拒絶
映画を一緒に観て以来、萌香と真田は一週間に一度くらいの頻度で会うようになっていた。
いつも外食ではお金がかかるので、たまには手料理でもと萌香が思い切って提案したのはそんな関係が始まってから2ヶ月ほど経ってからだった。
手料理に餓えていた、と真田は喜んでくれた。
手料理を振る舞う約束をした日の前日、楽しみながらメニューを考える。真田のリクエストはいかにも家庭の味、というアバウトなものだった。
「ここはやっぱり定番としたものでしょう」
一人呟きながらメニューを決めていく。
肉じゃが、焼き鮭、白菜の浅漬け、切り干し大根とヒジキの煮付け、葱と若布のお味噌汁、白いご飯。
食後には白玉ぜんざいとお番茶。
金曜日の夜、駅からの道順を丹念に説明したせいか真田は迷わずに萌香の部屋に来た。
チャイムが鳴ったのでエプロンをしたまま出る。
「こんばんは」
「いらっしゃい、上がって」
靴を脱いで揃えると真田は嬉しそうに笑っている。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「やだ、気になる」
なんだろう、カップルみたいな会話だな、と思い萌香も笑う。
「ソファに座って待ってて。おつゆよそうから」
「おつゆ?」
「うん、おつゆ。え?なんかおかしい?」
「あ、味噌汁か」
お椀にお味噌汁をよそう萌香を見て真田は納得したようだった。
「もしかして、お味噌汁のことおつゆっていうの北海道弁?」
「うん、多分」
そうだったのか。札幌で生まれ育った萌香は自分はあまり訛りがあるとは認識していなかったので、馴染んだ言葉が方言だと知らない場合が多々ある。
お味噌汁のお椀をビーンズテーブルに置くと真田の横に萌香も座る。
「いただきます」
声が重なるのはお約束になっている。
真田はまずお味噌汁のお椀を取ると一口すすって唸る。
「くぅ、味噌汁は日本人のソウルフードだね」
真田の反応を見守っていた萌香はいつもの自分の台詞を言われてしまい軽く吹き出す。
「え、どうしたの?」
「なんでもない」
「うわ、気になる」
萌香は笑って誤魔化す。
食事は和やかに進み、一通り食べ終わったので食後のデザートにと冷蔵庫で冷やしておいた白玉ぜんざいを出す。
「待ってね、お番茶淹れるから」
そう言って急須に茶葉を入れ、湯が沸くのを待っていた時だった。
真田はのんびりとテレビでニュースを見ている。
「児童ポルノだって。こんなの好きなヤツの気が知れねーわ」
真田の声に振り返り萌香もニュースを見る。
ニュースは児童ポルノを販売していた違法な業者が摘発されたというものだった。
急に吐き気が込み上げ、眩暈がした。シンクの縁に両手で掴まる。
はだけられた布団、意思のない人形、私。
萌香の様子に気づいた真田が慌てて立ち、萌香を支えようとする。
「どうした?顔真っ青だよ」
「触っちゃ駄目!」
悲鳴のような萌香の声に真田が立ち竦む。
萌香はずるずると崩れ落ちそのまま両腕で自分の体を固く抱き締める。震えが止まらない。お湯が沸騰している止めなきゃ。
真田は沸騰している薬缶に気づきコンロの火を止め、そのまま萌香を抱き締めようと屈む。
「触っちゃ駄目なの。私は汚いから。触っちゃ駄目なの」
憑かれたように同じ言葉を繰り返す。
「萌香が汚いってどういうことだよ」
真田ははたと気が付く。
児童ポルノの違法業者が摘発されたニュースを見て萌香の様子がおかしくなったことに。
真田が気付いたことに萌香も気付く。
何処かが壊れたような笑顔で萌香は言った。
「お願い、私は大丈夫だから今日はもう帰って」
そんな萌香の表情に傷ついた顔をしながら、それでも真田はなんとか萌香に触れようとする。
お願いだから、汚れきった私に触らないで。真田さんを汚したくない。
「萌香は汚くなんてない。大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言うなよ」
「私はね、知らない男に自分の体を好きにさせるような女なの。汚れきった女なの」
真田は打ちのめされた表情を見せる。
「私ね、中学生の頃兄に性的虐待を受けてた。それだけじゃない。援助交際ってヤツもやったことがあるの。だから」
私は真田に触れる資格がない。
はんなりとした笑顔で真田に言う。頬が濡れているのは何故。
「お願い、帰って」
もう真田は萌香に触れることを諦めたようだった。俯いたまま動かない。
いっそ優しい声でもう一度言う。
「帰って」
のろのろと真田は立ち上がると何か言いたそうに萌香を見る。
萌香は黙って首を左右に振る。
諦めたように真田は玄関に向かい靴を履く。
玄関のドアを開けて振り返るが壊れたような萌香の笑顔に開きかけた口を閉じ、部屋を出てドアを閉めた。
ドアを閉めるとすぐに萌香は鍵をかける。しばらく経ってから真田の靴音が聞こえた。靴音が完全に聞こえなくなるまで、萌香は玄関に立っていた。
黙っていればよかったのに。
冷静な自分の声が聞こえる。
「駄目だよ、真田さんは汚したくない」
一人呟く。
ビーンズテーブルに出してあった白玉ぜんざいにはラップをかけ再度冷蔵庫へしまう。
食器を洗って番茶を淹れる。ソファにはまだ真田の体温が残っていた。
ニュースを流したまま、惚けたように番茶を啜る。
ふとソファを立つとシンクの下を開けた。包丁が目に入る。
刃を手首に当て、引くさまを想像する。
手首から溢れ、刃に滴る朱珠。
そんなんじゃ何も終わらせられないよ。
冷静な自分の声が聞こえる。
いつもそうだ。生の自分と、それを俯瞰している冷静な自分。
のろのろとシンク下の扉を閉じる。
「明日遅番だ。シャワー使っちゃわないと」
熱いシャワーを浴び浴室を出るとなんとかいつも通りのペースが戻ってくる。
髪を乾かすとすぐに萌香はベッドに入った。
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