五ノ章 雨障み 六
「青葉！！」
目を凝らし見上げた先に、彼はいた。遥か上空、真っ暗な夜の闇に唯一瞬く星のように。白い衣を纏った青年の姿が確かにあった。
そして彼の目の前に、山のように佇む暗雲があった。否、暗雲に見えただけでそれは確かに『生き物』だった。身体全体を真っ黒に染めたその姿は、まるで地に伸びた影がそのまま立ち上がったかのように見える。影のような身体から伸びる四肢は巨木のように太く、二足歩行で一歩ずつ歩を進める度、大地は大きく落ち窪み、激しく振動した。本来頭のある部分には、長く鋭い二本の角を額に生やした牛とも馬とも似て似付かぬ動物の骨が乗っており、ぽっかりと空いた両目の穴からは赤く光る蛇のような細長い目が覗いていた。短い無数の牙を上下に生やした口の間からは、血を満たしたような紅蓮の舌が見え、大きく開いた口からは空を引き裂くような雷鳴に似た轟音を響かせた。
「あれが…神喰…」
一見しただけで灯華の全身が総毛立った。命そのものが「逃げろ」と全身を震わせて叫び、思わず足が竦む。
しかし神喰を目の前にして、青葉には一歩も逃げる素振りは見られなかった。神喰もその小さな存在に気が付いたのか、細い目をますます細めて青葉を見据えた。青葉が顔を上げ、神喰の視線を真っ向から見返す。不意に彼が、右手に掴んでいた衣を手放した。衣はまるで生きているかのように彼の背に留まりはためく。両手で印を結び、その印を口元に添える。同時に、ゴウッと激しい風が地面から吹き抜けると、たちまち神喰の足元から竜巻が発生し、その巨体を覆いつくす。更に竜巻の内に蒼白い光を纏った無数の風の刃が現れたと思うと、それは間髪入れずに黒い体に叩き込まれる。
ギヤアアアアアアアアアア
天を貫くような悲鳴が、雷鳴のような轟となって都の空気を震撼させた。大地は上下に激しく揺れ、唸り声をあげた風によって大気は掻き乱される。辺りで燻っていた火は風によって勢いを増し、火の粉を散らして掻き混ぜられるようにして宙を踊り狂い、かろうじて形を残していた建物も跡形もなく崩され、吹き飛ばされた。
一瞬にして地形をも破壊した嵐に、神喰の身体は一瞬傾いたように見えた。一方の青葉は頭上に佇んだままおり、周囲を数えきれないほどの青白い光の刃が包んでいた。印を結んでいた両手をそのまま、神喰に向けて振り下す。容赦のない天からの刃の雨が、神喰を貫き喰らう。躊躇いもない、激しく苛烈な力だった。その小さな身に宿した力は、まさに神と渡り合うほどに強大だった。
しかし、その力を振るう器はあまりに薄く、脆い。光に呑まれるようにして沈む影を頭上から見下ろしていた青葉の身体が、がくりと力を失ったように傾いた。身を屈め、胸を僅かに抑えているようにも見える。先程までの覇気のある様子とは違う。
―青葉は病弱だからなー。あんまり無理しちゃダメなんだよ。
灯華の脳裏に、青葉の式神である浅葱がかつて溢した一言が鮮明に響く。その言葉を思い出した瞬間、全身を粟立てるほどの胸騒ぎが駆け巡った。震える喉の奥から必死に声を絞り出す。
「逃げて、青葉…」
突如、光に沈んでいた影がもがくようにして暴れ出し、一本の長い腕が鞭のように宙を抉り、
「逃げて――ッ！」
反応の遅れた青葉の身体を捕える。まるで人の手に軽く払われた羽虫のように、青葉の身体は一瞬にして地面へと叩きつけられた。
「青葉ああ！！」
悲鳴とも狂乱ともつかない声を上げながら、灯華の身体は弾かれたように墜ちた青葉を追って一目散に駆けた。
心臓は狂ったように暴れ、呼吸すらままならない。崩れた屋敷の残骸をいくつも飛び越え潜り、焼けた木や家財を踏み越えて、ようやくその中に埋もれるようにしてうずくまる、薄汚い布に包まれた人影を一つ、見つけ出した。同時に強い血の臭いが鼻孔を突き、反射的に呼吸を止めた。それは自分がこの世で最も嫌悪する臭い。否、神故に避けなければならない穢れた気。
むせ返るような臭いはどっと肺の中へと押し入るや否や、無数の針を体内から刺されているような痛みを発した。それに呼応するように、先程まで忘れていた潔斎での痛みが蘇り、思わず足を折りその場へと倒れ込む。
「――っぅ」
早く青葉の姿を確認したいという灯華自身の気持ちを、これ以上立ち入っていては身体がもたないという神としての本能が抑え込む。相対する身心の意思が、灯華をその場に押し留める。
「あお――」
「ここへ来ては駄目！」
名前を呼ぼうとした瞬間、青葉と思える人の周りを浅葱色と菖蒲色の光が包み込んだ。その声は、青葉の使役するもう一体の女型の式神、菖蒲のもの。驚き目を見張る灯華の目の前で、白い布はずり落ちた。その下からは、ずっと会いたかった人の横顔が覗く。
