表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやしよにふる 天雨の巻  作者: あんみつ
五ノ章 雨障み
26/38

五ノ章 雨障み 七

印を結んでいた指を解くと、青葉は浅葱の肩を借りながら恐る恐る立ち上がった。少し頭が振れるだけで、目の前の景色は明滅する。血を流し過ぎたためか、眩暈も吐き気も酷い。左目を損傷したのか、左目から見える景色は全て赤に染まり、視界は霞み隣にいる式神達の輪郭すら曖昧だった。腕も指も足も胸も、身体のあらゆる部位が軋み、悲鳴を上げている。神喰から受けたたった一撃が、元々底を尽きかけていた体力を完全に潰していた。全身がけだるく、気を緩めた瞬間意識は飛び、二度と元には戻らないと本能で悟る。今にも肉体から離れようとする魂を、ただ一つの想いだけを頼りに繋ぎ止める。

 ―彼女の生きる、京を守る

 その意思のみが、今や身体を動かす唯一の手綱だった。


「あさぎ、あや・・め・・・・」

「言わなくても大丈夫だ。青葉」

「わかっているわ。貴方の式神なんだから」

 青葉の両側に寄り添うようにして立つ式神は、前方―もがき立ち上がろうとする神喰を睨みつけたまま頷いた。

「これでがっつり、終わらせるんだろ?」

 肩に回された青葉の腕をしっかりと握り直し、浅葱はふいっと主の顔を見た。両頬を上げ、にっと歯を見せて笑いながら。その笑みに釣られるように、青葉も口の端を僅かに持ち上げた。

 瞬間、三人を取り巻くように暖かい風が巻き起こる。その風に浅葱と菖蒲は淡い粒子となって溶け込み、青葉を包む。血に染まった髪が揺れ、焦げ千切れた衣が靡く。風に乗って羽のように軽かに京の空へ駆け上がると、四肢をつきながらよろよろと顔を上げた神喰を上空から見下ろした。ありったけの力を二発もぶつけたにも関わらず、まだ立ち上がってくるのはさすが神喰というべきか。

 しばし周囲を見渡していた神喰が、頭上で待ち受ける青葉を見つけ威嚇の咆哮を上げる。天を切り裂くような咆哮に空気は震撼し、禍々しい気が青葉の肌をちりちりと焼く。本来、神喰は神の力に惹かれ地上を徘徊し、神の力を得るために神を襲う。奴の本来の目的であった神がほんの目と鼻の先にいるにも関わらず、今や己に危害を加えてきたたった一人の人間に全意識が向けられていた。

 ―それでいい。

 狐の君には、この空間から気配も存在も隔絶させる結界を張った。これで狐の君に危害が及ぶことはない。

 朧げな視界の中で微かに見えた彼女は、名の通り黄金色の美しい毛並をした狐の姿をとっていた。姿はすっかり変わっていても、栗色の丸い瞳だけは変わらなかった。彼女は自分に、「逃げろ」と言っていたような気がする。心優しい彼女のこと。恐らく自分を逃がし、自ら神喰に喰われようと考えていたのだろう。

 ―けれどそんなこと、させられるはずがない

 狐の君の命は、そんな軽いものではない。

 彼女を失うことは、京の都に住む者の命全てを失うことと同義なのだから。

 この地の宝たる彼女を、お前などに喰わせてなるものか。

 その宝を守るためならば、己一つの命など、惜しくない。

 ―お前はこの地で果てろ―神喰

 ―果テルノハ貴様ノ方ダ

 そう言ったように、ギチギチギチ、と鋭く生え揃った歯を鳴らし、神喰は大地を蹴り出し大口を開けて飛びかかってきた。一蹴りの跳躍で青葉の足元まで迫った神喰を、青葉はひらりと風に乗ってかわす。極力最小限の動きをしようと心掛けるも、全身の骨は軋み、筋肉は切り刻まれるような激痛を発す。耳元で、邪気を纏った風が唸り掠める。宙を足で蹴って、更に上空へと回避して下を見やると、一度地上に落ちた神喰が青葉を視界に捕えたまま、再度飛び上がる機会を窺っていた。口内に鉄の味がじわりと広がって、軽く咳込んだだけで赤い飛沫が宙に飛ぶ。

 ―時間がない、早く…

「準備はできてる。いつでもいけるわ」

 風に溶け込んだ菖蒲の声が、青葉の頭に直接響く。

「お前の身体は俺らが守る。集中しろ」

 続いて響いた浅葱の言葉に、青葉は痛みを抱える両手の人差し指と中指を立て、重ね合わせて目を閉じた。

 大きく息を吸って吐き、全神経を身体の中心に据える。真っ暗になった視界の中で、徐々に外部の気配が遠のいていく。耳元で唸る風の音も、鼻を突く臭気も、肌を切りつけるような邪気も、目の前にいるはずの神喰の気配も、全身を駆けずり回る痛みすら身体から離れていく。代わりに身体の底から眠っていた何かが練り上げられる感覚と共に、身体がぐっと熱くなる。

