、それは、わたしがいずれ、この方に喰われることを意味すると、知っていました。
彼が、英雄召喚の魔法陣の上に現れたその時、自室に閉じ込められていたわたしに、何者かが囁いたのです。
選びうる二つの道を、直に脳裏に叩きつけられました。
「アア、ヲイしい、よ、シャルムアーテ姫」
チリチリと、歪に伸びた牙が肌を掠めていく。
革手袋が肌を舐めるようにゆっくりとさまよい、掴まれた肉が甘く痛む。
ぷつり、と鉤爪がわたしの肌を割いて、刺さる痛みを感じた。
「ヒツキ様、どうか、お幸せに。
わたしのできる、これが全てなのです」
わたしは、生け贄として繰り返す事と引き換えに、一つだけ道を選べる。
この世かヒツキ様か。
どちらかだけを選べる。
ヒツキ様に出会ったあの日、この日を迎えることを思い出したわたしは、今こそ選択する。
〝全てを無かったことにして、この方を元の世界に〟
この時にしか、使えない。
心から死を厭わず、願いを叶えたいと思った時にしか使えない。
だから、この日をずっと待っていた。
ヒツキ様を傷つけると知りながら、血を浴びて狂うこの方を見続けた。
何度も、何度でも。
奪われていく多くの命と引き換えに、たった一人を救いたいと願うわたしは愚かなのだろう。
狂っているのだろう。
そう、わたしは壊れているのです。
自分が同じ人生を何十回も繰り返している、と気がついた時、わたしは壊れたのです。
何度繰り返しても大嫌いなままの世界は、いつでもヒツキ様が壊して下さる。
ヒツキ様が、わたしに下さる新しい世界は、本当に美しくて。
優しい光に溢れていた。
だから、わたしは、ヒツキ様に恩返しがしたかった。
この世と引き換えにしてでも。
この世の全ての生命を巻き添えにしてでも。
何度繰り返し、死ぬとしても。
世のために死ぬことを義務付けられていた、部品であったわたしに〝恋〟を教えて下さってありがとう、と。
駒でしかなかった、庶子王女のわたしを、ただ一人守って下さった貴方へ。
ずきりと痛みが走り、わたしは自分の胸の中にあった脈動が、砂になったのを知る。
すぐに、体が指先から崩れ始める。
さらりさらりと、わたしは砂山になって崩れていく。
血色の砂を舐めたことに気がついたヒツキ様が、布に覆われた顔をもたげる頃には、そのお姿も、わたしの知る健やかな青年のものへと戻っていった。
めくれた布の隙間から覗くのは、かつての優しくて眠たげな瞳。
ああ、その顔を見られただけで、わたしは生きてきてよかった、と思うのです。
「しゃる・・・?」
暖かな光に包まれ、溶けるように彼の方は消えた。
どうか、どうかお幸せに。
どうか、苦しみの少ない生を全うしますように。
わたしも、崩れていく。
血の海の中に、血を吸った砂山が一つ増えるだけ。
二度と、ヒツキ様を喚ばせはしない。
この世の全ての魔法陣はヒツキ様が引き裂き、全ての城には火を放った。
全ての王族は、わたし以外、ヒツキ様が引き裂いてくださった。
だから、大丈夫。
再びヒツキ様が呼ばれる心配はない。
幸福に包まれ、わたしは瞳を閉じた。
最後に、おやすみ、と声が聞こえたような、そんな気がしました。
・・・そして、わたしは、全てを思い出し。
自分のしてきたことは、全て無駄だったと、知ったのです。