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あやしよにふる 天雨の巻  作者: あんみつ
五ノ章 雨障み
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五ノ章 雨障み 八

 どれだけ彼の名前を呼んだだろう。いつしか喉は潰れ、声が掠れてもなおひたすらに呼び続けた。

「あおば」

 初めて彼と出会った時のことが、ついこの間のように思い出される。神になって初めて人と会話を交わした時のこと。寒さと緊張で身体は震える私を、彼は優しい笑顔で迎えてくれた。あの時の、壊れそうなほどの胸の高鳴りも、身体中が湧き立つような高揚も、泣き出しそうなくらいの感動も、きっと一生忘れない。永遠に忘れることなどできない。

「青葉」

 彼と過ごした日々の記憶が、ぽろぽろと流れ出した涙と共に溢れ出す。

 夏の夜、こっそりと二人で出掛け見た祭りの賑わい。喧騒の中に紛れるように、手を繋ぎ寄り添い歩いたこと。

 秋の山、色鮮やかに染まった山の寂しさと美しさ。命が静かに眠ろうとする音を、耳を澄まして聞いたこと。

 冬の道、雪の積もった道に足跡を残していく楽しさ。真っ赤に染まる冷たい頬に、触れあい温めあったこと。

 春の庭、多くの生命が芽吹き、生まれていく瑞々しさ。桜が咲き散りゆく様を、飽くことなく眺めていたこと。

「青葉」

 彼と共に過ごした時間。

 時間と共に重ねた想い。

 これまで生きてきた中で、これ以上愛おしく、かけがえのないものはないというのに。

 全ての思い出も、彼への想いも、彼自身も。

 わたしの宝物だというのに。

 ―お願いだから、奪わないで

 ―彼を、わたしから奪わないで

「…狙いはわたしなんでしょう?…わたし…を…喰べれば済むことでしょう…?」

 遠くで、雷鳴が響く。大地が激しく揺れ、風が吹き荒れているのがわかる。しかし霧は厚く張り巡らされたまま、びくともしない。永遠にこのまま、この世界に取り残されたまま、彼と二度と会えないままになる気がして、そう思うほど心は深く冷たく暗い場所へ沈んでいく。このまま二度と上がっては来れないほどの闇の中に、いっそ身を横たえてしまおうか。そんな投げやりな感情さえ芽生えかけていたその時。

 ザ…ア…

 あれほど濃く張りつめていたのがまるで嘘のように。不意に霧が晴れた。晴れると同時に、冷たい水飛沫が全身を濡らしていく。霧雨のような細かく小さな雫が、地面を瞬く間に湿らせていく。

「あおば…?」

 雨のためか、周囲に死と穢れを纏った異臭は感じられない。いつの間にか日が沈んでしまっていたのか、辺りに光はなく薄暗い闇が一面に広がっていた。先程まで続いていた戦いが嘘のように、雨が地面を叩く音以外何も聞こえず、皐月の終わり頃にしてはいやに空気が冷えていた。足元は天変地異の後のように激しく隆起し或は陥没し、まともに歩けたものではない。目を凝らしながら周囲を見渡し、小山になっていた瓦礫の天辺まで走って登り、そこで足は止まった。

 今いる小山を越えてすぐ下に広がっていたのは、隕石でも落ちてきたかというほど落ち窪んだ大地だった。

 その中心に、巨大な人型の骨がそびえ立っていた。上半身だけ地面から這い出てきたような形で、巨木三本分はありそうな太い背骨に、肋骨、それらを支える腕や手の骨もそのままに。首の骨から繋がっていたのは牛とも馬ともつかない獣の頭蓋骨。下顎が外れており、残った上顎にはずらりと鋭い歯が残っていた。まるで地面から這い上がって来たところを炎に焼かれ、そのまま時が止まったかのように、骨は髄まで焼き尽くされ真っ黒に焦げていた。

「これは…神喰…?」

 これがもし、あの神喰の成れの果てだと言うのなら。

 ―青葉はどこへ…?

 目線を周囲へ泳がせて、はた、とある一点で止まる。神喰の頭の下にあたる場所に、瓦礫とも木とも違う何かが落ちていた。

 ぱしゃん

 無意識にぬかるんだ地面に飛び降り、その何かにそろそろと近付いていく。一歩一歩近付くたびに、心臓は荒れ狂ったように鼓動を早めていく。早く駆けていきたい気持ちは高まる一方で、動かす足はみるみる内に重くなっていく。徐々にそのものとの距離は縮まっていき、やがて輪郭もぼんやりとだが捉えられる所まで辿り着いた。そして、降りしきる雨の隙間から、懐かしい藤色の色彩を垣間見た。それは赤黒く染まった土に横たわり、壊れた人形のようにぴくりとも動かない。雨の匂いに混じって微かに血の臭いが鼻孔を突いた。此の世で最も嫌いなあの臭いと共に。