 頭の頂点から爪先に至るまで、ありとあらゆる意識と力を引き換えに、呼び起こすのは四天を司る神々の力。

 薄弱な命の代わり、生まれ以て授かった陰陽師として最も強固で誉れ高い霊力。神に最も近いと言われる、神通力と呼ばれる力。その力を持つ者だけが扱える秘術。

「…玄武司りし玄北の力、悪しきを封じる水牢と成れ」

 真っ暗になった意識の底で、湧き上がってきた言葉を紡ぐ。すると、静かに紡がれた言葉に応えるように、神喰の周りの大地が突如として裂け、神喰の身体よりも大きい水柱が四方から爆音と激しい水飛沫を散らし湧き上がった。大量の水は意思を持ったように一斉に神喰に向けて倒れ込み、神喰を呑み込んだ。

「白虎司りし白西の力、悪しきを貫く剣と成れ」

 どこからともなく現れた鋼色の光の帯が、水牢に閉じ込められた神喰の周りを取り囲む。光は瞬く間に、無数の人の身体よりも遥かに大きい剣となった。その切っ先が中央―神喰に向き、一斉に見えない力によって放たれた。剣は我先にと水牢を突き破り、神喰の全身に深々と突き刺さる。

 ギギギギギギ

 神喰の身体から出血はない。けれど痛みは感じるのか、突き立てられた剣を薙ぎ払うように身体を震わせ、激しくのたうちまわる。けれどその動きも、囲んだ水牢の力によって阻まれた。

「朱雀司りし朱南の力、悪しき身を焼く焔と成れ」

 ギィィィィアアアアアアアアアア

 水牢の内部で炎と轟音が巻き起こり、苦悶の鳴き声を上げながら神喰の姿が炎の渦の中へと消える。紅い炎と黒煙が絡み合うように蠢く水牢の表面は、内側からの圧と熱により多少歪みを見せたが、決して崩れることはない。

「―青龍司りし青東の力、悪しきを閉じる大門と成れ!」

 青葉の言葉に呼応するように、大地が激しく隆起し、次いで太く巨大な木の根が次々と地を突き破って現れた。それらの根は瞬く間に水牢を巻き込み完全に覆い隠すと、そのまま再び地下へと沈み込んでいく。

「ッ・・・は、・・ぁ」

 詠唱を終えた瞬間、手放していた全ての痛みが怒涛の如く押し寄せ、青葉の四肢を千切らんばかりに掻き喰らった。後頭部は思い切り殴られたような鈍痛が襲い、荒縄できつく首を締め付けられたように息ができず、胸は焼けた銅でも飲まされたように熱く掻き切るように痛んだ。神喰の様子を確認する余裕はなく、次々と襲い来る激痛の波に飲み込まれる。先程までの集中力は四散し、身体を支えていた風までも散った。傾き、今にも真っ逆様に落ちていこうとする身体を、浅葱色の風が包み込み、体勢が無理矢理保たれる。

「青葉!しっかり気を保て!まだ――」

 脳裏に響いた浅葱の声を遮るように、ボゴン、と大きくくぐもった音が真下から聞こえた。青葉は僅かに覗く視界から、音のした地上を見る。

「!?」

 それは地上から殆ど姿を消していた水牢の表面が弾けた音だった。破れた水牢の隙間から煤けた骨ばかりになった指が、手が、腕がこちらへ勢いよく伸びてくるのが見えるのと、青葉と神喰の間に菖蒲が割り込むようにして現れたのは、同時だった。

「避けて!」

 菖蒲は咄嗟に身を翻し、青葉の身体を伸びてくる腕の軌道から弾き飛ばす。しかし長く伸びた指は、止まることなく彼女の身体を絡め取り、いとも容易く握り潰した。

「―ぁ…っ」

 菖蒲の名前を叫ぼうにも、締まった喉では僅かに息が漏れるだけ。

「―逃げろ、青葉ああ!!」

 姿の見えない浅葱の怒鳴り声が、途切れかけていた青葉の意識を一気に引き戻す。そして気付いた。地上から這い上がって来たのは、神喰の腕だけではないことに。蛇のような細長い真っ赤な瞳の中にある、縦細い真っ黒な瞳孔と目が合った。自分の背丈よりも大きな歯の並ぶ上顎が、自分めがけて振り下される。

 ―避けなければ

 頭でそう思うものの、身体が言うことを聞かった。振り下される歯よりも先に、目の前に鮮やかな浅葱色が映し出される。物心ついた頃から、ずっと一緒だった式神の姿。優しく、気弱だった自分を時に強く厳しく、慰め支えてくれた、双子のような存在。浅葱が、泣きながら何かを言っている。けれどもう、その声すら届かない。何かが打ち付けられたような衝撃が腹部に走った。同時に世界は光を失い、暗転する。

 痛みすら、もう感じることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