どうか甘美な口付けを。
お題「キスしてもいい?」で書かせて頂いた短編です。
「──キスをしても?」
彼はいつもそう囁くのだ。本当は口付けなどという甘く可憐なものではない癖に。
鮮やかに蘇る低い声音、焦りを孕んだ灰色の瞳。男の節くれだった指先が肩に触れるだけで、私は椅子の背もたれに縫い付けられて成す術もない。
拒むことなどもう出来ない。
一度受け入れた秘密は、遅効性の毒のように私の身体を蝕んでゆく。
ギィ、と木製のドアが軋む音がして、人気のない教会の暗がりに軽やかな足音が躍り出た。ステンドグラス越しの赤紫の光の中で、小柄な人影は婚約者らしい男の胸に飛び込む。ちらと見えた彼女の幸せそうな表情に、胸がじくじくと痛くなった。私もあのように太陽に祝福されていたのなら。
「やっと心が晴れたの!神父様のおかげよ」
そう言って微笑む彼女は可憐で美しかった。
恋人たちが肩を抱き合って教会を出て行くと、再びそこは暗く厳かな気色を取り戻す。陰影に赤紫色の薔薇窓の光。柱の細かな彫刻を指でなぞりながら、私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
───ギィ
再び音がしてキャビネット棚のような箱の中から、ゆっくりと男が現れる。首元まできちりと締めた神父服に、手に持つ薔薇玉のロザリオ。左腕に抱えた聖書を机に置いて、男がこちらを見やる。
「エリーザベトさん、貴女でしたか」
穏やかに、頼りなげに微笑む彼は間違いなく神聖なる神の家の住人だ。懺悔室で彼女の告解を聴いていたのだろう。
ふいに風が流れた。さらりと流れた前髪の隙間に、荒れ狂う嵐のような灰色が覗く。思わずぎゅ、と外衣のポケットに入れた銀の十字架を握り締める。これを使えば彼は私に近付けない。
「丁度良かった……空腹でたまらなかったのです」
カツン、カツンという靴音がゆっくりと私に近付いてくる。親しげに言葉を交わす様子を他の娘達が見たならば、心底悔しがるだろう。それ程彼は美しい。その黒い髪も白い指先も、低く哀しげな声音も。そして何よりあの灰色の瞳は、見るものを虜にするような危険な美しさなのだ。
射るように見つめられ、私は動くことすらできなかった。銀の十字架を掴むはずだった指先が空を掻く。そして彼は、私の前に少し屈むようにして立った。愛しげに頰に触れる指先が氷のように冷たい。まるで血の通わぬ幽霊のように。
彼の影がゆっくり、ゆっくりと覆い被さってくる。ああ、いけない。始まってしまう。乳香の芳しい香り、耳を犯す衣擦れの音。
「────キスを、しても?」
今日の彼はひどく余裕がないようだった。
嵐のような灰色が私を捉えて離さない。顔を背けた私の顎に指が這う。伸びた左手が頭の後ろをゆっくりと撫でていく。貧相な青白い身体に流れるばかりの髪に、彼はまるで教会の聖具のように優しく触れるのだ。そして乾いた唇に冷たい指が触れ、なぞっていく。嫌だと首を反らせば、彼は待ち兼ねていたと言わんばかりに首筋に噛み付いた。ぶすりと小さな牙を立てられる。貫かれる痛みに悲鳴を上げれば、彼はその大きな手で私の口を塞いだ。やがて身体中から湧き上がるような熱が私の中で暴れ始めた。狂うような熱、堪えきれなかった息がふっと漏れる。浅ましい、愚かしい。意思さえいつしか奪われていく。
悪足掻きのようにポケットの中の銀の十字架に指を伸ばしたが、蠱惑的な快楽の波は私にそうさせようとはしなかった。虚しく空を掻いた指先が捕らえられ、そっと指先に口付けを施される。
「諦めなさい。貴女の魂を救済できるのは、もう私だけだ」
ぼんやりと虚空を見つめる私に前で、神父服を着た吸血鬼は満足そうに目を細めた。
「さあ、私に強請りなさい」
─────どうか、甘美な口付けを!
Twitterに挙げたものを少しばかり修正して。
吸血鬼モノは被るかと思いましたのに、意外や意外。いずれ彼等は相互依存の歪な関係に陥るのでしょう、その破綻が来てしまうその時まで。