表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやしよにふる 天雨の巻  作者: あんみつ
五ノ章 雨障み
23/38

五ノ章 雨障み 四

目を覚ますと、そこはいつも寝起きをしている、見慣れた社の中だった。視線を僅かに周りへ移すと、身体は真っ白な敷布に横たえられており、上からは衾が掛けられていた。敷布に手をつき上体を起こそうと試みたが、全身凍りついたように冷たく、また鉛のように重く動かない。それだけではなく、足の先から指の端まで痺れ、皮一枚から骨の髄まで軋み痛んだ。それでも灯華は僅かにうめきながらもゆっくりと体を起こす。頭が割れるように痛み、いまだに揺れている感覚が消えない。

「灯華様!目を覚まされたのですね…!」

 灯華の動く気配を察したのか、脇に座っていた盲目の宮司、恵がすぐさま彼女の傍へと寄り添い、背中に手をまわして身体を支えた。随分と久方ぶりに感じたぬくもりに、灯華は深く安堵する。

「まだ、身体が痛むのですか…?」

「ありがとう、恵。私はもう…」

 ―その痛みが、貴方が犯した罪によって負った穢れですわ

 大丈夫。と言いかけた時、潔斎場で伊豆能売が言い放った言葉が心に響いた。

 ずしんと、その言葉が胸の奥に重く固い錘となって落ちる。

 人の言葉とぬくもりが、いつでも自分を癒してくれた。自分はそれが好きで、だから人の傍に寄り添える

 神になることを望んだ。

 初めて触れた人の体温は、やはり温かくて、優しかった。

 初めて聞いた人の言葉は、素直で、慈愛に満ちていた。

 しかしその温もりを知り、近付き過ぎた末路がこれだ。

 ―私は、許されざる罪を犯した。

 ここに来てようやく、その事実が胸に突き刺さった。体中に居座る痛みが、これが証拠だと言わんばかりに全身を走る。伊豆能売は「この痛みが消え去るまで、水から上がることは許さない」と言っていた。それはつまり、まだ穢れは自身の身体に残っているということ。

「まだ痛むのでしょう?」

 顔を上げれば、いつの間にか目の前には水色の長い髪を持つ、麗しい男神が立っていた。彼は、灯華が神となる前から鳴霆と共に自分の面倒を見てくれた水神、澪浹。神とはなんたるものか。それを幼い自分に説いて教えてくれた、兄のように慕う存在。「人と深い関わりを持ってはいけない」そう初めて教えてくれたのも彼だった。申し訳ない気持ちはもちろん、今や自分には「神」を名乗る資格さえなく、彼らと話す権利すら失った気がして、灯華は澪浹の視線から逃れるように俯いた。

「…事情は、全て鳴霆から聞きました」

 彼が吐き出した深い溜息に、自分への失望の念と、自分の犯した行為を責める意図を感じて、灯華はますます体を縮こませる。俯いたまま顔を上げようとしない灯華の目の前に、澪浹は風呂敷を差し出した。

「伊豆能売殿から預かりものです。受け取りなさい」

「…ありがとう、ございます」

 灯華は澪浹の手の中にある物を一瞥すると、ゆるゆると手を伸ばしてその風呂敷を受け取ると、拙い手つきでその結びを解いていく。

「身に付けてあった物は、全て捨てさせてもらいましたよ。一度ついた穢れは、そう簡単には落ちませんから」

 包みの中から現れた物を見て、灯華は一瞬、時間が止まったかのように凍り付いた。

「勿論それも…否、それが一番『人の穢れ』が詰まっていたので、即刻処分するはずだったのですが…」

 そこにあったのは、灯華が初めて人に貰った―青葉のぬくもりの残る、髪飾りだった。

「貴女がどうしても、それだけは手放さなかったのですよ。潔斎を受けてすぐ、ろくに動ける身体でもないのに。伊豆能売殿から奪い取るようにして、必死に腕に抱いて。…その様子では、覚えてはいないようですが」

 そう言われて、灯華は戸惑うように頷いた。確かに、そんな記憶はどこにもない。あの潔斎場の中で覚えているのは、真っ暗な水底で最後だ。

「本当に無意識に動いていたんですね。―それに付いていた穢れは、後で駆け付けた告曜が一切を『受けて』くれました」

 穢れを負った告曜という名に、灯華は弾かれるように顔を上げた。鳴霆、澪浹、告曜。この三柱はいずれも灯華と親交が深く、中でも厄を司る告曜は、その性質上病弱な体の持ち主でもある。その神が此度の穢れを受けたとなれば、その苦しみは想像しただけでおぞましい。

「告曜さんは、大丈夫だったんですか!?」

 潔斎場での痛みを思い出し取り乱す灯華に対し、澪浹はどこまでも落ち着き払い、眉ひとつ動かさない。

「今は社に戻って休んでいます。後で礼をしなさい。それより…これで、わかったでしょう?」

 不意に、澪浹の声色が変わる。灯華を気遣うそれではない。どこまでも冷静で冷徹な、『神として』の彼の声。

「貴女にとっては、神となって初めて心寄せた人間との交流だったかもしれません。けれど、貴女は豊穣を司る国つ神なのですよ?決して、人間の娘などではない。貴女が想うべきは、慈しむべきは、たった一人の人間ではない。 何百、何千、何万と居る貴女を信仰する人間達のはずです。―それがたった一人の人間に寄り添うことで、どれだけの影響が出たと思います?」

「…」

 感情の一切籠っていない、淡々と告げられる言葉は、灯華に容赦なく現実を突きつける。

「貴女は、貴女だけで神として存在できるわけではない。人の信仰と、周りの神との調和があって初めて成り立つものです。貴女の行動一つで、貴女に関わる者達へ計り知れない影響を与える。それが善きことであっても、悪しきものであっても同様です。…いい加減、それを自覚しなさい!」

 冷静沈着。まさにその言葉の通り、普段は決して感情を表に出さずにいた彼に、初めて「怒り」の色が露わになる。その静かで激しい怒りに、灯華は息を呑んだ。社の中にいた誰もが黙り込み、灯華へと視線を向け、彼女の言葉を待った。その視線の中心で、彼女はその沈黙に耐えるように黙り込んだまま。誰もが動かず、それぞれの呼吸しか聞こえない。

「主様!」

 その沈黙を打ち破るように、パアン、と力強く扉を開く音が部屋中に響き渡った。場にいた全員の視線が一斉に本殿の入り口へと集中する。そこに走り込んできたのは、一人の真っ白な女性―澪浹の神仕、琉沱だった。

 彼女は肩で息をしながら、額に流れる汗も拭わず、息を整えることも忘れて告げる。

「主様…かみぐい…神喰が、現れましたわ…」

 その名前に、全員が凍りついた。

「神喰が?どうしてここに…」

 眉間に皺を寄せ問う澪浹に、琉沱は困惑したように首を振った。

「それはわかりません。…ただ、今奴と戦っているのはたった一人の人間で…」

「愚かな」

 澪浹は吐き捨てるように言い放った。

「ただの人間が一人で立ち向かったところで、勝てる相手ではないというのに」

「人間…ということは、陰陽師でしょうか?」

 それまで黙っていた恵が不安げに琉沱へ訊ねたが、彼女は口を開こうとして、慌てたように噤んでしまった。

「青葉殿だ」

 黙り込んだ彼女の代わりに答えたのは、いつの間にか琉沱の後ろへ立っていた瑞穂一族の守護狐、火守だった。

 青褪めた表情のまま、火守はもう一度はっきりと告げる。

「…青葉殿が、一人で戦っている」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