光の向こう
「坂下、辞めるんだって」
休日の午後、以前チーズケーキを食べたカフェに萌香は岡村といた。
「あんたと夜景見に行った時あったじゃない?あの時、彼女とこじれて別れそうになってたんだって。彼女がいたとか知らなかったし」
彼女がいたなんて聞いていない。
「そんでちょっとあんたに寄りかかっちゃったみたいな」
「そっか。彼女とはどうなったの?」
何気ないふうに聞こえていて、お願い。
「結局よりが戻ったみたいよ」
岡村がつまらなそうに言う。
「10月の末頃?」
あの夜のあとだ。
岡村にはあの夜のことは言っていない。しかし聡い彼女のことだ、薄々気づいてはいるのだろう。
あの夜以来、坂下は萌香と会っても礼儀正しい挨拶をするだけで今までのような笑顔は見せなくなった。萌香もどうしてもぎこちなくなってしまう。
「もうすぐクリスマスだっつーのに、女二人淋しくカフェで過ごすか。世の中の男どもは女を見る目がないねー」
岡村が愚痴をこぼす。
「そうだね」
少なくともあんたに関しては。でも、私を選ばない男の目はきっと正しいよ。
口には出さない。
カフェを出ると新しく雪が積もっていた。さくさくと雪を踏み地下街に入ってから岡村と別れた。
坂下とやり取りするようになってから開かなくなっていたサイトを開く。
掲示板に書き込むとすぐにメールがきた。即決する。
待合せ場所に向かうと既に男の車が停まっていた。迷わず乗り込む。
車は利用目的がほぼ限定されたあの建物にまっすぐ向かう。選んだ部屋は鏡だらけで天井にも鏡があった。
男は忙しなく萌香の服を脱がせる。一緒にシャワーを使うと体を拭くのもそこそこに萌香をベッドに運ぶ。
鏡に映る自分の裸体と、それに覆いかぶさる男の背中に萌香は醒めた視線を投げる。
体勢を何度も変え、その度に男は「いいか?」と訊く。
萌香は男のお人形、望む返事をするだけ。
「すごくいい」
男の背中が汗ばむ。そろそろいいだろう。
「ああ、もうダメ、早くキて!」
男はくぐもった声を出し動きを止めると、しばし萌香の上で荒い息を吐いていた。その後ゴムの処理を終えると萌香を腕枕に誘う。
「また会えるかな」
「うん、また会いたいな。メールするね」
名前も知らないこの男にまた会うことはきっとない。男もそれは承知だろう。
それぞれシャワーを浴びて身支度を整える。
「これ、約束の」
男は‘’お小遣い”を萌香に渡す。
「ありがと」
むき身のままバッグにしまう。
「じゃ、帰ろうか」
自宅の最寄り駅の一つ前まで送ってもらい軽いキスを交わして別れる。地下鉄に乗って自宅の最寄り駅に着くと駅前のコンビニに入る。
お茶のペットボトルをひとつ、ネギトロのおにぎり、唐揚げ、奮発してエクレアも買う。
いつの間にか雪が降ったらしく、踏みしめるとキュッと雪が鳴く。今夜はかなり寒い。
コンビニの袋を提げて帰宅すると、自分で鍵を開けて入る。安さと広さだけが取り柄の古いアパートの一室、灯りは点いていない。
「ただいま」
もちろん応える声はない。
灯りを点けると蛍光灯の青白い光がビーンズテーブルとラブソファを照らす。あの日と変わらない部屋。
コンビニ袋をテーブルに置き、カーテンを閉めストーブを点ける。BGM替わりにテレビをつけソファに腰を下ろす。
喉が渇いていた。ペットボトルのお茶を1/3ほど一気に飲むとお腹がきゅうっと鳴り空腹を改めて感じる。
唐揚げとおにぎりを交互にかじり、お茶で流し込む。夜も遅い時間に罪悪感を覚えながら、それでもどうしても今日のような夜は甘いものがほしい。
欲求に従ってエクレアを味わう。
指についたチョコレートを舐めると、あの行為の続きのような気がした。
シャワーを使う。今日の全ての痕跡を拭うように時間をかけ丁寧に体を洗う。
浴室を出て髪を乾かしながら明日のシフトを確認する。遅番だから12時からか。
一人でベッドに入り伸びをする。目覚ましをセットしあくびをするとするりと眠りに落ちていく。
夢は、見なかった。
午前三時、目が覚めた。
そういえば、あの最中、坂下君とはキスしなかったな。ふと気づいた。気づかなければよかった。
キスは本当に大事な相手としかしないんだ。
