きっかけ
朝が弱い萌香は遅番をメインにしてシフトを組んでもらっている。
遅番の定刻よりやや早めに部屋を出て地下鉄に乗る。会社の最寄り駅までは3駅、数分で着く。
地下街を抜けて地上へ出るとサングラスをかける。明るいのは苦手だ。
オフィスビルが立ち並ぶ一角を歩いていると「すみません」と声をかけられた。振り向くと高価そうな一眼レフを首から提げた萌香よりやや年上と思われる男だった。
見知らぬ人に道を訊かれることが多いのでまたかと思い立ち止まって小首を傾げる。
「あの、いきなりですみません、ちょっと写真を撮らせてもらえませんか?」
意表を突く言葉に小首を傾げたまま、思わず怪訝な表情になる。
「いや、その、別に変なのじゃなくて、すごく俺のイメージに合ってたから」
萌香の怪訝な表情に理由にならない理由を慌てて説明する様子が可愛かった。普段ならこんな怪しげな頼みなどすぐに断っただろう。しかし男の人の良さそうな慌てぶりと、自分がモデルになるという自尊心をくすぐる誘いが萌香の気まぐれを刺激した。
「いいですよ、ちょっとだけなら」
男が顔をくしゃっと笑み崩す。
「じゃ、早速」
男は萌香を市役所へ連れて行く。どんな撮影なのか想像もつかない。
市役所前には小さな公園のようになっているところがあり小さな池とその真ん中に人が一人座れそうな岩がある。出勤時いつも市役所の横を通るのにこんな場所があるなんて知らなかった。
「ごめん、サンダル脱いでその岩に座ってもらえる?サングラスも取って」
指示に従い岩に座って男を見る。
「こっち向いて両手で髪かきあげて、そうそう、で、もっと笑って」
男がシャッターを立て続けに切る。恥ずかしい気持ちと高揚する気持ちが混ざり合う。
「ありがとう、気をつけて降りて」
岩から降りる萌香に手を貸しながら男は満足げに無邪気な笑みを見せた。ちょっと顔が赤くなる。
仕事に行く途中だったことを突然思い出し、慌ててサンダルとサングラスを身につける。男が差し出した名刺を見ずにそのままバッグにしまう。走れば間に合う。
急いで走り始めた萌香に男がじゃあね、と手を振る。会釈して萌香は会社へ急いだ。
なんとか昼礼には間に合ったが息は上がっているしひどく汗をかいていた。
「珍しいですね、ギリギリに来るの」
振り返ると涼しげな顔をした坂下がニコニコしながら立っていた。
「僕も遅番なんです」
坂下がハンカチを差し出す。首を傾げる萌香に坂下は一言だけ「汗」と言って拭うそぶりを見せる。ありがたく受け取り顔の汗を押さえる。
「ありがとう、洗って返すね」
坂下はニコニコしたまま頷いた。
「そういえば坂下君とは話したことなかったよね。最近事務処理チームに移ったんだって?」
「はい、処理する作業が多くて大変ですけど楽しくやってます」
そこまで話した時点で昼礼が始まった為、坂下との最初の会話はそれだけだった。
しかし、見た目だけでなくアイロンの綺麗にかかったコムサのハンカチを汗を拭く為に差し出したさり気なさも萌香には好感が持てた。
読んで下さりありがとうございます。
始めて小説というものに挑戦しているので読みにくい箇所などあるかと思いますが、積極的に評価や感想を頂けると嬉しいです。
よろしくお願いします。