しかしその横顔は、もはや灯華の知っている青葉のものではなかった。額や口からは血が流れ藤色の髪は赤黒く変色し、三つ編みに結っていた髪も解けてしまっている。眉間には深い皺を刻み、瞳を固く閉じたまま。息は浅く早く、全身を駆け蝕む痛みを必死に抑えているようでもあった。その身体すら、どこもまともに見られたものではなかった。衣は今やどこも焼け焦げ切り裂かれて原型を留めてもおらず、血と煤で染められて元の白さなど欠片も残していない。衣で隠れた体がどうなっているのかなど、恐ろしいほど容易に想像がついてしまう。
「これ以上、青葉に近付かないでください…」
青葉を包む光が強くなり人の形をとったと思うと、やがて二人の式神が現れる。二人の姿も青葉と同様に傷を負い、疲弊した様子で主の肩を抱き支えたまま、顔だけを灯華に向けていた。
「どうして来ちゃったんだよ…っ青葉は、貴女からあいつを…遠ざけるために戦ってるっていうのに！」
唇を噛み締めながら、浅葱が苦々しげに吐き捨てた言葉には、苛立ちの色すら窺い知れる。
「青葉の意思を、無下にする気かよ！？」
「…違うの、わたしは―」
「――こ・・の・・こ、え・・・狐、の・・き・・・み・・？」
叫んだ灯華の声に意識を取り戻したのか、青葉は僅かに目を開けた。微かに開かれた口からは声と共に血も吐き出され、唇の縁を血の線が垂れ伝わっていく。灯華の姿を探すように首がぎこちなく左右に触られ、ようやく傍で立ち竦んでいた灯華を捉えた。左目の瞼が切れているのか、殆どその目は開かれてはいない。
その目に見据えられた瞬間、灯華は思わず喉から這い上がって来た悲鳴を唾と共に押し戻した。血の臭いをより一層濃くしたような、枯れ果てた地の臭いのような、腐りかけた肉のような―濃密な、死の臭い。
青葉にまとわりつくようにして漂っていた異様な異臭に、本能が拒絶する。恐らくは神喰の近くに寄り過ぎていたために、神喰そのものが放つ臭いが移ってしまったのだろう。
―これ以上、己の意思では彼に近付くことはできない。
その事実を自らの身体が証明し、その事実に灯華は愕然とした。血と死の気を放つ青葉は最早、灯華にとっては忌避すべき穢れそのものとなっていた。
「・・狐の・・君・・？その・・姿・・は・・・」
息も絶え絶えに紡がれる声は、聞き取ることがやっとなほど細々として、生気など殆ど失われてしまっている。
「青葉、に、ここから、離れてもらいたくて…ここまで追って、来たの…」
今にも逃げ出そうとして震える身体を必死に抑えて、うまく動かない唇で言葉を手繰り寄せる。奥歯がカチカチと鳴るのが聞こえる。今すぐにでも駆けていって、彼を支えたい。けれどそれが出来ぬ身なのだという現実を突き付けられたことが、悔しくてならなかった。あとほんの数歩、歩くことが出来たら届く距離なのに。
どうしてこんなにも遠いのか。
―それでも、彼の代わりにならまだなれる。ならなくてはならない。
酷く怯え今にも崩れそうな己の心を奮い立たせ、真っ直ぐに彼を見た。
「もう、いいの…もう、戦わなくてもいいから…此処から、逃げて？あとは、わたしが…」
「いい、え…」
灯華の言葉を遮るように、青葉はふるふると首を横へと振った。そして傷だらけの両手をゆっくりと持ち上げると、短く印を結び、人差し指と中指を立てた右腕を灯華に向けた。
「青葉…？」
「・・あなたを・・ここで・・失うわけにはいかな・・い・・。京の・・ひと・・と・・・あなた・・の・・た、め・・い、きて・・」
青葉の指先から零れ落ちた光は、煙のように灯華の身体を包み込む。
「ぼく・・と、は・・こ、こ・・で・・おわか・・れ・・です・・」
霧の檻に閉じ込められたように視界は霞み、青葉の姿をもひた隠す。
「・・さよなら・・、愛しの・・きみ・・・」
「！？いやっ待って…待って！青葉！！」
霧の向こうで、ジャリ、と土を踏む音が聞こえたのと同時に、青葉の気配がどんどんと遠くなる。離れていく。また、神喰の元へ向かおうとしている。二度と、戻れないことをわかっていて。
霧の檻を抜けようと足掻くも、その霧は晴れることはない。穢れを負った青葉の気配が離れていくにつれ、身体中を刺していた痛みが徐々に和らいでいく。そのことに密かに安堵している自分がいることが憎らしい。早神の身である自分が許せない。
「いかないで…青葉、いかないでえ…っ！」
どれだけ懇願したところで、厚く漂う霧は向こう側の景色の欠片も見せようとはしない。
二人の世界は、完全に閉ざされた。
