月光
「なにシケたツラしてんの、恋する乙女」
ランチで向かいに座った岡村は口が悪い。
「そういえばどうなってんの?クラブに行ったのが一ヶ月半くらい前でその後何もないわけ?」
坂下とは会社で会えば今まで通りにこやかに挨拶をしてくれるが、メールの返信ははかばかしくない。
「そうなんだよねー」
飽きられちゃったのかな。そんな言葉を飲み込む。
呼び方は相変わらずお互いに坂下君、中嶋さん。距離が縮まっている気がしない。
「男は追えば逃げるからねー、余裕見せとかなきゃダメよ?」
「はいはい、岡村先生」
「はいは一回!」
「はい!」
どこの鬼軍曹だ。
そんなやり取りがあった早番の日。
自宅に着くと坂下からメールがきた。
一言、「今から会えない?」
かぶりつきで返信をしそうになる。とりあえず部屋に入りカーテンを閉める。もう日が短いので灯りを点けた。
バッグをソファに置くとまたメールがくる。
「会えないかな」
こんな坂下は珍しい。
急いで了解した旨返信する。
車でくるとのことなので、急いでシャワーを浴びて身支度を整える。
電話が鳴った。
「出てこれる?」
坂下だった。声がどこか硬い。
「うん、すぐいく」
急いで部屋を出て車を覗き込む。笑顔に力がない。
萌香が助手席に乗り込むと坂下はすぐに車を走らせる。
互いに無言のまま車は石狩方面に向かっていた。痛いほどの沈黙を破る勇気はない。
どれくらい走っただろう。車は無人の砂浜に着いた。
恐る恐る車を降りる。夜の海はどこまでも暗くて海と空の境目もわからない。
見つめているのが怖くなってきたからか、秋の風が冷たいからか萌香は体が震えているのに気づいた。
坂下はじっと海を見ている。
「寒いからそろそろ車に戻らない?」
返事はない。何回か呼びかけてやっと坂下は萌香の声に気づいたようだった。
「あ、ごめん、そうだね」
車に戻ると坂下はシートを倒して目を瞑った。
「ちょっと休ませて」
「うん」
萌香もシートを倒して仰向けになった。そっと坂下の横顔を窺う。
まだどこかあどけなさが残る端正な顔には深い疲れが滲んでいた。
顔を正面に戻し萌香も目を瞑る。坂下を純粋に心配する思い、これから告げられるかもしれない悲しい言葉、それを聞いた時の痛み、そんなもので萌香の胸はきりきりと痛んだ。
深く息をついて坂下が起き上がる。
「ありがとう、休めたよ」
どうしてそんな無理して笑うの。思わず言いそうになる。しかし言えない。言えばきっと坂下は涙を見せる。
そしてそれは本当は絶対に見せたくないはずのものだ。
「よかった。どうする?遅いし帰る?」
何気ないように聞こえたことを願いながら言う。
「そうだね」
帰りの車内では岡村と話す時のように他愛ない話題でなんとか坂下を笑わそうとする。萌香の自宅に着く頃には坂下はようやく普段とほぼ同じような笑みを見せてくれるようになっていた。
「じゃ、また」
車を降りようとした萌香は衝動的に言う。
「上がっていかない?コーヒー一緒に飲も」
一瞬驚いた表情をした坂下がついにやっと普段通りの笑顔になる。
「ありがとう。お言葉に甘えて」
自分の部屋に男性を通すのは初めてだった。灯りを点けると蛍光灯がビーンズテーブルとラブソファを照らす。
「ソファに座ってゆっくりしてて」
「うん」
こんな時にテレビをつけるのも味気ないので、CDをデッキにセットする。ベートーベンのピアノソナタ『月光』『悲愴』『熱情』が収録されている。
二人分のコーヒーをペーパードリップで丁寧に淹れると、ジェンガラのマグに注ぐ。
坂下にも同じジェンガラのマグにコーヒーを注ぎ渡す。
「温かいね」
秋の砂浜で冷えた体に熱いコーヒーは沁み入るように美味しかった。
萌香はマグをテーブルに置くとソファに体育座りになった。
「どうしたの?」
「この体勢が落ち着くの」
「そっか」
笑いながら坂下が左腕を萌香の肩に回した。
心臓が跳ね上がる。思いきって頭を坂下の肩にのせてみる。
優しく坂下の指が萌香の髪を梳いた。萌香の頭にそっと坂下が頭をもたせかける。
ああ。この時間がずっと続いてほしい。こんな平凡で優しい時間が。
ふいに坂下の指が萌香の耳に触れて柔らかく撫でた。
背筋がふいにぞくぞくとする、これは。
「声、出していいんだよ」
坂下の声に萌香は自分が初めて感じた悦びに唇を強く噛み締めていたことに気付く。
好きな人に触れられるってこんなにも幸せで気持ちが良いものだなんて知らなかった。
絶えるような吐息が漏れる。
坂下の唇が、舌が、首筋をなぞる。完全に力の抜けた萌香を坂下がベッドへ運ぶ。
見つめあいながら互いの服を脱がせる。
坂下の動きはどこまでも優しく柔らかだった。上になり、下になり、視線を絡ませあう。
二人がベッドに並んで横たわった時にはCDは一周して『月光』が流れていた。
坂下が起き上がりベッドの縁に座った。
萌香に向けた背中に見えた、その表情。
後悔。
胸が冷えた。私は何を間違えた。
黙ったまま、二人は服を着た。朝までいてほしいとは言えなかった。
坂下も泊まっていこうとはしなかった。
玄関先で坂下を見送る。
「ばいばい」
少し悲しそうな笑顔で坂下が言う。
そうか、またね、じゃないんだ。そんな笑顔見せないでよ。
泣きそうになりながら笑顔で返す。
「ばいばい」
ドアを閉め鍵をかける。靴音が遠ざかる。きっとこの靴音はもうここにはこない。
車が走り出した音を聞いて堪えていた涙が溢れ出す。
平凡な幸せなんて、私が望めるわけなかったんだ。この汚れきった私には。
翌日は遅番だった。目元のクマはコンシーラーで隠したが腫れぼったい瞼はどうしようもなかった。
いつもならすぐに茶化してくる岡村も、今日の萌香には声をかけなかった。
坂下は休みだった。
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