涙がこめかみを伝う。
あの時見た、光の向こうへ行ってしまいたい。
唐突に中学生の頃の記憶が溢れてくる。
兄の「お人形」になってしばらくして、萌香はある夜自分の手で首を絞めた。
周囲の音が遠のき、頭が膨張して破裂するような、もしくは凄まじい圧力で潰されているような感覚の後、その光は見えた。
淡いパステルカラーの小さい光球がふわふわと漂っている、その向こうが見える前に幼い萌香は手を離した。
今度はもう、あの光の向こうへ行こう。
そろそろと両の手を首にかける。そして徐々に力を入れていく。
周囲の音が遠のき、頭が膨張して破裂するような、もしくは凄まじい圧力で潰されているような感覚。
この感覚は憶えている。
しかし。
あの日見た光はやってこなかった。視界はただ暗転していく。
行けないんだ。
声にならない声で呟くと萌香は首から手を離した。
荒い呼吸が喉を灼く。音が戻ってくる。
ベッドを出て水を飲むと少し呼吸が楽になった。
「意気地なし」
そう呟くとベッドへ戻って目を瞑る。
明日は遅番だ。もう少し寝よう。
翌朝、アラームに叩き起こされ、世間一般よりは遅い朝が始まった。
身支度を整え出勤する。職場は特に職能のない人間なら気軽に足を踏み入れるであろうコールセンター。
敷居は低いが実際には向き不向きがはっきりしているので人間の出入りは激しい。半年も勤められればベテランと呼ばれるような職場だ。
「めんどくさ、今日も積滞ついてるし」
そう呟くと背後から声がかかる。
「中嶋さん、おはようございます」
礼儀正しい挨拶に振り返る。坂下だった。
「坂下君、おはよう。今日も忙しそうだね」
ややぎこちなく返す。
「そうですね」と折り目正しく会釈すると坂下は去って行った。
「萌、おはよう!」
同じく遅番で出勤してきた岡村にも声をかけられる。
「萌香、疲れてない?目が死んでるよ」
「朝はこれがデフォルトだって」
「そうだよねー」
「あんただって目、死んでるし」
「えーそんなことないって、めちゃくちゃ元気」
いつも通り軽口をたたき合いながらバッグをロッカーに入れフォンブースに向かい業務端末を立ち上げる。
いつも通りに業務をこなし一日が終わり業務端末を落としてロッカーへ向かう。
ロッカールームから出たところで声がかかる。
「中嶋さん、お疲れ様です」
坂下だった。萌香が出勤してきたタイミングですでに業務を開始していたのでてっきり早番だと思っていた。
「通し勤務だっただね。お疲れ様」
「残念ながら通し勤務でした」
そんな会話をしながら会社を出る。
「じゃ、お疲れ様」
方向が違うので会社を出てすぐに別れる。
翌日出勤した際、昨日が坂下の最終出勤日だったことを知った。
萌香はスマホのアドレス帳から坂下の項目を削除した。それとあわせてあのサイトもブックマークから削除した。
会社を出てから、萌香はいつも向かう地下鉄の駅には行かなかった。
黙々と雪道を歩き創生川を渡る。さっぽろファクトリーの横を通り過ぎ水穂大橋に差し掛かる。
雪道を20分ほど歩きすっかり息が上がっていた。水穂大橋の途中で立ち止まり豊平川をのぞき込む。
暗い冷たい流れは濁って激しかった。
どれくらいそうしていただろう。すっかり汗がひき身体が冷え始めていた。
再び歩き始める。途中でスーパーにより食材を買う。
帰宅後、簡単につまみを作ってからゆっくりお風呂に入った。ずっとシャワーで済ませていたのでゆっくりと湯船に浸かると何もかもがほぐれていくようだった。
光の向こうに行きたい。そんな昏い情熱はもうなかった。
お風呂上り、久しぶりに晩酌をしながらゆっくりと撮り溜めていた海外ドラマを観る。わずかな証拠を科学的に分析し犯人を追い詰めていく警察物だ。
ドラマを観終えると歯を磨きベッドに入り伸びをする。目覚ましをセットしあくびをするとするりと眠りに落ちていく。
変わらない日常が続いていく。
拙作をお読み下さりありがとうございます。
これにて一旦一段落となります。
思い付きと勢いで書き始めた為構成をミスしてしまい、第一話を編集し直すことになったのが痛いですね^^;
ぜひ感想や評価をお寄せください。
よろしくお願いいたします。