「・・・・ぁ・・・・ぉ・・・・・」

 冷たい雨に打たれ、静かに眠る彼の姿がそこにはあった。

「―――っいやああああああああああ!!」

 心の中でじっと耐えていた何かが、ピシリと大きな音を立てて崩れ落ちた。感情を抑えることができず、恥も外聞も忘れて泣き叫ぶ。

 声を出さなければ、体中が悲鳴を上げてバラバラに砕けてしまうような気がした。

 涙を流さなければ、あらゆる感情が全て狂い壊れてしまうような気がした。

 悲しみも怒りも憎しみも苦しみも絶望も全てを混ぜ込んだ感情の荒波が狂ったように押し寄せる。

「あおば!おねがいっへんじをして!あおばアアア!!!」

 彼の下へ駆けて行こうとするも、足がもつれ立ち上がることさえできない。雨で大地はぬかるみ、全身泥にまみれていた。どれだけ足掻いても、泥に足を取られ前へ進むことさえできない。

「あおばっあおば――」

「己を保て灯華!」

 頭上から落ちてきた鋭い声が、青葉を呼ぶ声を断ち切った。ふっと頭上に影が差し、地の上で横たわる青葉の姿が遮られる。

 灯華と青葉の間に降り立ったのは鳴霆だった。眉間にくっきりと深い皺を寄せ、眉は吊り上げられ萌黄色の瞳は怒りの炎で燃えていた。

「これ以上踏み込めば、二度と戻れなくなるぞ!」

「―――っ」

 雷の落ちたような怒鳴り声と全身を震わせるような覇気に、灯華は思わず身を竦ませた。全身の力が一瞬にして消え、地に倒れようとする身体を鳴霆によって抱き留められた。

「…ぁ」

 我に返り、ようやく気が付いた。自分の手は人の形を取っていないことに。それは、神の名を賜るよりずっと昔、まだ野山を自由に駆け回っていた頃の狐の前足だった。ただただ人間のことが好きで、人間と生きていきたいと強く願っていた頃の自分の姿。

「心を、鎮めろ。これ以上その姿でいたら、神力を失うぞ」

「…もう、いいんです」

 投げやりに、降りしきる雨の音にかき消されそうなほど小さな声で呟いて、灯華はふるふると首を横に振る。

「このまま、戻れなくなったって…」


 己のせいで、彼を失った。

 己が神であったせいで、彼は死んだ。

 彼のいない世界で、どうやって生きていけばいい。

 彼を失った世界で、どうして神として生きていられよう。

「…あの男が命懸けで守ろうとしたのは、ただの一匹の獣の命か?」

 項垂れたまま動かない灯華に、鳴霆は「違うだろう?」と問う。

「あの男が守ろうとしたのは、神たるお前だったはずだ。命懸けで守られてなお、お前はそれを自ら絶つのか?ならば何のために、あいつは命を懸けたんだ!」

 鳴霆の怒鳴り声は灯華の頭上から降り注ぎ、荒れ狂う心に雷のような一撃を落とした。荒波を立てていた心が一瞬にして凪ぐや、みるみるうちに獣の姿は人のものへと戻っていく。露わになった肌に、冷たい雨が容赦なく突き刺さる。雫一つ一つが小さな針になって、身体中を刺していく。それらは全て流されることなく身体の中にまで食い込み、身体中を蝕んでいく。

 この痛みを灯華は既に知っている。潔斎場で浴びたものと同じ、穢れた者に対する罰たる痛みそのものだ。

 潔斎を受けてもなお、穢れはまだ身体に染み着いて離れていない。犯した罪が、どれだけ重いものだったのか。

 その罪を彼にまで背負わせ、命をも奪ってしまった自分はどれだけ愚かだったのか。

 最初は、ただ子供同士の無邪気な秘密の約束だった。お互い掟を破るという意識もなく、罪悪感もなく、後に降りかかる代償のことなど考えもせず。あの頃の自分が忌々しい。過去の己を呪い殺してしまいたいくらい、憎らしい。

「―――っ」

 胸は荒縄に締め付けられたようにぎりぎりと痛み、息をすることさえままならない。喉の奥から嗚咽がこみ上げる。涙は枯れることはなく、降りゆく雨と共に頬を伝っていく。鳴霆は無言で己の羽織っていた上着を脱ぐと、灯華の身体へと掛けた。項垂れたまま啜り泣く彼女の肩に、上着越しに手を置くと、鳴霆はちらりと背後を見た。霧雨の先に倒れ伏した青葉の姿が映る。

「・・・あの男は、死して罰を負い、罪を償った」

 怒りか、哀れみか、鳴霆がどんな表情で以て彼を見つめていたのか、見た者は誰もいない。振り返って、未だ顔を上げぬ女神に視線を移す。彼女の肩に置く手に、力が籠る。

「お前は生きて罰を負い、罪を償え」

 それは、これから数十年、数百年と続いていく、天つ罪を負った者への冷酷な宣告。

 灯華が力なく頷くと、二柱の姿は霧雨の中に隠れ、やがて消えた。

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