大きな白い羽根
僕は話す事が出来ない。ベッドから起き上がる事も出来ない。でも、幼稚園までは普通に過ごしていた。普通に歩けたし、走れたし、話す事も出来た。
お母さんは、一人で僕たちの事を育ててくれた。一緒に散歩もしたし、運動会でも一緒に走ったし、秋にはいも堀もした。一緒にクッキーも作ったし、お団子も作った。僕はいつも笑っていた。お母さんもいつも笑っていた。
お爺ちゃん家に泊まってカブトムシを捕りに行った。動物園にも行った。ホタルも一緒に見に行った。淡い灯りがふわふわ飛んでとても綺麗だった。お空にドンと上がる花火がキラキラして眩しかった。
楽しい事を沢山、沢山経験した。だけど僕は、小学校に入学して直ぐに病気に成った。そして寝たきりに成った。僕は笑わなく成ったし、お母さんも笑う回数が減った。僕はもう二度と歩く事も走る事も、お母さんを笑顔にする事も出来ないのかな……
いつの間にか動かなくなった僕の体。もう何年世の中を見ていないだろう。僕は自由に成りたかった。ある日、そんな僕の背中に大きな羽根が生えてきた。
僕は鳥に成れたのかな。
体がふわふわと軽やかに、空へと舞い上がっていく。僕は行きたかった所へどこへでも行ける。
山だって、海だって、遊園地だって、水族館だって、外国にだって、空を自由に飛んでどこへでも行けるんだよ。
楽しくて、楽しくて、僕は思い切り羽根を動かした。大きく羽ばたいたよ。
驚いた鳥達が逃げ出したよ。空から僕が近付いたら、犬も猫も猿も、皆、皆、逃げて行ったよ。そうだよね、こんなに大きな鳥は居ないものね。
でも、楽しかった。全てが愉快だった。
雲の中に入ってみたよ。霧の中に居るみたいに何も見えなかった。雲ってもっと固まってて、柔らかくって、綿の様な、綿菓子の様な固まりだと思ってた。でも違ったんだね。
僕はいつも病院のベッドの上で、歩く事も無く。外に出る事も無く。誰と話す事も無かったから、何も、何も、知らなかったんだ。
世界って……広いんだね。
こんなにも空は青くて、雲はとても白くて、風は柔らかくて速くて冷たくて、お日様は、とても、とても、あったかで。そして、色んな音がするんだ。
水の流れる音。風が耳元を通り過ぎる音。人々の笑い声。鳥達のさえずり。木の葉がざわざわと揺れる音。どこからか聞こえてくる電子音。スピーカーから流れる軽快な音楽。遠くで轟くエンジン音。
全部、この世界を彩っている。
まるでオモチャ箱の様だ。
空から町を見下ろすと、小さな箱庭の様で、いつか雑誌で見たジオラマの様で、本物の世界では無い気がしたんだ。
町を分断する様に、大きな川が流れている。川ってどこから生まれるんだろう。
川下から流れに逆らって、水面ギリギリを低空飛行する。指先を水の中に差し込む。川の水って冷たいんだね。魚が沢山居る筈なのに、水面が反射して良く見えない。
大きかった川幅は段々狭く成り、コンクリートだった土手は、水草や木や大きな岩に姿を変える。真っ直ぐだった流れは、右へ左へ、曲がりくねっている。二つに別れる川を山の方へ進んだ。何回も別れる川を、必ず山の方を選んで進んだ。
水はますます冷たく成る。魚たちは寒くないのかな。冬に成ったら、凍えたりしないのかな。僕はそんな事を考えながら川の上流を目指したんだ。
林の中の小さな滝を何度も飛び越えて、ささやかな水の流れを、更に上へ。
やっと見つけた川の始まり。この川は、木の根を伝って垂れてくる滴が川の始まりなんだ。凄いな。こんな小さな水滴がより集まって大きな流れに成る。自然て、とても偉大だ。
羽根が生えてからこれまで、僕は何度目かの感動を覚えた。
山の頂上まで、一気に羽ばたいた。山って、真上から見るとこう成っているんだ…。僕は又感動した。
山の上空をくるくると飛び回る。自然て凄いな、大きいな、雄大だな。
山裾に降りてみる。何時間経ったんだろう。太陽は西に傾き、空は茜色に萌えていた。雲も橙色に輝いていた。
僕はふと、お母さんに会いたく成ったんだ。僕の家はどこかな。山の麓の赤い屋根。羽根を羽ばたいて探してみる。
あった。あそこ。
僕が入院している間に、卒園記念に植えた桜の木はとても大きく成っている。子犬だったシロは、だいぶお爺ちゃんに成ったね。家の周りを飛び回り中を覗いて見る。家の中には居ないみたい。僕の病室に居るのかな……
僕は、病院のある方角に飛び立ったよ。流れる車を追い越して、自転車の人も追い抜いて、病院に着いた僕は病室の窓からそっと覗き込んだ。
お母さんが泣いていた。僕の横たわるベッドに覆い被さって、声を上げて泣いていた。親戚の叔父さんもお兄ちゃんも、妹も、皆、皆、泣いていた。
そうか……、僕は死んでしまったのか……。魂だけに成ってしまったのか。
お母さん泣かないで、僕はここに居るよ。僕は自由に成れたんだよ。動かなかった体も動く様に成ったよ。歩ける様に成ったよ。走れる様に成ったよ。それよりも何よりも、僕は飛べる様に成ったんだよ。
でも僕の声は聞こえないんだね。哀しいけど、お別れなんだね。
今まで、いっぱい愛してくれて有り難う。楽しい話しをしてくれて有り難う。いっぱい笑い掛けてくれて有り難う。
僕は幸せだったよ。お母さんの子どもに生まれて幸せだったよ。だから泣かないで。早くいつもの笑顔に戻ってね。
もう行くよ。さよならだね。
ありがとう。 ありがとう。
さよなら。さよなら。
僕は、大きな羽根を動かした。動かし続けた。空へ空へ、高く高く、どこまでも高く。
そして僕は、光りの粒に成って消えたんだ。